はらぺこヴァンパイア 作:棗の
まだ日の出ている時間に、
「ただいま」
返事がないことはわかっているけれど、梓はいつも言っていた。
今日は楽しかった。
記憶の中の短いシーン一つ一つが淡く光っているようで、思い出すとなんだか楽しくなる。
あれから午後の授業が終わる度に色んな人が席に来て、アルビノもヴァンパイアも関係もない質問をされた。
趣味とか、お休みの日の過ごし方とか、塾とか。
ほとんど嘘もなく、罪悪感もなく答えられた。
帰りはみんな
私、ちょっと変わった人になれたのかな。
パパとママが帰ってくるのを待つ間に、今日あったことを日記みたいに書こうかな。
そんなことを思いながら靴を脱ごうとして、気づく。
あるはずがないもの。
「……ママ?」
すうっと胸の奥が冷えていく。
熱に浮かされた体が、一年前の逃亡の日々に戻っていくような。
全身を警戒心が駆け巡る。
梓は耳を澄ませる。人の気配。話し声。男の人。たぶんテレビ。
誰かいる。一人だけ。
靴を脱いで、リュックを置いて。
アルコールティッシュを取って手を拭きながらリビングのドアを開けた。
遮光されたリビングの電気が点いていた。
ソファの上に、寝間着姿の母がいた。
テレビでは通販の番組が流れていて、新作のエアコンのことを熱心に語っている。
「……ああ。おかえり。梓」
少し目が赤く腫れてて、髪も中途半端にしか乾いていなくて、ソファの上には丸めたティッシュが散らばっていた。
「ママ!? どうしたの!?」
梓は慌てて抱き着こうとして止まる。
力の制御ができないことを思い出す。
梓はあたふたとブレザーを脱いで、自室に放り投げて、リビングのソファの横に座った。
「……ごめんなさいね。梓が帰ってくるまでに片付けようと思って」
「何があったの!? もしかして私のことで何か」
一美はゆっくり首を振った。
ふうっと息をついて、テーブルの上の水を飲んで、また一息ついて言う。
「……ママね、
初めて聞いた言葉で、何を言っているのか分からなかった。
「…………え? お仕事、なしって、どういう」
お仕事無し。お仕事休み。
なんで? 病院なのに?
すごく忙しくて休めないって言ってたのに?
シフト交代もできないって言ってたのに? 春だから?
「……血液パック、勝手に持ち出したのばれちゃった。分かってたんだけどね」
そう言って疲れた笑顔で笑った。
梓の脳裏に、冷蔵庫にびっしり入った自分の食べ物が浮かぶ。
全部間違いなく盗品。盗まれた場所は母の職場。
言われなくたって分かっている。
「……病院の血液パックってね、専用の部屋の中にあって、誰が出入りしたとか、どれを使ったとかも全部パソコンで管理されてるの。だからばれるのは分かってた。
長く勤めてるし、謹慎で済ませてくれたから」
一美は驚きも悲しみもなく、淡々と呟いた。
どうして、なんて言えなかった。言う資格もなかった。
やらなければ自分が人殺しに戻るだけだから。
ヴァンパイアが生きるためには必要だから。
梓は一美の膝に震える手をあてて、離して、自分の胸にあてた。
涙が頬を伝う感触。一美がそっと近くのタオルを渡した。
それに顔を埋めて、梓は思いっきり泣いた。
自分のせいなのに。
私がヴァンパイアだから。
「……梓、お願いだから自分を責めないで。ママは全部わかっててやったの。梓が帰ってきた次の日から、ずっと考えて計画してたのよ」
「責めるよ! 私のせいで! 私のせいでママが!」
梓はソファに顔をうずめて、体の中で暴れ狂う感情を声にして吐き出す。
殺してしまった人たちと同じ。また一人の人生を狂わせた。
しかも今度は、大好きなママの。
警察に嘘をつかせただけじゃない。
生まれる前からずっとずっと頑張ってきたママの働く場所まで奪った。
「ねえ梓。お願い。ママがやりたくてやったことなのよ。梓のせいじゃない。ママが、一人の人間として、自分で決めたことなの」
「違う! ママはそんなことする人じゃない! 私がっ……私がいなきゃしなかった!」
淡く光る今日の思い出が、真っ黒い自己否定で埋め尽くされて、梓の中が真っ黒い影で染まっていく。
燃え広がるように、梓の体を焼いていく。
私がいるからだ。
ヴァンパイアなんているからだ。
だからみんな不幸になる。
やっぱり帰ってくるべきじゃなかった。
死んだものとして扱ってもらうべきだった。
いっそ。今から。
梓の背中に、柔らかく暖かいものがあたる。
自分の胸の下にまで腕がすうっと伸びて、ぎゅうっと抱きしめられる。
顔を伏せた梓の背中から、一美が抱きしめていた。
「……梓、あなたが生きて帰ってきて、
一美は静かに語る。
いつもの優しい母の声ではなく、毅然とした覚悟を持った女の声で。
「あなたが心の支えなの。パパもそう。二人でずっとずっと、どんなに小さな手がかりでも、どんなに嘘だと思っても探したの。
梓が生きているかもしれない、ほんの小さな可能性だけでも、手の中におさめておきたかったのよ」
梓の泣き声が止んだ。
梓は知らないが、一美も
ストレス性の病気をいくつも抱えた。浩平は度重なる不調で、退職一歩手前まで追い詰められた。
それでも耐えて、ひたすらに闇の中に輝く僅かな光に縋った。
ただ一人の娘のためだけに。
「そうしたら、帰ってきた。私の大切な娘が。それだけで、どんなこともしようって思ったの。本当に、どんなことでも」
梓という少女には分からないが、大人の世界で、それは狂気と呼ばれるものだった。
法も、倫理も、道徳も、すべてを逸脱していた。
闇を纏い、罪にまみれて帰ってきた怪物の娘ですらも、二人にとっては輝ける光だった。
その光を守るためなら、いくらでも罪を背負おうと思った。
「梓が生きていてくれるなら、私はどんなこともできる」
迷いなんてなかった。
狂えるほどの一年間の絶望の日々が、そんな迷いを吹き飛ばしていた。
「パパと私は決めたの。私が働けなくなっても、パパが稼いでくれるし、私はその分、梓の手伝いができる。仕事なんてなくなっても、別に働ける場所もある」
梓が振り向くと、優しい笑顔があった。
涙に濡れた茶色い瞳の中に、ヴァンパイアの赤い瞳が映っていた。
「だけど梓はいなくなったら、代わりなんていないのよ」
梓の肩に、母の顔がある。泣き腫らした目で笑っていた。
ただ、絶望の中から帰ってきたあの日と同じような、優しくて柔らかい笑顔。
「……わかんない。どうして、そこまでできるの?」
梓は気持ちのままに、母に尋ねた。
母はただ一言答えた。
「ママだからよ。たった一人の娘をもったママだから」
梓という少女には、その言葉の意味が分からなかった。
梓の命すらも追い詰めようとしていた真っ黒い影は、母とつながった肩からすうっと出て行って、どこかに消えていた。
梓は自分の赤い涙をしっかりぬぐって、制服のシャツが汚れていないか確認して、ティッシュで母の涙を拭いた。
「……ママ。ありがとう。ごめんなさい」
一美はそっと梓の頭を撫でた。
「どこにもいかないから。いなくならないから。安心して」
梓は赤く濡れた涙目でにっこりと笑った。長い牙が口から覗いていた。