はらぺこヴァンパイア 作:棗の
すっかり日も沈んだ時間。
リビングの窓は分厚い遮光カーテンで塞がれ、隙間ができないよう縫われている。
両親の寝室に通じるドアも、廊下とリビングを繋ぐドアもぴったりと閉じられていた。
天井のLED照明で照らされており、その明るさを梓は気にしていない。
梓はソファに座っていた。
バラエティ番組を流すテレビを耳だけで聞いて、スマホでVlogを見ている。
友達から教えてもらった女子大生のVlogの華やかな暮らしを見て、いつか来る一人暮らしの時を夢想する。
そんな華やかな夢よりも、部屋の中の優しい空気よりも、ずっとずっと楽しみなものがこの後来る。
今日はごはんの日。
学校にいる時から楽しみだった。
「……梓、ちょっと来て」
母の言葉に梓はぴょんと立ち上がって、キッチンまで行く。
キッチンキャビネットの上には今日の夕食が並んでいる。
メインはバターの香りがふんわりと香る鱈のムニエルで、えりんぎとほうれん草のソテーが添えられている。
それと、付け合わせのサラダが二人分。
キッチンには梓の母がいた。
40代前半の女性で、長い黒髪を後ろで緩くシュシュで結んでいる。
梓と違って色の入った肌の色に、茶色い瞳。
その手元には、お湯を張ったプラスチックのボウルがある。
梓の母はそれに指をつけ、温度を測っていた。
ボウルの中では中身の入ったフリーザーバッグがぷかぷかと浮いていた。
さっき冷蔵庫から出して、湯せんしていたものだった。
「これぐらいで大丈夫?」
梓の母はフリーザーバッグを取り出して、拭いて梓に渡した。
梓はフリーザーバッグを手に取り、ぬいぐるみにそうするように撫でた。
「たぶん大丈夫。ありがとママ」
梓は母に笑いかけ、フリーザーバッグを返した。
梓の母も笑って、フリーザーバッグを開けて、大皿の上に取り出した。
ぼとり、と音がして中身が落ちた。
深紅色のどろりとした液体の入ったパック。
化学繊維で作られた密閉容器。
細長く平べったい形をしたパックだった。
表面に機械で印刷された文字があった。
『B RH+ RCC-LR NY-SSIEld3 2024/04/04 280ml 済 日赤
そんな表記がされていた。
それは病院で使用される、血液パックとか、
「おいしそう……」
梓は思わず小声でつぶやいた。
すぐに母の方を見て、ちょっと恥ずかしそうに赤い目を伏せた。
梓の母は笑って、梓の頭を撫でた。
「それは梓のごはんよ。そうでしょ?」
「……うん」
梓はこくりと頷いて、皿を持って食卓に置いた。
全員の食事が揃って、夕食の時間になった。
テレビでは既にゴールデンタイムのバラエティ番組が始まっているけれど、梓はそれに目もくれなかった。
両親の前には、鱈のムニエルとえりんぎとほうれん草のソテー、付け合わせのサラダ。
梓の前の大皿には、ラベルを下にした血液パック。
大皿の横には底の深い銀のタンブラーが置かれていた。
梓の父が時々ビールを飲む時に使っている、保温性の高いタンブラー。
重ねたキッチンペーパーとタオルも畳んで置かれていた。
「「「いただきます」」」
両親が箸を取ってサラダを食べ始める横で、梓はタオルを手に取って、キッチンペーパーを内側に重ねた。
包み込むように、大皿の上の血液パックを手に取った。
赤色っぽい液体と黄色っぽい液体が、プラスチック繊維のパックの中でゆらゆら揺れる。
梓の赤い眼がそれにあわせてゆらゆら動く。
口の端で、無邪気な笑顔が浮かぶ。
おいしそう。
タオルとキッチンペーパーでちゃんと包んでいることを確認して、梓はゆっくり口をつける。
暖かい。人の肌みたいな暖かさ。
記憶の奥底にある、昔殺した人たちの首筋が浮かぶ。
夜闇の中でぼんやり光る首筋の映像。
おいしそうな首。
赤い目を細めて、梓は血液パックを舐めた。
味はしない。けれども、湯せんの温かみが舌を伝って、口から喉へ、食事の時間を知らせる。
上あごから生えた二本の牙の先が、血液パックの繊維に触れる。
目の前にある無機質な血液パックが、まるで人の首筋みたいに思えてくる。
ぞくぞくと上ってくる気持ち。
高揚感。
いただきます。
梓は両手でぐっと押さえて、血液パックに噛みついた。
テレビの音に比べればずっと小さな、繊維の破れる音がした。
中の血液が牙を伝って噴き出して、それが梓の喉へ流し込まれていく。
温かい白湯を飲んでいるような心地。体の中に混ざって、広がっていく。
本当に噛みついているみたい。人を噛んでいるみたいな気持ち。
きもちいい。
おいしい。
梓は両手を固定することだけ意識して、何度か血液パックに噛みつく。
もっと欲しい気持ちをなだめて、押さえて。
一回、二回、三回、血を飲み込む。
「——っはぁ……」
まるで両手だけ別の生き物みたいに、血液パックが掴まれて口から離された。
梓が首を後ろに傾けて、口を開けたまま天井を仰ぐ。
「……はぁー」
誰にも
体がぽかぽか暖かくて、春先の休みの日のお昼みたい。
手と足の指先まで温かさが伝わって、CMでよく見る”体の芯から温まる”って言葉が頭をよぎった。
今だけは快楽に身を任せたかった。
だって私は、ヴァンパイアだから。