はらぺこヴァンパイア 作:棗の
大型連休二日前の木曜日。
予報外れの雨が降った。
朝は曇りだったのに、お昼過ぎから降り出して、六時間目が終わる頃には土砂降りになった。
天気予報をちゃんと見ていたのに、天気予報が嘘をついた。
六時間目が終わったホームルームではじめじめした空気が流れていて、横の席の
梓の髪もなんだかうねうねしていたが、そんなことはどうでもよくなるほどに焦っていた。
ざあざあと降る雨の音が怖い。
逃げ続けていた一年前を思い出す。嫌な記憶。
雨が降ってる。
傘と手袋は念のため持ってきたけど、こんな土砂降りじゃ帰れない。
顔についたら皮膚が焼けて血が出て、制服が汚れちゃう。
明日も学校があるし困る。
特にブレザーが汚れるとまずい。クリーニングに出さないといけなくなるし、ブレザー無しだと、ずっと太陽が怖いまま授業を受けるか、前みたいに嘘をついて保健室にこもらないといけなくなる。
「ゴールデンウィークの予定は皆さんどうですかー」
ホームルームで担任教師がそんな話をしているが、梓は机の上に置いたリュックの陰でぎゅっと目を閉じていた。
「——はい。じゃあ本日はここまでです。雨がひどいので、足元に気を付けて帰ってください」
途端に教室が喧騒に包まれ、がたがたと椅子が色んな所で引かれクラスメイト達が立ち上がる。
八坂も手鏡をしまって立ち上がって「あずちんおつかれー」と言いながら
何人か、梓に興味のある男子たちが梓の方を見た。
なんだか調子が悪そうだし放っておこうと思い、彼らのグループへ戻っていく。
梓はポケットからスマホを取り出す。
LINE通知。『ママ』と書いている。
『学校の裏に車を止めてるから、授業が終わったらゆっくり来てね』
「……ママ」
思わず声が出てしまう。本当にママはいつも私のことを考えてくれている。
仕事がないから車を出せたんだ。学校の裏までならいける。
梓はスマホをしまって、立ち上がってリュックを背負う。
前の席の男の子は既に帰っていて、その一つ前の席の
笹川も八坂もすでに教室にはいない。
まだ何人か女の子のグループが残っていて、部活の見学に行く予定らしかった。
「梓どうしたの? 具合悪いの?」
由佳が近づいてきて言った。
「あ……う、うん。ちょっとね。おなかすいちゃって。帰ったらちょっとだけご飯食べられるから、それまでの辛抱」
頑張って嘘を組み立てていく。
由佳が数歩近づいて、自分の横に立つ。
じいっと顔を見つめてくる。
何か顔についてるのかな。
もしかして私、泣いてたのかな? 涙が赤いってばれたらまずい。
「……ほんと、つらいね。薬の量とか、減ったらいいんだけど」
「ありがと。アルビノが学校に通えてるだけでも珍しいんだって。食べたらよくなるし大丈夫」
親が車で迎えに来ていることは、あんまり知られたくなかった。
なんとなく、由佳はそのコトを知っても喜ばない気がした。
ただの勘だけど。
梓がリュックを背負うと、由佳も慌てて鞄を取って横についてくる。
教室を出ると、ぴったり横について出てくる。
「……由佳ちゃん?」
「由佳って呼んで。今日は雨だし、地下鉄の駅に用があるから」
由佳が一緒に帰ろうとするのは別に初めてではなかった。
校門を出てちょっとだけ駅の方までついてくることは何度もあったけど、梓が「遠回りになっちゃうよ」と呆れて言うと帰ることが多かった。
けれども、地下鉄の駅までついてくると宣言されたのは初めてだった。
駅の中にケーキのお店とかあるし、ケーキ食べたいのかな。
梓は歩きながら考える。
手袋をつけて傘を差して、ゆっくり歩かないといけない。
雨の日に手袋をしていることは知ってるから、それは別にいい。
「なんか手が濡れるのが嫌だから」と言うと納得していた。
「暑くないの?」って何度も聞かれるけれど。
ママからのLINEは20分前。授業終わる時間は知っているし、由佳ちゃんのことも知っている。
たぶん待たせても問題はないはず。
だけど、ゆっくり歩いて地下鉄の駅まで行ったら更に20分近くかかってしまう。さすがに待たせられない。
教室を出て昇降口まで行く間。由佳はにこにこ笑って横をついてくる。
なんだかすごく楽しそう。何かいいことでもあったのかな。
その気分を壊したくはないけれど。
靴を履き替えて、梓は言う。
「実はさ……今日、親が迎えに来てるの。ちょっと調子悪くなりそうだったから連絡したら来てくれて」
正直に言うことにした。別に隠すことじゃないし。
由佳は「えっ」と手に持った自分の靴を落とした。
慌てて拾って「あ、そ、そうなんだ」と取り繕う。
笑顔が急に困惑へ変わって、一瞬だけ眉間に皺が寄ったが、すぐにぱっと明るくなる。
「ご、ごめんね。親待たせちゃったんだね。じゃあわたし帰るね。また明日!」
由佳は靴を履き替えて、傘を開いて雨の中を走っていった。
ちくりと胸に罪悪感。
だけど安心した気持ちの方が大きかった。
あんな走り方を自分がしたら服がぼろぼろになってしまう。ちょっとうらやましかった。
出来ないことを羨んだり、悲しい気持ちはいつもある。
だけど学校に通えて、食べ物もあって、友達もいる。
それだけで一か月前よりもずっとずっと、自分は高校生でいられてる。
梓は傘を差して、ゆっくり歩いて校舎から出て、正門を通って左に曲がる。
しとしと降る音が怖い。落ちてくる雨粒が大きくて、画鋲が落ちてくるみたい。
小学校の時に誰かが画鋲をこぼして大騒ぎになった時のことが思い浮かぶ。
「大丈夫。大丈夫……」
ぴしゃり、ぴしゃり、と足元で水たまりが跳ねる。厚めのタイツで良かった。仮に足から血が出ても、そんなに服へのダメージはないはず。
梓は人間だった頃も、ヴァンパイアになってからも雨が嫌いだった。
一年間放浪していた時は特に雨が嫌で、ずっと下を向いて、服が血で汚れていくのを見るのが本当に嫌だった。
歩いていくたびに、何にも変わらない止まった毎日に戻ってしまうんじゃないかって気持ちが溢れてくる。
「違う……今は違う……ママがいて、パパがいる。学校に通ってる」
数分かけて歩くと、傘の下から車が見えてくる。水色のワンボックスワゴン。
くすんだ色の土砂降りの中で光って見えた。
傘をぴったりと後部座席につけて、手袋の手でおそろしい水の流れるドアノブに触れる。
電子音とともに自動でドアが開いて、薄暗い車内への道が開ける。
一段車の中へ踏み込んで、傘を引き込むように車の中へ滑り込んだ。
傘が壊れないぎりぎりまで引っ張って、後部座席に尻もちをつくように車の中へ。
水滴が足元に飛ぶのが見えた。
「おかえり。梓。大丈夫よ」
一美が運転席から梓の顔を見て言う。なんだか眠そうな顔。
待たせすぎたし、ちょっと仮眠してたのかもしれない。
梓はふうっと一息ついて、傘を閉じてドアを閉めた。
「ただいまママ。来てくれてありがとう」
「家にいるよりは娘の手助けをしていた方が、気持ちが落ち着くからね」
一美はそう言って車を出した。学校を囲む住宅街の狭い道へ。
そこから大通りに出て、そのまま家に帰るルート。
いつもは60キロぐらい出すのに、40キロでゆっくり車は動いていく。ワイパーがせわしなく動いている。
こんな大雨の中でちょっとでも歩けた自分がすごい。
タイツの足元がちょっと濡れている。
手袋を外すと、真っ白い肌が現れる。
靴を脱いでタイツをずらすと、白い肌のまま。足元までタイツを脱いでも白い肌のままだった。
「……汚れてたらごめんね。傷はないみたいだけど」
「梓が傷つくよりはいいことよ」
一美がバックミラーの中で笑っていた。
梓はブレザーを脱いでシャツ姿になる。全部白いまま。どこにも黒い染みはない。下着の肩紐が青く透けていたぐらいだった。
今日もやり切った。隠し通せた。
「これから梅雨になるし、なるべくママが送迎するわ」
「えっ? いいの? ママだってやることが」
「娘の安全のため以上にやることなんてないわよ」
梓はちょっと照れ臭くなって、脱いだブレザーを畳む作業をすることにした。
また見抜かれていた。
梅雨の時期どうしようと思っていたけれど、先手を打たれていた。
「……ありがとう。甘えさせてもらいます」
ママだって休みたいのにごめんね、とはもう言わないことにした。
ママはきっと休んでる。
家に帰った時、ママが寝てたこともあった。ママって昼寝するんだってびっくりした記憶がある。
今日は一日家にいたはずだし、ママだって大人だから、休むタイミングは知ってるはず。
大雨の中で、
水色のワンボックスワゴンに梓が乗って、出発する。
運転席とフロントガラス以外全部遮光シートが貼ってある。
太陽の光が苦手って言ったのはやっぱり本当。
学校だけじゃなくて、両親も協力してくれてるんだ。
由佳は動く車の後部、白いナンバープレートを見る。
こんなことしたって意味ないと思う。だけどやらずにはいられなかった。
車が去って行くのを見ていると、胸がきゅうっと締め付けられて泣きそうになる。
大丈夫。また明日会えるから。
自分に言い聞かせて、一人で帰路につく。