はらぺこヴァンパイア 作:棗の
ついにこの時が来た。
血液パック。
最後の一つ。
「……はぁ」
今日は楽しかった。
ヴァンパイアになってはじめて、友達と遊びに行った。
ヴァンパイアの私でも、友達と楽しくお出かけができるんだ。
心の奥が暖かくなって、ちょっと鼻歌を歌ったりしていた。
こんな時に血を食べたらもっと楽しくなると思って、軽い気持ちで冷蔵庫を開けたのが良くなかった。
残りの血液パックの数が片手で数えられるようになってから、怖くて自分で開けてなかった。ママにお願いしていた。
だけど今日はママがお風呂に入ってたし、うっかり開けてしまった。
もう、次の血液パックを手に入れる方法がない。
そんなことわかりきっているから、目を背けて、学校生活が忙しいからって思っていた。
だけどまた、現実は背中まで追いついてきていた。
ヴァンパイアの体は心臓も動いていないし、汗もかかない。
そのはずの体が、ぐらぐら揺さぶられて、牙の先が渇くような錯覚。
この体だって知ってる。
最後の一つの血液パックを食べたら、次のごはんがいつか分からないって。
「……梓? どうしたんだい」
後ろからの声に振り向くと、梓の父・
梓に水滴がつくとまずいので、最近はドライヤーで髪を乾かしてから出てきている。
「あ……う、ううん。なんでもない。ごめんね、ジュース取る?」
梓が閉めた冷蔵庫の引き出しがどこなのか、浩平は見逃さなかった。
僅かに唇が何かを呟こうとして、梓の横をそっと通って、冷蔵庫の上段から炭酸飲料を取り出した。
冷蔵庫の前で、親子の目線が交錯する。
「……梓も、ごはんにする?」
先に口を開いたのは浩平だった。
梓はこくりと頷いて、リビングのソファに座った。
テレビをつけると、もうバラエティ番組の時間は終わっていて、ニュースの時間になっていた。
広がる格差、外国の戦争、殺人事件。そんな話題が流れてくる。
それは小さな針となって、梓の心を傷つける。
浩平は冷蔵庫の引き出しを開けて、最後の一つの血液パックを手に取った。
冷たく、どろどろの液体の入った化学繊維の塊。娘にとっての唯一にして最大のごはん。
浩平はごくりと唾をのむ。
妻がいつも、どうやって娘に食事として出していたのかは知っている。
梓がまだ小さい時、妻の代わりに哺乳瓶を温めたこともあった。
それと同じようなものらしい。
フリーザーバッグに血液パックを入れ、お湯をボウルに溜めて、そっと浸す。
僅かな水音に梓が振り向いた。
赤い目がぼんやり輝いて、にっこりと笑っていた。
「えへへ……今日はパパがつくってくれるの?」
そう言ったのは娘なのか、娘の中の何かか、どちらなのだろう。
梓はぴょんと跳ねるようにソファから起き上がって、浩平の横にやってきた。
ぱたぱたと軽い足音が、浩平の背筋を冷やす。
そうしてやってきた梓は、お湯の中でできあがりを待つ血液パックを無邪気に覗き込んだ。
体全体を浩平に押し当てるように近づいて。
「あったかい血、もうすぐたべられるよね?」
「そ、そうだね。もうすぐできるよ」
梓が自分への体の接触を避けるようになったのは、小学校の高学年ぐらいだった。
無邪気に「パパ」と呼んで手を握ろうとする娘も、思春期を迎えればおのずとそうなると知っていたし、僅かな寂寥感以外に何も感情は無かった。
しかし今の梓は、まるでその頃のように無邪気に体を押し付け、浩平と血液パックを交互に見ている。
淡く輝く赤い目の奥の感情は窺い知れないが、少なくともそこに娘の可愛さを感じることはできなかった。
「これ、最後の一つなんだよね。ねぇパパぁ、どうやって食べればいいとおもう?」
知っている。妻が娘の食事周期を管理し、特にここ一週間は、食事も最低限にしていたことは知っている。
新たに買うことも、増やすこともできないはずのものが、最後の一つになることはわかりきっていた。
それに対し、
これが最後とならないことも知っている。
「い、いつものように、パパと一緒にテーブルで食べよう。ママは今お風呂に入っているし」
その声は僅かに震えていたが、娘はそんなことを気にもしていなかった。
無邪気な笑顔のままで、赤い目でじいっと浩平を見た。
「……パパの手からたべちゃだめ?」
ヴァンパイアはこくりと首をかしげた。
「てっ……手、から? どういうこと?」
零さないようにボウルを握った浩平の手に、冷たい汗がにじんだ。
「パパが血をもって、私がそれを噛むの。だめ?」
そんなこと、一度も言われたことがない。
目の前の娘は、なぜそのようなことを?
娘の牙はとても鋭い。
触ったことはないが、妻からできるだけ触らないほうがいいと言われていた。
それを触ることが、娘の心に深い傷を負わせるからと。
ふうっと息を吐いて、浩平はボウルから手を離し、ヴァンパイアの方を向いた。
出来るだけ優しく、諭すような口調で。そう念じて。
「……そういう食べ方はよくないよ。梓、いつもみたいに、タンブラーに入れて食べよう。それでいいかい?」
僅かに牙のある口が開いて、何かを言いかけた。
娘の紫がかった色の口内から、ちろりと紫の舌が見えた。
捕食者の赤い瞳がじいっと浩平を見て、悲しそうに逸らされた。
「……うん。ごめんねパパ。ありがと」
それは愛しい娘の声だった。
冷たい体温が浩平の体から離れた。
「……今日はおつかれさま。友達と遊びに行って、疲れたんじゃないかい」
きっと疲れているだけ。
疲れたからちょっとだけ、わがままを言いたかっただけ。
そうに違いない。
「そう、かも。でも楽しかったよ。みなとみらいのベイクォーター、すっごく綺麗なとこだった」
浩平は妻がそうしているように、皿の上に血液パックを置き、タンブラーとタオルを並べて梓の前に出した。
梓は静かにタオルで巻いて血液パックに噛みつき、タンブラーに落として、ゆっくりと飲み干した。
次の血液パックが無い現実も、父に対して見せてしまった汚い一面も、血液の甘い味がすべて押し流して行った。