はらぺこヴァンパイア 作:棗の
お手頃な価格帯のイタリアンレストラン。梓も何度も行った駅前のファミレス。
年甲斐もなく運動して熱された体を、冷房が冷やしてくれた。
梓の前にはミラノ風のドリア、浩平の前にはディアボラ風ステーキとお茶があった。
「ありがとパパ。何とかなりそう」
梓はにっこり笑って言う。口元から牙の先が見えているが、浩平もにこりと笑い返した。
姿の変わった娘の笑顔も、もう見慣れてきていた。
「どういたしまして。久しぶりに梓と遊べて僕も楽しかったよ。釣りは夜に出来ないからね」
「私がもうちょっと太陽に慣れたら一緒に行こうよ。また鯛とか釣ろうよ。パパの刺身の腕前、衰えてないか見てあげるから」
それは梓がヴァンパイアとして家に帰ってから抱いた、新しい夢の一つだった。
「お手柔らかに頼むよ。梓がいない間は作ってないんだ」
「そうなんだ。ママと釣りに行かなかったの?」
「ママは仕事で疲れてるし、休みの日はゆっくりしてほしいんだ。釣りは忍耐だからね」
浩平は月曜日から金曜日が仕事でそれ以外が休み。
昔から変わっていないリズム。
変えたのは、一美の謹慎処分だが。
「……ママ、大丈夫なのかな。最近、調子悪そう」
梓はドリアを適当に混ぜながら、目を伏せて言う。
手元のドリアも全く食べたいとは思えなかったが、手つかずだと父が周りの人から悪い目で見られてしまうから。
「……ママは梓が学校に通う事になって、色んな人に声をかけたから、ちょっと疲れちゃったみたいだね。大丈夫だよ。ママも大人だから休み方は知ってる。梓はまず自分のことからね」
不調の本当の理由は知っている。
それはそれとして、疲れるのも無理はない。
警察を騙し、旧知の養護教諭を騙し、学校の校長を騙した。
そのたびに罪は妻の肩に乗り、妻を痛めつけた。
妻が寝る前に涙を流し、自分に縋りつく頻度も増えた。
娘に聞こえないよう、声を押し殺して泣く妻の体は震えていた。
這い上る罪と、近づく限界に。
しかしそんなことは、娘が気にするべきではないことだ。
「私だってもう子どもじゃないよ。学校だって……送ってもらってるけど行けてるし」
梓のノートに書いた”できないこと”は数十個に及んだ。
相変わらず歴史の授業で不意に出てくる神聖なものが怖いけれど、4月のはじめよりはずっとうまくいっていると思っていた。
今いるこのレストランでも、視線をちょっと左の壁にずらすと、拳銃を向けられているような恐怖がある。
何か、神聖なものが描かれた絵が飾っているんだ。
お店に入る時も、目を伏せて足元を見ながら席まで歩いた。
「うん。梓が頑張ってるのは知ってる。だけど、梓は周りの人よりたくさん頑張らないと学校に行けない。その頑張りを、ちゃんと褒めてあげることも大事だよ」
浩平もこの一か月、仕事以外何もしていないわけではなかった。
妻から娘の持つ制約や、ヴァンパイアの特徴を聞き、メモにまとめていた。
ヴァンパイアの生態は、暗所から人間を襲い、一撃で殺害し離脱することに特化している。
死体を持ち去ることも容易だろう。そのように最適化された生物だと感じた。
梓はそれと用心深さを使い、ずっと隠れていたんだろう。
どれほど孤独で、苦痛に満ちていたんだろう。
まだまだ娘は努力しなければ、かつて持っていたものは再び手に入らない。
その努力の義務は、なぜ娘に課されたのだろうか。
品行方正に生き、優しく、人の幸せを願う娘が、なぜそんなハンディを背負わされたのだろうか。
あの日、梓が塾に行くとき、もし雨が降っていたりすれば。
娘は雨のことを愚痴りながら人間のまま帰ってきたのだろうか。
娘にとって、努力しても手に入らないものもたくさんあるだろう。
それが娘にとってどうしても必要なものだったら、その時に親として何ができるのか?
浩平はずっと考え続けている。
妻は一つの答えを出し、歩み始めた。自分には答えが出るだろうか。
自分たちの元へ戻ってきてくれた愛しい娘のために、自分の力で何ができるのだろうか。
悲しみと罪に縛られた娘の心を、癒してあげることはできるのだろうか。
「大丈夫。ノートいっぱい書いてるし、最近は自然と嘘もつけるようになったの。ばっちりばれてないから」
梓は小さくピースサインをした。
「さすがだね……って言われるのも複雑だと思うけど、嘘をつくのも大事だよ。
梓が優しい子だってことはみんなわかってるから、ちょっと怪しい所があっても、何か事情があるって思ってくれるはず」
梓は感傷に浸るように笑った。顔を伏せて、赤い上目遣いで聞く。
「……私、嘘つきって思われてないかな?」
「努力の人って思われてるよ」
煙に巻くような言い方になってしまったが、娘は照れ臭そうに笑った。
指で片方の牙を撫でて、自分の方を何度か見ていた。
梓の新しい癖の一つ。時々牙を撫でたり、舐めたりしている。
一美の首に甘えるように顔をこすりつけていることもある。
それが娘の中にいる”ヴァンパイアそのもの”の意思かもしれない、と妻は思っているようだった。
娘はそのヴァンパイアそのものに操られる人形になってしまったと、悲観しているようだった。
娘の意思決定の裏の全てには狡猾なヴァンパイアがおり、その声なき声に娘は動かされていると推測している様子だった。
だが、浩平はそうは思わなかった。
娘とヴァンパイアを分けること自体が、娘への冒涜であると浩平は思っていた。
三浦梓はヴァンパイアだ。だが、それは娘が怪物であることと等価ではない。
ヴァンパイアであることは、怪物であることではない。
楽観的な見方かもしれない。
だが、そう思い続けることこそが、自分の役目だと思っていた。
「じゃあドリアもいただくよ。いやーお腹空いててさ」
浩平はわざとらしく言って梓の手つかずのドリアを取る。「パパ食べすぎだよー」と娘も合わせてくれた。
そうして親子の夜は更けていく。