はらぺこヴァンパイア 作:棗の
無機質な
ドアの先は暗い。ドアを開けたまま、外の廊下の光で下を見る。
靴は一つだけ。ごみ捨てに行くときに履く、子どもっぽいスリッパ。
二つ目の靴はない。
すんすんと鼻を鳴らしてにおいを嗅ぐ。かすかな洗剤のかおり。部屋干しの洗濯物。
いやなにおいはしない。
「……よかった」
体に纏っていた緊張がほどける。
ドアを閉めて、鍵をかけた。
パーカーのポケットから家の鍵とスマホを出して、玄関横のキャビネットに置く。
両手に持っていたエコバッグとレジ袋を玄関に置く。
中からトイレ用洗剤のボトルがはみ出て、ころころと廊下を転がる。それを乱暴に掴んで、袋に突っ込みなおした。
靴を脱いで、パーカーのフードを外して洗面所へ。
ぼさぼさのちょっと色の薄い黒髪と、何の可愛げもない顔が鏡に映る。
子どもっぽい顔に似合わない表情。
「ひどい顔……」
悪態をつきながら、手を洗ってうがいをした。
使い捨てのペーパータオルで手と口を拭いて、そのあとに洗面台を拭く。
水滴一つなくなるまで、何度も拭く。
拭き終わったら廊下とリビングを分ける扉を開けて、壁のスイッチを押す。
細長い形のワンルームのリビング。
一人用のテーブルと、一人用の座椅子。窓のカーテンは締め切られていて、窓の手前に突っ張り棒がある。
突っ張り棒には似たような色のパーカーと、まだタグがついている淡い黄色のカーディガン。
細長い部屋の左にはテレビ台と小さなテレビ、右にはシングルサイズのベッド。
ベッド上の枕も薄い掛け布団はきっちり整えられている。
何も変わっていない、
テレビの横に立てかけたリモコンを取って、録画リストの中から番組を適当に選んで流す。
音楽番組が賑やかなK-POPからはじまる。
由佳は廊下に戻って、壁に埋め込み式の小さな流し台とキッチンがある隣、背の低い冷蔵庫を開けた。
冷蔵のウインナーとマーガリン、昨日の夜作ったシチューの鍋。飲みかけの炭酸のペットボトル。目薬と、調味料がいくつか。
炭酸のペットボトルを取ってキッチンのIHコンロの上に置いた。
買ったものを冷蔵庫に入れていく。
一つ一つ、パズルを組むように隙間を作らず置いていく。
ぼんやり光る廊下の明かりがいつも暗くて、なんだか気持ちまで暗くなるけれど、やらずにはいられなかった。
数十分かけて全部入れ終えて、エコバッグを畳んで玄関のキャビネットに置く。
置いたときに手が引っかかって、少しだけ位置がずれる。
もう一度掴んで、キャビネットの縁と平行になるように四角いエコバッグを置きなおした。
廊下の壁のクローゼットを開けて、スティック掃除機を取り出す。
電源を入れて、玄関から廊下、リビングへと歩いていく。
廊下の右の端から、左の端まで、ゆっくりと掃除機を動かしながら。
リビングの座椅子をどけてその下も掃除して、ベッドの下もゆっくりと掃除する。
窓際まで行ききって、掃除機の電源を切った。
見た目では何も変わっていない。相変わらず埃も落ちていない部屋。
「よし……」
由佳は廊下に戻って掃除機をしまって、もう一度リビングを見る。
ちょっと座椅子の傾きが気になって、近づいて向きを直す。カーテンが風圧で少し開いていて、それも近づいて両手で直した。
もう一度見まわして、気持ち悪いところが無いことを再確認した。
「……はぁ」
疲れた。
だけど全部きれいなへや。気持ち悪いところはない。
パーカーとサルエルパンツを脱いで、洗面所のドラム式洗濯機の上に畳んで置いた。
畳んでいた部屋着のスウェットに着替えて、さっき出した炭酸とスマホを取って、座椅子に座った。
テレビでは知らない男の人のグループが踊りながら歌っている。K-POPに影響を受けたダンスメインのグループ。
由佳は録画の再生を止めて、Netfrixのボタンを押す。見ている途中の海外ドラマを再生する。
プラチナブロンドの女性俳優が、アジア系の女性俳優と二人で食事しているシーン。
ドラマをぼんやり見ながら、由佳はスマホの写真アプリを開く。
カメラロールの一番手前にある一枚の写真をタップする。
連休に入る前の昨日、学校で撮った写真が画面いっぱいに広がる。
その写真がキラキラ輝いて見えて、由佳はにっこりと笑った。
「あずさ……」
それは、
制服姿の二人の少女。
梓がちょっと困ったように笑って、由佳が満面の笑みを浮かべて梓の胸の近くでピースしている。
金曜日に梓が家に帰る前、無理やり正門の近くで呼び止めて撮った写真だった。
冗談交じりに「梓に会えなくて寂しいから」と言ったら、ちょっと照れた感じで笑って、もっとかわいかった。
ブレザー越しだけど、ちょっとだけ梓の大きな胸にピースした手の甲が触れた。
柔らかさまではわからなかったけど、撮った後もしばらく手がじんわり暖かかった。
「梓……やっぱりきれい」
どうせなら私服姿の写真が欲しかった。
この前偶然スーパーで会った時写真を撮りたかったけれど、盗撮はさすがによくないと思ってできなかった。
たまたまクラスの誰かが撮っていたら、それをもらおうと思ったけれど、他人に撮られるのもなんか嫌な気持ちだった。
カメラロールのアルバムを開く。
『梓』と書いた、赤い眼の少女が映ったアルバムを押す。
写真は二枚だけ。昨日までは一枚だった。
最初の一枚は、自分と
梓とはじめてお昼にご飯をしたときに撮った写真だった。
今回は違う。
わたしと梓の二人きりだけ。
由佳はスマホをもったまま、冷蔵庫から今日買った総菜のお弁当を取り出して電子レンジで加熱する。
電子レンジのうるさい音もドラマの英語も、遠くに聞こえる。
写真を見ている間は、それだけが世界の全てのように感じた。
「あずさ……だいすき……!」
写真に呼びかけると、あの大人っぽい声で「由佳ちゃん」って返してくれる気がする。
いつか呼び捨てで呼んでほしい。わたしは梓って呼んでるのに。
電子レンジが鳴った。
唐揚げ弁当を取り出して、テレビ台の下の引き出しから割り箸を一つ取る。
一つ取った時に割り箸入れにしている箱から割り箸が一つこぼれて、それを拾いなおして元に戻す。
由佳はベッド横からスマホスタンドを取り出して、スマホを置いた。
スリープモードで休もうとするスマホの電源を付けて起こして、梓と自分の写真を写す。
「いただきます。梓」
総菜の弁当を食べ始める。
もうドラマのことなんてどうでもよかった。横を見ると、白い肌に赤い眼の美少女がいる。
心の底から嬉しくて笑っている自分と一緒に。
それは妄想ではなく、確かに昨日あったこと。
今、一人でお弁当を食べていることなんてどうでもよくなるほどに嬉しくて、胸の奥が暖かくなる。
梓と二人きりで写真を撮った人は、きっとクラスに誰もいない。
八坂が撮っているのも見たことない。梓は自分から写真を撮る性格じゃない。
由佳はにこにこしながらお弁当を何口か食べて、ふっと途中で、考えが浮かぶ。
休みの日は?
それかバイトしてるかも。バイト先に八坂が来てるかも。
あの頭の悪い女ならやりかねない。
梓の迷惑も考えずに来て、「制服のあずちんカワイイー」なんて言って。
「……梓の制服姿はわたしが先に見るんだから」
胸がざわざわして、鼓動が速くなる。
いけない、と首を振る。
考えたってどうしようもないこと。
土日に梓が何をしているのかよく知らない。
だけど太陽の光や雨が苦手だから、外には出ないはず。夜遊びするようなタイプじゃなさそう。
それに、夜だと絶対にあの目や肌は目立つ。
真っ白できれいで、月明かり全部を纏っているように輝いていたから。
そんなの見たら男も黙ってない。
「……違う。絶対ない。梓は彼氏いない」
由佳は頭が勝手に出してくる可能性を消すように、唐揚げを嚙み潰す。
隣にある現実の梓と自分の写真を見て、心の奥で暴れる根拠のない厄介者を鎮めていく。
わたしは一人じゃない。
梓と一緒にいる。一緒にご飯を食べてる。
入学式から一か月もたってないのに、一瞬でクラスの話題をさらったアルビノ美少女。
二人っきりでいま、ご飯を食べてる。