はらぺこヴァンパイア 作:棗の
「ただいま」
幸いにも帰りの頃に雨は止んでいた。
今日は質問責めに遭う前に、
足元がぬかるんでいる所が多くて、走ることはできずゆっくり歩いて帰ることになった。
気持ちはすごく走りたかったけれど、やっと得た制服を汚したくは無かった。
リュックを部屋に置いて、洗面所のアルコールティッシュで手を拭いた。
制服を上下畳んで、部屋の壁に引っ掛けて、上下スウェットの部屋着に着替えて、リビングへ。
冷蔵庫の前に立った。
「製氷室の横の引き出し……」
梓は見慣れた冷蔵庫が、全く知らない人の家のものに見えた。
自分がおなかがすいたと言って、そこを指示されたということは。
そこに入っているものはおそらく。
あるはずが無いものだった。
“それ”を手に入れる方法なんて無いに違いない。
可能性を探ろうとする思考に蓋をして、梓はここまで来ていた。
血液が手に入らないことは何も変わってないはずなのに、考えないようにして、普通の高校生になろうとしていた。
そうして今、
梓はそっと引き出しを開けた。
「あっ……」
思わず声が出てしまう。
魅惑的な赤色。
それは、輸血用の血液パックだった。
横向きに並べられていて、ぎっしりと冷蔵庫の引き出しの中に詰まっていた。
「これ……血……?」
そっと手に取る。
ふにゃふにゃしていて、その中に入っている赤い液体と黄色っぽい液体が混ざらずに動き回る。昔買ってもらったオイルの入った水時計みたいだと思った。
表面には白いラベルと黒い文字。
機械で印刷された文字が表面にある。
『A RH+ RCC-LR NY-SSIEle3 2024/04/07 280ml 済 日赤
そんな表記がされていた。
上部にプラスチック製のコネクタがついていて、その先はシールで密封されている。
梓は無意識のうちに、牙を舌で舐めていた。
「…………これって」
梓の母・
梓が産まれる前から勤めていて、職場の色んな所に行ける。
病院は手術をすることが多いから、たくさんの血が必要らしい。
血は売り物じゃない。
だからそれを手に入れる方法は。
梓は血液パックを冷蔵庫にしまって、引き出しを閉めて自分の部屋のベッドに倒れこんだ。
こんなこと望んでない。
盗んでほしいなんて言ってない!
ママまで犯罪者になってほしくない!
「なんで……なんで……」
キッチンから黒い影がぬうっと伸びて、梓の周りをグルグルと回っているような気がした。
それは新たな罪だった。
梓は目をつむって、ぼろぼろと流れる涙を両手で抑えた。
閉まっている玄関扉の向こう、遠くの病院の中で、ママがどういう気持ちでいるのか。
入学式のできごとを喋っていた昨日の夜、これは冷蔵庫にあったんだ。
みんなでテレビを見て笑っている間も、この罪にまみれた物は静かにあったんだ。
私がいつおなかがすいてもいいように。
人間として学校に通えるように。
もう人を殺さなくていいように。
全部全部気づかれてる。怖くて言えなかったことも気づかれてる。
当たり前だ。
ヴァンパイアが食べられるものが何か、二人は知ってる。
それをお金で買えないことも絶対に知ってる。
部外者が盗めるほど、簡単に手に入るものじゃないものだと知ってる。
だからどうやって私が生きてきたか、きっとわかってる。
何人殺したかも知ってる。
私がどれだけの罪と血にまみれているかも知ってる。
全部全部知って、それでも、罪を重ねてくれてる。
「いやだ……なんで……なんでママまで……やめて……!」
泣きながらぎりぎりと歯ぎしりする中で、牙が口の中に刺さる。どろっとした黒い血が喉の奥に入っていって、現実から意識が遊離する。
最後に殺した女子高生の首筋がふっと頭に浮かんだ。
夜闇でも淡く光って見える、魅惑の首筋。
おなかすいた。
たべもの。
たべものがほしい。
「おなか、すいた……」
おなかがすいてるんだ。
自分の血を飲みこむと、ちょっとだけおなかがすいても待っていられる。
家にいなかった一年の間、起きているときもずっとそうやって、ぎりぎりまで”がまん”してきたから。体が覚えていた。
今はまだ罪悪感と向き合いたかった。
人間として、溢れる罪の意識と少しでも話して、やったことと向き合いたかった。
「おなかすいた……」
けれども梓の体は空腹のままに、ふらふらとリビングへ向く。
赤い涙を流しながら、もう一度冷蔵庫の前へ。輸血用の血液パックを取り出して、手に取った。
おいしそう。
引き出しの中にびっしりと入った輸血用の血液パックから黒い罪の影がぬうっと伸びる。
それは罪の具現化だった。
梓の首を絞めようと伸びた黒い影を、梓の赤い目が不愉快そうに睨みつけた。
ぱっと弾けて罪の影は消えた。
「たべもの……」
赤い目のヴァンパイアはうっすらと笑っていた。
「おいしそう……」
一度も血液パックなんて食べたことないけど、体が知ってる。
これは食べ物だって。
食べたらおいしいって。
そうだ。私はおなかがすいてる。
だから気持ちが落ち着かないんだ。人間と同じ。
盗んでしまったものはしょうがない。
返すことも出来ない。
これは私しか食べられない。
パパもママも人間で、私はヴァンパイアだから。
せっかく持ってきてくれたんだから。
用意してくれたのに、食べないと失礼だよ。
食べないと。
「えへへ……」
食べて、それから、ちゃんと向き合うから。
ママにありがとうって言いながら食べればきっと大丈夫。
私は人を殺したわけじゃない。
この血を採った人は生きてる。
殺したわけじゃない。傷つけたわけじゃない。
私は学生だし、勉強しないと。
おなかがすいてると勉強も考えごとも出来ないし、それがいいんだ。
食べちゃおう。
薄ら笑いを浮かべた梓は服を脱いで、下着姿になってお風呂へ向かった。
照明のないお風呂の床にぺたんと座り込んで、両手で血液パックを持った。
「わぁ……♪」
深紅色のパックが、まるで大きなメロンパンみたいに見えた。
この体になった時から、血を吸う方法は体が知ってる。
目の前の化学繊維に包まれた冷たいそれは人間の体ではないけれど、体が動きを覚えていた。
はあっと息を吐いて、それを顔に近づけ、長い牙をたてて噛みつく。
ヴァンパイアの人外の
待ち望んだものが、乾いた体に注がれる。
冷たい血が、梓の口に、梓の指に流れていく。
真っ暗なお風呂の床に、ぽとり、ぽとりと、鮮烈な赤の染みが落ちていく。
おいしい。
たのしい。
「ふうっ、ふううっ……」
まるで犬が玩具にじゃれつくように、両手で持った血液パックを噛んでその中身を吸い上げていく。
ヴァンパイアは首を傾け、腰を曲げ、まるで倒れた人の肩から吸いあげるように、何度も何度も噛みつく。
不必要な分まで穴をあけられた血液パックから、赤い液体が漏れ出てくる。
冷たいはずなのに、暖かい。
胸の奥のざわめきが止まる。
指の先までざわざわと何かがうごめいて、もっと欲しくなる。
冷えた体で白湯を飲んでいるような心地。
止まらない。
いくらでも飲めてしまう。
水一滴飲めないはずなのに、体の中に染みていく。
おいしい!
知らずに体にまとわりついていた不快感がすうっと溶けていく。
体が軽くなっていく。それは人間にとってストレスと呼ばれる物だった。
時間にして30秒もないうちに、梓の手にはくしゃくしゃの穴の開いた半透明のプラスチックだけが残っていた。その周りを舐めて、手についた赤い液体も舐めた。
興味を失った両手が、半透明のプラスチック繊維の塊を手放した。
ぱしゃりと音を立てて、浴室の床に不格好に落ちた。
まるで
高揚が体の隅まで熱く流れる。
おなかのなかが暖かい。
春先の肌寒い季節なのに、初夏のような気持ちのいい暑さ。
汗なんてかかないはずなのに、熱い体を冷やす冷たい水が体を撫でる心地だった。
「はぁっ……」
梓は一息を吐いて、にっこりと笑っていた。
牙から血を垂らして、赤い目が鮮烈に輝いていた。
それから、数秒。
「……た、食べちゃった」
梓の笑顔が消えて、ぱしゃりと空の輸血パックの残骸がお風呂の床に落ちた。
僅かに深紅色の液体が透明な液体と混ざって、排水溝に隠れるように消えていった。
もうヴァンパイアは奥底に引っ込んで、人間の
おなかの奥の暖かさが急に冷えてくる気がする。
周囲をぐるぐると黒い罪の影が回っていて、弱い人間の梓を睨みつける。
何にも変わってない。
食べるその瞬間だけ、何もかも忘れてしまう。
気持ちよくなって、食べて笑ったそのあとに、罪や後悔が襲ってくる。
梓は空っぽの血液パックを洗面所の下から取ったレジ袋に入れて、それを持ったまま部屋のベッドに倒れこんだ。
ぼろぼろと溢れ出る涙の中で、戻ってきた現実に向き合おうとした。
盗んだ血液パックを食べた。盗んだものを食べちゃった。
色んな言い訳をして食べちゃった。
人を殺すのと物を盗むのはどっちがましなんだろう? と誰かが問う。
どっちもよくない。人を傷つけるのも、人のものを盗むのもどっちもよくないこと。
私はどちらもしてる。
それだけじゃなく、ママをまた犯罪に加担させてしまった。
どれだけ考えても、償う方法なんて出てこない。
もし私が死刑になっても死んだ人は帰ってこないし、盗んだことで迷惑をかけた人たちの迷惑も消えない。
病院がたくさん血を保管している理由もなんとなくしかわからないけれど、きっと命を救うために大事な事なんだ。
救えたはずの命を、救えなくさせたかもしれない。
結局何にも変わってない。
普通の高校生になったつもりでも、食べてるものは変わらない。
溢れ続ける涙が、とうに吸血の快感を押し流していって、数分。
梓はゴミ袋を持って、ゆらりと立ち上がった。
気持ちはどうであれ、身体は満足していた。
自分の身体を維持する唯一の栄養が、冷たい肉体に仄かな暖かみを与えていた。
もう口の中を噛んだり、牙を指で撫でたりしたくはならない。
「……ママだって、わかってるはず」
ヴァンパイアの食べ物を得ることがどれだけ大変な事なのか。
私がいなきゃしなかったこと。
だけどママもパパも、私がここにいていいって言ってくれた。
私はちゃんと人間として、高校生になって、ちゃんとしたお仕事をして、ちゃんと生きるんだ。
それがパパとママへの恩返しだから。
それなら、私が娘としてするべきことはなんだろう。
犯罪はやめてと怒ることじゃない。
もうそんな子どもみたいな怒り方はしたくない。
警察の人に嘘をついた時だって、絶対に必要な事だったってママは言ってた。
私がいなければ、ママはそんなこと絶対しなかった。
でもママは、私がいていいって言ってくれた。すべてを知ったうえで。
だから。
梓は周りを渦巻く罪の影を、赤い目で睨みつける。
血によって満たされたヴァンパイアの眼光に、黒い影は怯んだように身じろいて、すうっと霧散して梓の部屋からいなくなった。
梓はゴミ袋を玄関のごみ箱に捨てて、血と涙でべたべたになった手をアルコールシートで拭いた。
スマホを取って、LINEを開いた。
『ママ』のトークルームを開いて、文字を打つ。
『ありがとう ごはんたべられたよ 本当にありがとう』
既読がつく前に枕元のタオルを顔につけて、溢れ出る身勝手な涙を拭きとる作業に戻った。