はらぺこヴァンパイア 作:棗の
ゆったりとしたビジネスカジュアルのような余所行き用の服に、目元を強調した威圧感のあるメイクをしていた。
流した涙でいくらか落ちてはいるが、あえてメイクを直しはしなかった。
傍らの三浦
悲痛な面持ちで、長テーブルの模様をなぞるように目を伏せていた。
向かいには二名の男性がいた。
つい先ほどまで、別室でモニタリングをしていた刑事である。
一美にとっては知らない人物ではなかった。あの時は動揺しすぎて覚えていなかったが、
一年前は、数少ない娘への手がかりへの懸け橋になりうる頼れる救世主だった二人。
しかし今は、娘の夢を妨げる二人となっていた。
社会の安全を守り、人々に安心して生活を送ってもらえるよう、日夜凶悪犯罪者たちと戦う正義の味方たち。
梓が行方不明になった時も、夜通し捜索してもらえたし、マニュアルに沿った回答だろうが慰めもあった。
梓が闇の中に消えた悲しみをほんのわずかでも和らげることはできていた。
彼らはもしかすると梓が通学するときに遭遇したはずの犯罪者を、事前に逮捕してくれていたかもしれなかった。
自分や夫が巻き込まれたはずの犯罪を、未然に防いでくれたかもしれなかった。
たくさんお世話になっている恩人ともいえる。
だが、今は梓の未来への妨げになっている。
梓はヴァンパイアだから。
捜索願が取り下げられないと、梓が学校に行けないから。
それだけで一美にとっては、対立する理由として十分だった。
「……娘さんには大変な心労をかけてしまっていること、改めてお詫び申し上げます」
厳めしい顔つきの壮年の刑事が、僅かに首を傾けそう言った。
一美も浩平も、それよりも幾分深い角度でお辞儀した。
「ですが、娘さんに危害を加え、一年もの間監禁した自然回帰派組織の実態を掴むため、どうしても娘さんの証言が必要なのです。どうか今しばらく、ご辛抱頂きたいです」
それは下手に出ているようで、しかしその実、拒否権など無い一言だった。
何かしらの手がかりを吐くまで娘を返す気はない。
そう言っているようだった。
彼らの言い分もわかる。
一美が数日かけて作った嘘のストーリーは、市民の安全を揺るがしかねない深刻な物だ。そうなるように作ったのだから。
痕跡の無い行方不明者が都内や
それがおそらく、娘か、あるいは娘をヴァンパイアに変えた悪魔がやっていることだとも気づいている。
警察がそれに全力で当たることも想定していた。
娘があの手この手で”尋問”されることも想定していた。
だからこの一週間、梓に演技指導をした。
浩平と協力して、存在しない自然派カルトの物語を作り上げた。
そんなことしたくはなかった。
自分がこれ以上なく醜く、邪悪だと思えた。
ただ、一年も行方不明となった未成年の
警察を納得させねば、梓は社会から存在しない人物として扱われ続ける。
そんなことを看過する気はない。
深い絶望の中でも前を向いて、再び歩もうとする娘の邪魔などさせない。
全てを偽るしかない。
そのためなら、社会と敵対し罪人にでもなる。
これはただのエゴだ。
「……成果はありましたか?」
一美は冷たい口調で言った。
「…………誠に申し上げにくいですが、芳しい成果はありません。娘さんは、自然回帰派組織の拠点や、主要人物について、覚えていない、思い出したくないと仰っています」
刑事は口調の端に、僅かな苛立ちを滲ませていた。
「覚えていないことを、掘り返すつもりですか?」
「……その自然回帰派組織を放置すれば……最悪の場合、娘さんへ報復するために、何かしらの行動を起こすかもしれません」
もし本当にそんなものが存在するならそうだろう。
しかしそんなものは存在しない。
「それが……っ。娘を……娘を、傷つける言い訳ですか?」
一美は言葉に詰まったふりをして、言葉を選び投げつけた。
壮年の刑事の眉が、ぴくりと不快そうに動いた。
「……娘をあなた方が拘束して、一時間半になります。一時間半も娘を傷つけ続ける言い訳が、それですか?」
一美は長机の上で拳を震わせた。恐怖を押し殺すように。
「……今しがた、ご辛抱をいただきます。どうか、ご理解を」
一美はふうっと息をついて、傍らに置いた鞄から、クリアファイルを取り出した。
そこから緩慢な動きで一枚の紙を取り出し、刑事の方へ向けて置いた。
紙の一番上には『診断書』とある。
横浜市
これが私のやり方。
「…………娘は、重度の
どうか、これ以上の質問は、お控えいただきたいです」
壮年の刑事の眉間に、深い皺が寄った。
横の中年の刑事も、「やられた」という顔で一美を見た。
解離性健忘とは、傷などがないにもかかわらず、強いショックやストレスで特定の出来事が思い出せなくなる精神症状の一つである。
一美は偽りの涙を浮かべ、しかし目の前の刑事二人を睨みつけ、言葉を紡ぐ。
「……娘をあのようにしたカルトには、私も、強い憤りを感じています……ですが。今は。娘はようやくうちに帰ってきたんです。
日を遮った部屋で、それでも楽しかったことを、一つ一つ……思い出して……」
一美は懐からハンカチを取り出し、目元を覆った。
浩平は事前に打ち合わせた通りに一美の肩を抱いて、ほんの一瞬、刑事を睨んだ。
怖い。
対面に座る二人が向ける目は、
犯罪を隠す罪人への目だ。
断罪されるのは自分と妻。そして娘。
「……確かにそのカルトを放置することが、皆さんに危険が及ぶことなどわかっています……ですが、どうしてもそれを、今のっ……今の娘から、本当に聞かなければいけませんか?
太陽の光に怯えて、それでも警察の方のためにここまで来た娘に……!」
一美は両手の拳を握って、長机の上で震わせた。
しかしそれでも、決して目の前の刑事二人からは目を逸らさなかった。
ここで臆してはならない。これからもっと、罪を重ねなければならないのだから。
降りしきる罪の雨を体に浴びても、前を向かなければならないのだから。
「……少なくとも、13名」
引き結んだ刑事の唇から、唸るような声が漏れる。
正義を守る者として、目の前の容疑者に鞭を叩きつけるように。
「本件との関連性が強く疑われる、被害者の方の数」
一美の目が揺らいだ。
愛する娘の笑顔の裏に、13個の黒い影が見えた。
「自然回帰派組織は、娘さんを誘拐し、以後、少なくとも13名の方を、同様の手口で誘拐しています……娘さん以外、見つかった方はいません」
壮年の刑事が、机の上で両手を組む。
目の前の非協力的な容疑者を睨みつけた。
「つい数日前、娘さんと近しい年齢の方が、誘拐されました」
一美は奥歯を噛みしめ、机の下で夫の手を握った。
浩平は汗ばんだ手で、一美の手を握り返した。
「また、娘さんに自然回帰派組織の手が迫らないとは限りません」
そんなことは有り得ない。
その13人を葬ったのは、きっと。
前を向かねばならない。
罪は背負うと決めたのだから。
「っ……警察の方のお役目も、ご懸念されることも、理解しているつもりです……ですがどうか、娘の心労も……本当に、どうか、どうか……ご理解ください……お願い、します……」
一美は体を震わせて、額を長机につけるように、深々と頭を下げた。
浩平もまた、悲痛な面持ちのまま、頭を下げた。
おそろしい眼差しを向ける刑事から逃れるように。
数秒、沈黙が流れた。
この家族は、絶対に何かを隠している。
だが、正面から当たっても、何も出て来はしない。
地下へ潜り、捜査を続けよう。
捜査は再び行き詰まった。唯一の手掛かりは断たれた。
行方不明者のリストから、また当たりなおす方が良さそうだ。
そんな言葉無き言葉が、二人の刑事の間で交わされた。
この場は一旦退こう、と。
「…………わかりました。娘さんには本日はご帰宅いただきます。捜索願はこちらで取り下げさせていただきます。
後ほどお呼びしますので、娘さんの傍でお待ちください」
壮年の刑事は厳めしい顔で言った。
一美と浩平は顔を一瞬上げ、また深々と礼をした。
垂れた首をそう簡単には上げられなかった。
一美と浩平の後頭部には、重たい罪が乗っていたのだから。