はらぺこヴァンパイア 作:棗の
世界史の授業の時間。
今日の天気は曇り。
一昨日の眩しい太陽と変わって、梓にとって過ごしやすい天気。
「——ローマの支配下にありつつも、独自の宗教と文化を持ち、メシア……救世主だな。救世主の出現を待望する空気が強く! 当時はあった。
そうした社会状況の中で、ナザレのイエスという人物が出てくる」
教壇に立つ男性教師が、時折、生徒側に顔を向けながら熱を帯びた口調で話す。
世界史の先生はちょっと芝居がかった口調で、熱く歴史を語る人だった。
なんか変わってる人だなぁと思う。人間ですらない自分が言うのも変だけど。
「ナザレのイエス……おまえたちも知っているだろう。のちにイエス・キリストと呼ばれるようになる人物だ」
手元の教科書のページに目を落とす。ページには『西暦1世紀のユダヤ社会』という見出しがあった。
当時のユダヤ教内に存在した派閥の名前と、それぞれの特徴を簡潔にまとめた表が掲載されている。
少し下のページの隅には『メシア待望論の高まり』と題された短い囲み記事があって、圧政下で救世主の出現を待ち望む民衆たちの話が書いていた。
梓は人間だった頃も真面目に授業を受けてきたので、今やっている内容は何となく覚えていた。
確かこの辺りの時代を舞台にしたドラマがあった気がすると思いながら、頑張って覚えていた記憶がある。
よくわからないカタカナばかりで、語呂合わせとかを頑張った記憶。
「——結果として、イエスはユダヤの指導者たちによって告発され、最終的にはローマ帝国のユダヤ属州総督であったピラト総督によって、死刑……十字架へのはりつけの刑に処されることになる。イエスの影響力が拡大するのを恐れたわけだな。
支配層にとって、一般人のイエスが支持を集めることが面白くなかったわけだ。これは近代、現代でも変わらない支配層の傾向で——」
梓は教科書の横に置いた世界史用のノートに、買ったばかりのペンで『ピラトていとく』『イエスさんがしょけいされた』と書いた。
名前の下に緑のアンダーラインも引いておく。
「——その結果、イエスははりつけの刑になる。次のページをめくれ」
教師の声で、周りの人が一斉に教科書をめくる。
梓もページをめくる。
ぱらぱらぱらっと紙の音が響く。
「そこにあるのが現代でも見ることができるイエスの」
「ひいっ!!」
ガタッ! と轟音が響く。
沈黙が打ち破られた。
窓際二個横の最後尾、
梓は赤い眼を閉じて中腰で立ち上がっていた。壁に背中をつけ、精一杯教科書から目を逸らしていた。
白い手がページの上に書かれた図にかぶさっている。
「……三浦? どうした」
教師が自分の独壇場を邪魔され、不機嫌そうに聞く。
特に問題児だとは聞いていない生徒。アルビノとかいう珍しい病気持ちらしいと聞いたことがある。
「あ、え、えと、む、虫がいたんです! ごめんなさい! ほんとにごめんなさい!」
梓はわたわたと片手を振りながら座って、何度もおじぎする。
ぎゅっと赤い眼を閉じて、前を見ないように。
クラスのどこかから男女の笑い声がする。
「……そうか。ええっとなんだっけ。そう。イエスの磔刑図だ。これはキリスト教の象徴の一つともされることがあるな。十字架に――」
虫ごときで何を、と思いながらも口に出さず、教師はまた自分の劇場に戻っていく。
梓は座って、両手で教科書を抑えて、そっと目を開ける。
梓が『ごめんね』と笑いかけると、由佳も笑って『大丈夫』と返して前に向き直った。
記憶をたどって、恐怖の根源が書いていたページの個所を思い出す。
そのあたりに手を動かして、ぎゅっと目をつむって下を向く。
”それ”は梓の白い手で隠されていた。
教科書のページがしわだらけになっていて、頑張ってもう片手で元に戻す。
一瞬だけ目に入った、
それがまるで、料理中に手が滑って足元に落ちてきた包丁みたいに感じた。
教科書から手が出てきて、包丁で自分の胸を突き刺そうとしているような感覚。
漫画みたいににゅうっと手が伸びて、笑いながらめった刺しにしてくるような。
絶対にありえないのに、この手をどかしたら、自分の胸に包丁が刺さる気がする。
——裁きを。
そんな声が聞こえた気がした。
その磔刑図がどんな絵かは覚えているけど、思い出したくもなかった。
思い出すと胸がきゅっとして、体が震えてくる。
心臓も動いていないし汗もかかないはずなのに、なんだか心臓が急に動いてそのまま死んじゃうんじゃないかってぐらいに震えてしまう。
怖いはずが無いのに怖い。
何が怖いのかわからないけれど怖い。
おかしくなってる。でも初めての感触じゃない。
街中で鈴の音を聞いたとき。
神社の鳥居を見た時。
そのたびに恐ろしい何かが梓の前に現れて脅かしてきた。
私がヴァンパイアだからそういうものが怖いんだ。
聖なるものとか、清らかなものが怖い。
梓は一度、ふうっと息を吐いた。ちょっとだけ体が落ち着く。
手で隠した部分以外を見ながら、どこまで教師が読んでいるか思い出そうとした。
その少し前。
梓が中腰で立ち上がって、手元の教科書を両手で押さえていた。
どうやら虫が出たらしい。
やっぱり虫は怖いよね。わたしも大嫌い。
梓との共通点がまた見つかって、ちょっと嬉しい。
梓がぺこぺこ謝っているのもちょっとかわいかったし、そのあとに涙目でこっちを見て目が合ったのも、なんだかドラマのワンシーンみたいですごくドキドキした。
気のせいか梓の赤い眼が、赤い水で潤んでいるような感じで幻想的だった。
心臓の鼓動が聞こえちゃうかもしれない。
前を向いて、手元のページに視線を落として授業聞いてるフリに戻る。
この先生怒ると面倒くさいから気を付けないと。
教科書の上ではイエスキリストって人が十字架にはりつけにされてる。
テレビやネットでよく見る絵と、その右に文字がたくさん。
ちゃんと読もうとすると眠くなっちゃうから、ぼんやり見ていた。
ふと、心に湧く疑問。
一瞬見えた梓の手元を思い出す。
しかも座った後もずっと押さえてた。
虫嫌いな人が触ろうとする?
確かにわたしも虫は嫌いだけど、そんなに大声を出すほど怖い?
本当に虫だったの?
さっき見た映像と疑問が胸の中でグルグル回って、でも何も出てこない。
虫嫌いなの? って後で聞いてみよう。