はらぺこヴァンパイア 作:棗の
日曜日の深夜。
遠くから喧騒が聞こえる。
鏡の中には、白い肌で赤い目の、新品の制服姿のヴァンパイアがいる。
紺色で三つのボタンのあるブレザーに、白い襟付きシャツ。
一番上のボタンのところに蝶結びになった深紅色のリボンがついている。
スカートはライトグレー、ダークグレー、黒の三色のチェック柄。
膝上スカートの下の足は黒のタイツで完全に隠されている。
ブレザーから出た手や首が病的なほどに白く、肩までの黒髪と対比して顔も白い。
梓が高校へ行きたいと言った翌日、すぐに
その時の梓は警察につく嘘のことでひどく落ち込んでいて、浩平がお店の人に「この子緊張しているみたいで、ゆっくりお願いできますか」と言っていた。
後で分かったことだが、仮に高校に行きたいと思わなくても、捜索願の取り下げは必要だったらしい。
むしろ警察の人が家に来た時に、いないはずの白い肌の化け物がいたらもっと大騒ぎになっていたから。
つまりヴァンパイアの梓が、この家から出て人間として暮らすなら、絶対に嘘は必要だった。
ヴァンパイアなんて本当は存在しないはずだから。
捜索願が取り下げられた翌日から、慌ただしく三人は準備に奔走した。
その準備の間は楽しくて、途中何度かアンチライトを買って、念願の母との昼ショッピングまで行って舞い上がっていた。
新しいペンも筆箱も、鞄も。スマホだってカバーごと新品にしてもらった。
前のスマホは嘘で捨てたことになっているから、中のデータだけ取って分解して捨てたらしかった。
梓は、普通の高校生としての生活リズムに戻すことにした。
ちゃんと夜の間は寝て、朝起きて。
顔を洗面器につけて洗って、意味はないけど歯をみがいて、食べるものはないけど席につく。
お昼の間は買ったばかりの教科書を読んで懐かしさに耽って、夕方になったら両親と一緒にまた食卓につく。
梓の両親は、梓が太陽の光の下で歩く練習にも付き合った。
お昼の太陽の下でも外に出られるようになったし、マンションから出て、近くのコンビニで浩平の好きなお菓子を買ってきて帰ることもできた。
梓が怖がったらすぐに分厚いコートをかぶせてくれて、そのまま優しく家まで案内してくれた。
ヴァンパイアから、人間に戻るために。
そんな生活を、梓は今日までしてきた。
そうして入学式前日の夜。
着ているのは、明日から通う高校の制服。
学生証の写真を撮る時をイメージして、にこりとぎこちなく笑うと、鈍く光る長い牙が現れた。人間の歯よりも長くて鋭い。
「……やっぱり似合ってない」
怪物が無理やり人の格好をしているみたいだと思う。
肌の色が薄い人がいるけれど、梓の場合は薄いのではなく色がないのだ。
ファンデやパウダーを塗りすぎたような白色だけれど、首筋や手も全部その色。
目も制服と全く合っていない。つけたことはないけれどカラーコンタクトと言っても通じなさそうなぐらいに不自然に赤い。
牙に至ってはファッションと言い切ることも無理なほど鋭くて、今は血がついていないけれど、ここに肉の破片や断裂した筋繊維がついていることも何度もあった。
今になってなんだか、ここ一週間の自分がとんでもない大馬鹿に見えてきていた。
化け物が頑張って人間のフリをして、ヴァンパイアには意味もない生活リズムを作って。
自分以外には何も怖くない太陽の光を怖がって。
実はママもパパも迷惑だったんじゃないかと思えてきた。貴重な有休を使ってくれたのに。
それに、警察の人たちに嘘をついた後なのに、またたくさん嘘を考えた。
ママとパパと一緒に。
怪しい宗教に誘拐されたとかはもう言わない。
だけど、ヴァンパイアが人間の世界にいるには、たくさんの嘘が必要だってわかった。
人間の血しか食べられないことも絶対にばれちゃだめ。周りの人が怖がるから。
流れる水も、太陽も、ご飯も、お手洗いも、体育も。
全部全部嘘でなんとかしないといけない。
ママは確かに、嘘は一つや二つじゃ済まないって言ってくれたけど、想像していたよりもずっと多かった。
「…………はぁ」
似合ってない制服を着たまま、梓はため息をついた。
机の上には『ごまかすための設定』と書いたノートのページが開かれていて、たくさんの嘘が書かれている。
人間の世界でヴァンパイアが生きるためのもっともらしい嘘たち。
私が明日から被ることになる仮面。たくさんリハーサルもした。
警察の人の時よりは気持ちは楽だったけど、明日からずっとこれは続く。
何度もパパは仕事を休んでくれて、必要なものを買うために車を出してくれた。
遮光された車で日傘を差しても太陽の光は怖かったけれど、直射日光よりもずっと気持ちは和らいだ。
周りにいる同年代ぐらいの子たちを見ても、私ほど肌の白い人はいないし、目が赤い人もいなかった。
温度はよくわからないけれどここ数日ちょっと暖かいみたいで、七分袖の春服の人もたくさんいた。
そんな中で私はメイクしているのにフード付きの長袖パーカーで顔を隠して、こっそり買い物をしていた。太陽の光が怖いし、なんだかすごく目立つから。
ママは、私が綺麗だから目立つって言ってくれた。
綺麗すぎて、芸能人の人かもって思って目を惹いちゃうんだって。
お世辞だと思う。
私は化け物だし、殺人人形みたいな見た目だから怖がってるんだ。
お昼の世界は光と人であふれていて、ヴァンパイアは目立つんだ。
だから嘘をつかないと、おかしいって思われちゃう。
今更になって気づいた。
人間の中にヴァンパイアが混ざると、おかしいって思われちゃう。
ちょっと目の色と肌の色が違うだけじゃなくて、太陽の光が怖いし服まで違う。
そんなことに今更気づいたのに、パパとママにすごく迷惑をかけて無理やり入学手続きまでしてもらってしまって。
全部うまくいってない。
ちぐはぐで、行き当たりばったりで、掻きまわしてばっかり。
「……恩返ししたいって思ったのに、何やってるんだろ」
遮るものなく外に出るのは、相変わらず怖い。
ちょっとずつ外に出る練習をして、震えたりしゃがんだりはしなくなったけれど、童話のかちかち山みたいに背中がずっと燃えているような気がした。
ぐるぐる回る思考を繰り返す中で、入学式が近づくにつれてだんだん気分が沈んできたから、制服を着てみて気分を上げようと思った。
だけど余計に自分が化け物だとわかっただけだった。
「はぁ……」
また、ため息をついた。
ゆっくりブレザーを脱いでハンガーに引っ掛けて、スカートとシャツを脱いで畳んでいく。
ヴァンパイアでよかったかもしれない。
無理して眠らなくても寝不足にはならないから。
「似合っていたわよ。制服」
後ろからの声に振り向くと、パジャマ姿の
起こしてしまったかも、と梓が自己嫌悪する前に、一美はそっと梓を抱きしめた。
「覚えてる? 前の高校の入学式の前日。梓、全然寝れなくて、不安で落ち着かなくて、一緒にライブのブルーレイ見てたのよ。
人間だった頃推していた、五人組の男性アイドルグループ。
誕生日プレゼントで買ってもらったライブのブルーレイが確かあった気がする。
ヴァンパイアになった後も、YouTubeでライブ映像を見ていた。
だけど、不思議となんだか見ても昔ほど楽しくなくて。
あんまり夢中になれなくて、そこから記憶の底にしまっていた。
「昔から変わってないのよ。梓が変わったからじゃない」
「……変わってる。太陽の光だって全然怖くなかった」
梓は拗ねたような口調で言った。
「梓は太陽の光が怖いから、今泣いていたわけじゃないでしょ?
梓がこういう式の前の日に急に落ち込むのは、昔から一緒よ。中学の卒業式も、入学式もそうだった」
言葉遊びみたいに論点をすり替えられて、けれど怒るつもりもなく、梓は頷いた。
「落ち込んだままだと寝れないし、一緒にテレビでも見る?」
一美が笑って言うと、梓はこくんと頷いた。
梓の肩をぽんぽんと叩くと、梓は立ち上がって一美に体を預けた。
体温がなくひんやりと冷たい娘の体に少し驚くが、顔には出さず、優しく娘の髪を撫でた。
「その前にパジャマはちゃんと着てね。パパ起きてきたらびっくりしちゃうから」
梓は自分が着替えの途中の下着姿のままだったと気付く。
「ごめんなさい」と言ってパジャマを着て、リビングまで行った。
オレンジの常夜灯がついたリビング。
ソファには既に仮眠用のタオルケットと枕が用意されていて、そこに一美が座って、ぽんぽんとソファを手で叩いた。
梓はちょっと迷って、一美の横にそっと座った。
顔がちょうど一美の左肩にあたるような位置で、なんだか恥ずかしかった。
「ん……」
梓は微笑を浮かべて、一美の肩に顔を擦り付けた。
なんだか、甘くて優しい香りがする気がする。
コーンポタージュみたいな香り。
体の芯から温まるような、人間の梓の好きだったものの一つ。
梓が少し顔を動かすと、すぐ横の一美から香っている気がした。
「ママ、コーンポタージュとか食べた?」
「え? 特に食べてないけど……どうしたの?」
梓が久しぶりに食べ物の話題を口にしたので、一美も少し驚いていた。
梓は何度か顔を動かして、「……気のせいかも」と言ってまた体を預ける。
まだ香りはするけれど、嫌なにおいじゃないし、むしろ安心するからいいやと思った。
しばらく、音のない夜の部屋になる。
遠くから車の音や、駅前のバスの発車音がする。
ほんの数週間前は、帰る場所がないことを示す音だったのに、今はもうすっかり、家の中のBGMの一つになっていた。
暖かく優しい闇の中に梓の自己嫌悪が解けていって、「ありがと」と口に出ていた。
「人間だったら、このまま寝ちゃうかも」
ヴァンパイアはリラックスしても眠くならない。眠ろうと思わない限り寝ない。
「今でも寝れるでしょ。好きな時に眠れるんだから」
「眠ろうと思って寝るのと、寝ちゃったのは違うよ。狙って寝たみたいになっちゃう」
「違わないわよ。うたた寝したってことは同じ」
一美は梓をまた撫でて、梓の自己否定の芽をそっと摘んだ。
赤い目と牙のある口が柔らかく緩んで、梓は母の肩に頬を何度もこすりつける。
ふわりと香るコーンポタージュの香りがくせになりそうで、なんだか明日の朝頑張れそうな気がしてきた。
「……明日、がんばるから。ママは安心してお仕事に行ってね」
散々両親には休んでもらっているし、前の高校の入学式の時は来てもらったから、今回は一人で行きたいと言っていた。
入学式は午前中で終わるし、終わったらそのまま駅から地下鉄で帰れば、ほとんど日の光を浴びずに帰れるはず。
こんなことも出来ないと、そのあとの高校生活なんて無理だと思ったから。
「梓の晴れ舞台を見れないのは寂しいけどね」
「一回見てるからもう十分だよ」
一美がふわあっとあくびをする。
梓も真似してあくびしようとしてみるけれど、なんだかわざとらしい深呼吸みたいになってしまった。
「娘のかわいい姿は、何度でも見たいものなの」
一美は眠気に微睡んだ目で、それでも梓を見て言った。
梓はちょっとくすぐったくて、だけれど意志をもって、「それは嬉しいけど」と言葉を発した。
「私、できるから。ちゃんともう一回、高校生になれるから」
たくさん練習もした。
色んな想定もした。
嘘はよくないけど、たくさん考えた。
いっぱい質問が来ると思うから、答えだって用意した。
太陽の下は怖いけれど、何度も歩く練習はした。……曇りの日だし、制服じゃない冬のコートと帽子付きだけど。
「…………ええ。そうね。きっと、大丈夫よ」
一美は揺らぐ心も知性が差し出す警告も、全て無視して、ただ気持ちのままにそう言った。
明日はきっと仕事に身が入らない。
重要なオペの手伝いは幸いにもない。
せめて明日だけはまだいつもの、ただ忙しいだけの仕事の日であってほしい。
娘の門出を不安と期待を混ぜて見守る母親でいたかった。
梓は母の言葉に頷いて、ソファの背もたれに身を預けた。
「……ねえ。ママ」
恥ずかしいけれど、今なら言えると思ったから。
「…………大好き」
返事を待たずに梓は、明日の6時まで寝ようと頭の中で念じて目を閉じた。
不自然に動かなくなった娘の頭を一美はそっと撫でて、タオルケットをかけた。
遮光を確認して、夫の待つ寝室へ戻っていった。
【あとがき】
作者です。
ここまで読んでいただきまして、誠にありがとうございます。
第三章は以上となります。
いよいよ学校編が次から始まります。学校での新しい出会いと、正体を隠す日々です。
ここまで脇役だった星野由佳も大活躍です。
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