はらぺこヴァンパイア 作:棗の
天気は快晴。
雲一つない五月晴れ。
それだけでヴァンパイアにとっては最悪なのに、今日は悪いことの連続だった。
昼休み。
事の発端は八坂の一言。
「ゆかっちっていつもコンビニパンだよねー。太るよー」
なんとなく発したその言葉の直後、由佳が急に机を叩いて立ち上がって、悲鳴みたいな声を上げて八坂に掴みかかった。
由佳は無言でしばらく八坂を見た後、何も言わずに教室を出て行った。
八坂も笹川も、ばつの悪そうに教室を出てどこかに行った。
四人いたのにあっという間にひとりでぽつんと取り残されて、周りのクラスの子たちがなんとなく見ていた。
痛みを感じないのに痛い気がして、梓も外に出た。
どこか一人になれる場所に行きたかった。
友達同士の喧嘩なんかほとんど見たことがない。
ドラマの中で大人同士が演技をする所すら見るのが辛いのに、もっとひどいものなんて見たくなんてなくて。
思い出したくもなくて。
なんだか泣いてしまいそうで。
せめて人目のつかないところで泣きたかったから。
だけど。
図書室に人が増えて、いつもの遮光の席が使えなかった。
視聴覚室に軽音楽部の先輩たちがいて、近寄れなかった。
保健室に熱中症で倒れた人がいて、申し訳なさそうに断られた。
校内のどこも太陽の光でいっぱい。
光で溢れていて、ヴァンパイアには優しくない世界。
仕方がないからトイレの個室にずっと籠っていた。
狭くて、嫌な臭いがした。
良くなかった漫画喫茶に泊まった時の記憶が頭をよぎった。
他の人の迷惑になるけれど、起きる時間を体に言い聞かせて座ったまま眠っていた。
昼休みが終わる直前に由佳と八坂は帰ってきた。
けれども一言も喋らず、ずっとピリピリした空気のまま六時間目まで過ごした。
針のムシロって言葉があるらしいけれど、こういう時に使うんだと思った。
ホームルームが終わると同時に由佳は八坂を睨みつけて、全身で怒りの空気を撒いて教室を出ていった。
笹川は八坂に「あんたさ、いい加減にもうちょっと賢くなってよ」と言って、手を引いてどこかに連れて行っていた。
せっかく出来たキラキラした友達の輪が、簡単に砕けてしまって。
カラオケの時の失敗の記憶も頭から離れなくて、帰りの車の中でもなんだか気持ちが悪くて。
これは罰だと思った。
13人も殺して何の罪も償ってない自分への罰。
神さまが調子に乗りすぎた自分に、今日一日でいっぱい罰を与えたんだと思った。
だから。
その罰に耐えた自分に、
お腹はそんなに空いてない。でも満腹じゃない。
自分が何かおかしい。わかってる。
だけど食べたかった。
だって私はヴァンパイアだから。
「ただいま」
だから家に帰ってブレザーを脱ぎ捨てて、冷蔵庫の引き出しを開けていた。
4月の頃よりだいぶ減ったけれど、血液パックがいくつか入っている。
その一つを手に取って、ゆらゆら揺らす。
きれいな赤色。
おいしそうで、温かくて、きれいな色。
お菓子と一緒。食べれば、ちょっとだけ気持ちが落ち着くから。
だって私はヴァンパイアだから。
別にいいでしょ?
「……ママ。いい?」
ゆっくり電気ポットでお湯を沸かす。
普段の梓ならできることを手伝おうとするが、今の梓は機嫌が悪かった。
なんだかぐちゃぐちゃでもやもやしていて、いつもは気にならない窓の隙間からの明かりすら嫌で。
ドンドンと足音を立てて近づいて、乱暴にカーテンを閉めてしまった。
梓は牙を剥きだしにして、閉まったカーテンの向こうを睨んだ。
その向こうで輝く、忌まわしい太陽を赤い目で睨みつけていた。
「梓。一度座って、目を閉じて三秒数えて」
いつもと違う硬い声。
梓が振り返ると、笑っていない一美がいた。
梓は湧き上がる感情をぐっと飲み込んで、座って、目を閉じて三秒。
知らずに握りしめていた手が解けると、なんだか手がべっとりしていた。
手を開くと、手のひらに四つ、黒く細い穴が開いていた。爪と指にゼリーみたいな黒い血がついていた。
やってしまったと思う間に、手のひらの穴が映像の逆回しみたいに塞がって、手相の薄い人形みたいな手に戻った。
「……ごめんママ。色々あって、イライラしてる」
梓の声は、その肌と同じぐらいに冷たかった。
「わかってるわよ。梓だって人間なんだから、気分が沈む時ぐらいあるから」
「っ人間じゃない!! 化け物なの! 太陽が怖いの!!」
梓は牙をむき出しにして、拳を握って母を睨みつけた。
「ママに何が分かるの!? ママは太陽なんかこわくないでしょ!」
目の前に立つ人間に、拳を握って言葉をぶつけた。
一美は引かなかった。涙も流さなかった。
おぼつかない足で立ったまま、じいっとヴァンパイアの赤い眼を見て、「梓」と一言。
諭すように。
「そういう日もある。わかってるでしょ?」
梓は口を閉じて、ぎりぎりと口の中を牙で刺す。何度も執拗に。
どろどろの血が口の中を満たして、それを飲み込むと、ちょっとだけ気持ちが落ち着く。
ふうっと息を吐いて、「ごめんなさい」と、ぺこりと頭を下げた。
一美は梓の頭を一度撫でて、よろよろと台所へ行った。
お湯をためたボウルにフリーザーバッグ入りの血液パックを入れて、いつものように温め始める。
「……おなかすいた」
ぐつぐつと煮立っているお湯みたいに、自分の中に熱くて嫌なものが溜まってる。
今日溜まった嫌なものが全部全部、暴れてる。
ヴァンパイアだけど、ストレスは溜まる。こういうもやもやがストレスなんだ。
ストレスが溜まると、人は嫌な人になるってパパも言ってた。
人間だった頃にストレスって言葉はあんまり使わなかったけど、人間じゃなくなってたくさん理解した。
ストレスは抜かないと。
ストレスが溜まったら、自分を甘やかした方がいいって言ってた。
ちょっとぐらい、自分に甘いことをしたい。
だって私はヴァンパイアだから。
「……ママ。今日は、お風呂で食べたい」
梓はゆらりと立ち上がって言う。
一美は振り向かなかった。
梓は薄っすらと笑っていた。
これから楽しいことが始まるから。
別に初めてのことでも無かった。
食卓で血液パックを食べるようになってからも、何度か梓はお風呂に持って行って食べていた。
大雨の日。
体育の見学で、可哀そうって目で見られた日。
日差しが強すぎた日。
気持ちが辛くなって、もやもやしても、家に帰ったらおいしい血がある。
思いっきり噛みついて、引き裂いて、飲み干せば全部どうでもよくなる。
私はヴァンパイアだから。
誰も傷つけてないから大丈夫。
梓は薄っすらと笑みを浮かべ、一美の前に立っていた。
赤い目を細めて、目の前の人間を見ていた。
「しばらく我慢するから。今日パパ帰ってくるの遅いと思うし」
根拠のない言い訳がすらすらと口から出てくる。
「ママも食事の時の片付け、少ない方が楽でしょ? ね? 食べていいよね?」
残り少ない血液パックを、こんな無計画に食べるなんて良くない。
そんな声が一瞬だけ梓の中に響いて、黒い手にかき消されて消えた。
一美は、目を逸らし、こくりと頷いた。
「あはっ♪ ママありがと!」
梓は手をアルコールティッシュで拭いて、制服のシャツを脱いで、下着姿でブレザーを畳んだ。
部屋着に着替えて、ソファに座った。
薄ら笑いを浮かべて、牙を自分の指で撫でる。
指先に牙を刺すと、黒い血が溢れてきて、それをちゅうっと吸い取った。
食事を待つときの楽しみ。
この牙が首の柔肌を貫いて、その内側にある血肉を抉り出して、冷たい身体に熱を帯びるその瞬間を待ち望んで。
一美は、梓が背を向けているのを確認して、台所の壁に寄りかかった。
僅かに緊張の糸を緩めた。
乱れた呼吸を整えて、ぐらぐらする視界の中で、コンロの横の引き出しからサプリメントを取って飲む。
歯を食いしばって流し台によりかかって、ボウルに指を浸す。
娘にご飯を用意しないと。
私は母親だから。
ボウルからフリーザーパックを出して、中身を取り出して、キッチンペーパーで拭く。
一度頬にあてて、温度を確かめて。
「ふうっ……」
苦しくなった肺から息を吐いて、後ろに振り向いた。
まだ娘は、じいっと何も点いていないテレビを見ていた。
娘の指先が、僅かに口元のあたりで動いているように見えたが、きっと気のせいだと思うことにした。
指で
一美は大きく深呼吸して、梓の元へ行く。
「できたわよ」
いつも通りを装って言ったけれど、少し冷たい口調だったかもしれない。
いつもの娘なら、それに気づいて心配そうに見てくるはずだった。
「ありがと」
しかし今の梓は、薄っすらと笑ってそれを受け取って、片手で不器用に隠して舐めた。
真っ赤な目が母への興味を失って、じいっと血液パックだけを見ている。
梓は立ち上がって、部屋着を雑に廊下に脱ぎ捨て、下着姿でお風呂場へ歩いていく。
とん、とん、とん、と規則的な足音が聞こえ、お風呂場の引き戸が閉まる音が聞こえた。
怪物との対峙を終えた一美は、その場に座り込んだ。
「はぁ……」
ぐっしょりと額に嫌な汗をかいている。
前傾姿勢になって、腹式呼吸を意識して、数を数えながら一定のリズムで呼吸する。
恐怖心じゃない。
ただの体調の問題。
あれは娘。優しくて愛しい、私の娘。
不安定になっている脈をはかるため、左手の指を二本、右手の動脈部にあてて確認する。
緊急性はないと判断して、前傾姿勢のまま目を閉じる。
呼吸が安定してくるにつれて、冷や汗が引いてくる。
今日も一つ、母親としての仕事をした。
娘を無事に学校へ送り届けて、娘のために食べ物を作った。
あれは自分の娘。絶対に間違いない。
ちょっと機嫌が悪いだけ。
梓は優しくて穏やかな子だけど、気分の浮き沈みぐらいある。
こうやってその場しのぎをしても、体の不調が終わることなんてない。
それは自分が一番よくわかっている。けれども止めるつもりもない。
自分が梓の母親だから。
「ふぅー…………」
頭の中で夕飯の献立を考えながら、今日の運転を振り返る。
一度意識が途切れかけて、センターラインをはみ出してしまった。
かなり危ない兆候。別の手を考えないと。想定より早く症状が悪化している。
いっそもっと悪化させて、病院に行けば。
それは
脳内の全てが警告を発していた。
ブラックアウト寸前の意識がかすかに、何かを破く音を捉えたが、目を開ける気力が無かった。
下着姿の梓は手元の血液パックを両手で抱えるように持って、一度、口づけをする。
暖かい。
人肌みたいな暖かさ。まるで人間の首筋みたい。
人は噛んじゃダメ。でもこれならいい。
どれだけ汚しても大丈夫。今ならだれも見てない。
だって私はヴァンパイアだもん。
おやつを食べるだけだから。
ぐるぐると自分の回る黒い罪の影に、梓は牙を立てて睨みつけた。
黒い影は一瞬で霧散して、また梓は薄ら笑いを浮かべて目の前の食べ物を見る。
「えへへ……」
おいしそう。
今だけはぜいたくしたい。
暖かくて、噛み心地も悪くなくて、おいしそう。
噛みちぎりたい。ぐちゃぐちゃに噛んでしまいたい。
私はヴァンパイアだからいいんだ。
誰も傷つけてないから。
「いただきます」
梓は牙を立てて、血液パックに食らいついた。
一瞬も耐えられずに弾けた血液パックから、暖かい血が溢れ出て口内を満たす。
自分の血なんかよりもずっと暖かくて、美味しくて、満たされる。
心の中で煮えたぎっていた気持ちが、真っ赤な血で流されていく。
体を前に傾けて、血液パックと自分の手を床に押さえつけて。
何度も噛みついて、溢れ出てくる血に悦ぶ。
暖かくて、満たされていく。今日あったことなんかどうでもいい。
たのしい。
おいしい。
「はぁっ、はあぁっ」
犬みたいに這いつくばって笑いながら、何度も噛みついて血を吸う。
口の周りを真っ赤に染めて、血液パックをぐしゃぐしゃにして。
これは人間の首。
これは人間の首!
私は噛みついてる!
首を噛んでる!
血を吸ってる!
もっとたべたい!!
ぱしゃり、とボロボロのプラスチック繊維の塊が浴室の床に転がった。
時間にして、ほんの一分もなかった。
最後の一滴を舌で舐め取って、牙に絡みついたままのプラスチック繊維を、指で掴んで引き千切った。
それがまるで人間の首の繊維を噛み切ったみたいで、また少し気持ちよくなった。
牙をむき出しにして、天井を仰いで、ふうっと一度、熱い息を吐き出す。
そうして、5秒。
「…………はぁ」
梓はばたりと浴室に倒れた。
おなかの中が暖かい。体が火照っていて、気持ちいい。
足りない。
どうしようもなく足りない。
だけど、物足りなさよりも、気持ちよさの方が勝っていた。
今は悲しくなかった。むしろ楽しかった。
ほんの今の、数分の間だけ。
自分はどうしようもなくヴァンパイアで、だから、ちょっと変わってる人になろうとした。
食事の仕方だって、ちょっと変わってたって別にいいんだ。
誰にも迷惑をかけないところで、こうやって気持ちのままに血を吸うと、なんだか全部どうでもよくなって、すごく気持ちがよくなる。
いけないことだってわかってる。
三浦梓は人間だから。
だけど、あと数分だけ、この高揚感に酔いしれたかった。
これは最近見つけた新しい趣味。
だけどもう終わりかもしれない。
血液パックの個数は、
私の財布の中のお金と違って、ママやパパがこっそり入れてくれてる様子はない。
そんなこと出来るはずが無いものだから。
食べる頻度を、減らさないと。