はらぺこヴァンパイア 作:棗の
無機質な鈍色の鉄のドア。七階建てマンションの一室。
ドアの先は暗い。ドアを開けたまま、外の廊下の光で下を見る。
靴は一つだけ。ごみ捨てに行くときに履く、子どもっぽいスリッパ。
すんすんと鼻を鳴らしてにおいを嗅いで、気付く。
ツンとする臭い。由佳が最も嫌いな臭い。
酒だ。
ぎゅうっと眉をしかめて、もう一度足元を見る。
靴は間違いなく一個しかない。
大丈夫。まだ本当の最悪じゃない。
電気をつけて、少しずつ視線をずらす。
廊下。大丈夫。
洗面所の前。大丈夫。
台所——
「っ……!」
黄金色の液体の入ったウィスキーの瓶と、潰れた銀色のビール缶。
自分の世界を侵すもの。
由佳は買った物の入ったエコバッグを置いて、鍵を閉めた。
靴を脱いでその異物を手に取って、水栓を全開にして中の液体を捨てた。
ツンとした薬みたいな嫌な臭いが一層強く充満する。換気扇の電源を入れた。
汚物を一つ洗い流し、そこからリビングスペースを見た。
由佳の聖域が、荒らされていた。
テーブルの上にコンビニのお酒コーナーのつまみが食い散らかされていて、破れたストッキングが座椅子に引っ掛かっていた。
朝干していった洗濯物が部屋の隅にぐしゃぐしゃに丸められていて、カーテンも半分だけ開いていた。
ベッド側面の引き出しもいくつか開いていて、由佳のタブレットが部屋の隅に転がっていた。
ベッドの上の掛布団も滅茶苦茶になり、スマホの充電ケーブルが引き抜かれて、床に転がっていた。
無数の虫が這い登るような不快感。
「っ……っつ!」
由佳は手に持った酒瓶を放り投げようとして、足を一度強く踏み鳴らしただけで思いとどまる。
玄関横の引き出しからゴミ袋を取り出して、瓶と缶を別々の袋に入れて、玄関扉の左側に置く。
制服のブレザー、スカート、シャツを脱いで、穢されていない玄関マットの横に畳んで置く。
ゴミ袋とマスクと手袋を取り出して、自分のリビングを荒らす物を拾って、その中へ放り込んでいく。
嫌な予感がしてトイレを開けると、便器の周りに吐瀉物が散らばっていた。
猫のスリッパがぐしゃぐしゃにされて、トイレの隅に追いやられていた。
また一つ、由佳の世界が穢されていた。
「っ……!!」
由佳は拳を握りしめて、全ての感情を飲み込んで、一度ドアを閉めて、リビングを掃除する。
荒らされた聖域を、元に戻すために。
一つ一つ元の位置に戻し、カーテンを直し、穢された部屋を清めていく。
人生の中で何度も何度も繰り返してきた地獄。
ごみをまとめて、袋を縛って玄関に並べていく。
置いたときに中身がズレて少し袋が傾いて、舌打ちしてもう一度ゴミ袋を持って、壁とくっつくように置きなおす。
一度息を整えて、手を洗ってうがいをして、後ろを振り返る。
開けっ放しの浴室の床に、いくつも長い髪の毛。
淡い赤色とブリーチした金色の長い毛。
耐えきれずに一度、洗面台を叩いてしまった。
右の拳が痛い。
馬鹿なことをした、と毒づく。昨日は左手で、今日は右手だった。
キッチンからキッチンペーパーを大量に出して、ごみ袋を一つ出してトイレへ。
奥歯を噛みしめたまま、トイレにぶちまけられた吐瀉物を拭いて、スリッパを手に取った。
かわいい白い猫の顔に、吐瀉物がこびりついている。
これ、気に入ってたのに。
吐瀉物まみれのスリッパを、拭いたペーパーと一緒にゴミ袋へ入れる。
洗濯機の上に置いていたのにぐしゃぐしゃにされた自分の寝間着と、着ていたパーカーや下着、リビングの隅の洗濯物をまとめて洗濯機に放り込んで、スイッチを入れた。
そのまま浴室へ入り、シャワーを全開で出す。
不浄な髪の毛を洗い流して、体の汚れも洗い流した。
何もかも流してくれることを期待して。
由佳の漏らす嗚咽を、シャワーと換気扇と洗濯機の音が覆い隠していた。
一時間経って、由佳がお風呂から出て、バスタオル姿のままリビングへ。
泣き腫らした目が痛かった。
ベッドの引き出しから下着と寝間着を取り出して着て、ベッドに座って、体を倒す。騒がしい換気扇のおかげで、不浄なにおいは一掃されていた。
「はぁー……」
今回もまた、由佳のものが犠牲になった。
だけど、本当の最悪じゃないから、大丈夫。
この部屋で一番大事なタブレットを手に取って開く。
”Yuka.Y”の文字と時刻。
20時10分。割れたりはしてない。画面が汚れている。
脂のついた手で触って、ロックが突破できなくて投げたんだ。
ざまあみろ。この中はあんたが見ていい所じゃない。
由佳はベッド下の引き出しから除菌シートを取り出して、念入りにタブレットを拭いた。
気持ち悪さがなくなるまで。
買ったものを冷蔵庫に入れ忘れたことに気付いて、玄関のエコバッグを拾って一つずつ詰めていく。
今回はこの中は荒らされていなかった。ちょうど食べ物がないときで良かった。
いつもように、”あの人”とは違ってきっちり、整然と並べていく。
食材を並べ終えて、エコバッグをきちんと置いて、またベッドに倒れこむ。
疲れがたまってる。学校が終わってそのまま買い物に行ったから当たり前だ。
こんな時間まで何も食べてない。
本当はしばらくお風呂に入るつもりはなかった。
買ってきた総菜弁当を食べながら、
今日も、
梓が授業終わりにノートの見直しをしている所で、横を通り過ぎながら、ちょっと当たったふりをして思わず触ってしまった。
ほんの一秒だけ。
梓は赤い眼を見開いてこっちを見ていた。
「あ、ごめん、触っちゃったかも」って言ったら、「そういうこともあるよ」って返してくれた。
一秒だけ。
確かに手を触れた。
これで二回目。梓の中指と小指の先だけ。
なんだかすごく冷たかった気がする。一瞬だし分からなかったけれど、それからじんわりと指が暖かくて、いつか手をつなげる時が待ち遠しくなった。
スリッパが犠牲になったことよりも、その暖かさを奪われた方が、今の由佳には許せない事だった。
由佳はスマホの電源ボタンを押す。ロック画面は梓との写真のまま。
連休中だけって約束だったのに、まだ梓は傍にいてくれる。
よくよく考えれば女の子同士だし、写真をロック画面にしててもなにもおかしくないよね。
みんなから見れば友達同士だろうし、梓とわたしが仲がいいのはみんな知ってる。
むしろ仲が良いって既成事実を作れるんだから、ロック画面をこのままにして置きっぱなしにするのもありかも。
「梓、ただいま♪」
自然と頬が緩んで言ってしまう。
いつかおかえりって返してほしい。
録音してって頼んだらさすがに引かれちゃうかな? しょうがないなぁって言ってくれるかな。
赤い目をちょっと細めて、困った顔で言う梓を想像しただけで、胸がきゅんきゅんして笑顔が溢れてくる。
さっきあった最悪な出来事を心が思い出さないように、しばらくそうやって自分に都合のいい世界にいた。