はらぺこヴァンパイア   作:棗の

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犯罪者たち-3月28日16時32分

(あずさ)三浦(みうら)家のワンボックスカーの中にいた。

 

遮光された後部座席に座り、黒い日傘を前方に向けて差している。

それでもなんだか頬がちりちりするような気がして怖かった。

 

しかしそんなことよりも、梓の心はどろどろと血を流す深い傷を負っていた。

 

虚ろな赤い目が、手元に抱いた青いペンギンのぬいぐるみをぼんやりと見ていた。

部屋のベッドから役作り用に持ってきたサンリオキャラクターのぬいぐるみ。

 

車内の空気は、梓が居なかった日々の、梓へのプレゼントを買った帰りのように重かった。

今、梓は確かに後部座席にいるのに、ねばつくような空気が車内を支配していた。

 

梓の横には、メイクを落とし下を向いた一美(かずみ)がいる。浩平(こうへい)は運転席にいた。

 

あの後。三浦梓の捜索願は取り下げられた。

再び三浦梓は、人間社会に人間として戻った。

 

一美は憔悴した梓を、警察署の待合室でぎゅうっと抱きしめた。

梓はぼろぼろと赤い涙を流して泣いた。

一美も浩平も、今度こそ本当の涙を流して泣いていた。

 

傍から見ればそれは、犯罪被害者でありながら警察に尋問を受けた者たちの安堵の涙か、これから始まる社会生活への歓喜に見えただろう。

 

その三人の周りに渦巻く罪さえ見なければ。

 

 

警察署を出て車に乗った後、一美が一言「梓、本当にお疲れ様。ごめんなさい」と言ったが、梓は返事をしなかった。

こんな時にかける言葉など誰も持っていなかった。

一美とて、何も言えなかった。

 

 

ようやく高校に行ける、夢が叶うと思っていた娘に、犯罪の片棒を担がせ、正義の警察を騙す指導をした。

梓は一美が一週間前にした”お願い”を、しばらく理解できていなかった。

今まで片手で数えるほどしかない、娘との口論をした。

 

「やりたくない! どうしてそんなことしなきゃいけないの! いけないことだよ!」

 

その時の梓は、わけもわからず感情のままに叫んでいた。

 

 

——捜索願を取り下げる方法は、嘘の事件に巻き込まれたことにして、梓が被害者だと言い張るしかない。

 

——その事件が、解決しやすい小さな誘拐や駆け落ちであってはならない。

警察が容易に検証できるものであってはならない。ヴァンパイアに関わるものでもあってはならない。

 

——存在しないカルト教団に誘拐されたことにして、そこから逃げてきたということにする。

 

 

一美はそう、再三説明したが、梓は悲しみに沈み部屋に籠った。

 

 

翌日の朝、部屋から出てきた梓は泣きながらも頷いた。赤い目に決意を抱いて。

 

一美と浩平は台本を作り、梓も交え何度も練習した。

警察の尋問を誘導できるよう、答え方や振る舞いを指導した。

 

失敗は許されない。相手は素人ではない。

梓に任せた”PTSDと解離性健忘(かいりせいけんぼう)によって回答を拒否する被害者”の真実味を深めるために、「雨の日を思い出して」と一美は梓に言った。

それが一美が自分の胸の痛みに耐えながら言える、ギリギリの妥協点だった。

 

癒えつつあった娘の傷痕を自ら掘り返した。自分は医療従事者なのに。

娘は何を思ってその一言を聞いたのだろう。

そんなこと言うのはママじゃない、ってもしかすると思ったのかもしれない。

 

 

嘘のシナリオの補強のため、家の外にも手を伸ばした。

一美の旧知の、今は精神科の開業医をしている老医師の元を梓と共に尋ねた。

一美は涙ながらに、こんな様子の娘を警察に尋問させたら心が壊れてしまうと訴えた。

 

老医師は首を縦に振りはしなかったが、一美はただ一言、静かに呟いた。

 

——救えるはずの人を救わないの? 法律は薬じゃないのよ。

 

梓はその言葉の意味は分からなかったが、老医師は一瞬目を見開いて、梓をまっすぐに見ていた。

 

梓はその人と一瞬だけ目を合わせて、すぐに逸らした。

嘘の心の病気のふりをして俯いているほうが良いと言われたから。

泣きたかったけど、涙が赤いことがばれるのはよくないと言われたから泣けなかった。

 

老医師は静かに涙を流し、嘘の診断書を作った。

それは正義を退ける、罪に満ちた一振りの刀となった。

 

 

そうしてすべてを揃えて臨み、今、三浦家は戦いに勝った。

めでたく梓は人間の社会に復帰し、高校への入学手続きを進められる。

 

残る雑務は、大人たちが日々の仕事の延長でいくらでもできることだった。

しかしそれを喜べる者は、車内に誰もいなかった。

 

 

梓は思う。

やっぱり帰ってくるべきじゃなかったかもしれない。

迷惑ばかりかけてる。パパにも、ママにも、警察の人にも。

恩返ししたいのに、何にもできてない。

パパもママも、私がいなくなってすごく大変で辛かったって言ってたのに、また辛いことさせてる。

 

私が高校に行きたいって言ったから。

 

そんなこと言わなきゃ、パパとママは犯罪に関わらなかった。きっとそう。

 

太陽や雨が怖くてひとりでなんにもできないのに、親を犯罪者にすることだけはできちゃう。

それが今の私なんだ。

 

やっぱり、もう私は三浦梓じゃない。

不器用だけど、それでもパパやママのために色々頑張ってた私じゃない。

誕生日の日におうちに帰って、楽しかった。

パパもママも元気だったし、色んな服も買えた。高校生活の夢も見れた。

 

もう十分なんだ。

 

殺人犯の私が、しちゃいけないことをしたから、神さまが怒ってる。

今日だって曇りの予報だったのに快晴で、朝からすごく怖かった。

 

存在しない犯人がいるって嘘つくのがどういう罪なのかはわからないけど、きっと何か犯罪になる。

 

殺人をして、窃盗をして、信号無視をして、不法侵入して、次はその罪が増えた。

殺してしまった人たちだって怒ってる。

私がみんな殺したのに、私は被害者だって嘘ついてる。

 

パパも泣いてたし、ママも泣いてた。

私が全部悪いのに。私がいなきゃこんなことしなくていいのに。

 

だから。もう。

 

 

「……梓が生きて帰ってきてくれて、本当によかった」

 

日傘の壁の向こうから、一美の声が聞こえた。

梓の中で限りなく増殖する闇が、その動きを止めた。

 

「それだけでいいの」

 

言葉は続いた。

 

「それだけでなんでもできるから」

 

 

梓はそっと日傘をずらした。

遮光された窓の前で、一美は梓の方を向いて笑っていた。

泣き腫らした目で、けれどもまっすぐ梓を見て。

 

「おつかれさま。梓。本当によくがんばったわね」

 

まるで梓の初めての塾が終わった時みたいに言った。

 

「……頑張ってない。頑張ったのはママとパパだもん。私はいけないことしただけ」

 

人を騙した。あの警察の女の人はちょっと泣いてた。

私が言ってるのは全部嘘なのに。

 

「ママとパパも確かに頑張ったけど、梓はもっと頑張ったのよ。たった一人で、辛いことを頑張ったの。

本当に……辛いことをさせて、ごめんなさい」

 

一美はさっき刑事に下げた時よりも、よほど気持ちのこもった頭を下げた。

罪の重さに押しつぶされそうになりながら。

 

「どうしても、他に手が思いつかなかったの。本当にごめんなさい。もうこんなことはないようにするわ。絶対に」

 

梓は慌てて、「ママが謝ることじゃないよ」と言った。

 

「だって……私がヴァンパイアだから、でしょ。普通の人間だったら、素直に家出とか言えばよかったから」

 

こんな異常な見た目だし、何より人殺しを隠しているから。

 

「梓が未成年だからよ。未成年で長い間いなかったから、警察はどうしても調べなければいけないの」

 

それは重要な事実を隠す欺瞞(ぎまん)に満ちていた。

梓もそれは気付いていたが、一美は優しく言って、梓の自責に満ちた気持ちをそっと包んだ。

 

「そんなのじゃない……私が、ヴァンパイアだから……っ」

 

責めてほしかった。怒ってほしかった。

 

私は悪いことしたのに。

一度も怒られてない。むしろ怒ってたのは私の方。

 

学校に行く手続きの前に捜索願の取り下げが必要って言われて、そのために警察の人に嘘をつかないとダメって言われて、感情のままに怒っちゃった。

そんなことするのはママじゃない、おかしいって。

ママだってやりたくないのに。ママがそう決めたわけじゃないのに。

ぜんぶぜんぶ、私がヴァンパイアだからなのに。

 

「梓は確かにヴァンパイアだよ。でも、パパとママの娘だ」

 

運転席から浩平が言葉を投げかけた。

 

「娘のために親は頑張る。そういうものだよ」

 

罪があることは否定しない。

けれどもそれは、娘がヴァンパイアである限り、仕方のないこと。

ならばその罪は、親である自分たちが被る。

夫婦でそう誓ったのだから。

 

「…………どうして怒らないの? ママも、パパも、私のせいで――」

 

「梓が私たちの大切な娘だから。たくさん頑張って、辛い思いをして、それでも帰ってきてくれたから。ね?」

 

一美がそっと、梓の白い手に自分の手を触れさせた。

一美の手は恐怖に震えていた。

 

梓はそれに気づいて、僅かに迷って、その手を握った。

そうしたほうがいいと思ったから。

私の手は血にまみれていて汚いけれど。

うぬぼれかもしれないけれど、ママにこうしたほうがいい気がしたから。

 

一美の恐怖に震える心が、娘の冷たい手でそっと落ち着いていく。

梓は元々体温が高めで、湯たんぽみたいと言ったこともあった。

しかし今の梓は、ガラスのコップのように冷たい。

一美はそれが今の娘の姿だと、改めて体に実感させようとしている。

 

 

赤い目も、白い肌も……僅かに見える牙も、すべては愛しい娘の今の姿に違いない。

娘を産んだその日から、あらゆるものより大切な娘の姿に違いない。

 

そう思うしかない。

 

 

だからこの子のためなら恐怖も乗り越えられる。

警察に嘘が露呈したとしても、次の手を打つだけ。

きっと乗り越えられる。絶対に。

 

「……ごめんなさい」

 

梓は頭を下げた。

 

「梓が謝ることなんてないのよ。パパとママと梓が、梓のために頑張っただけ」

 

一美はこくりと首を傾けて笑った。梓もそれに、ぎこちなく笑い返して、言った。

 

「…………ありがと。ママ、パパ」

 

幾らか粘性の和らいだ車内の空気を、梓はすうっと吸って、そのまま目を閉じた。

ヴァンパイアは安らぎに眠ることは無いけれど、微睡(まどろ)んだつもりでいたかった。

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