はらぺこヴァンパイア   作:棗の

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こわい雨-2024年2月9日23時20分

(あずさ)は飢えていた。

 

 

降りしきる雨を、梓はJR五反田駅(ごたんだえき)の出口から恨めしく見る。

その()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

雨は怖い。今の自分にとっては。

 

冬型の気圧配置で、ここ数日雨が続いている。

雨はずっと昔から嫌いだけれど、ここ一年はもっと嫌いだった。

動くこともままならない。

たとえ傘を差しても、僅かに跳ねる水滴が刃のように襲いかかる。

 

ぐらぐらと視界が揺れている。

頭が締め付けられるように痛くて、口の中が乾いている。

 

おなかがすいてる。

 

上顎に犬歯のかわりに生えた一対の牙がうずいて仕方がなくて、自分の下あごを口の中で刺した。

口内に大きな傷が生まれ、傷から溢れたどろっとした液体が口の中を満たす。

それは牙の刺さった所から出た、自分の血だった。

 

空腹を満たすことのない血が口の中をちょっとだけ潤した。

この後に待つ本当の食事まで我慢するよう、体に言い聞かせる。

何の痛みもなく、何の味もない。

ねばねばする冷たいとろろのような液体が、喉の奥に消えていっただけ。

 

すごく、おなかがすいた。

 

周りには何人も人がいる。

誰にだって噛みつける。

 

スマホを見てたり、音楽を聞いてたり。

隙だらけで、後ろから襲えば殺せる。

だけどここでやると、見つかっちゃう。

 

「あぁもう……!」

 

イライラする。目の前にごはんがあるのに食べられない。

 

「うわっ……?」

 

通行人が声を上げた。

フードの下から睨みつけると、早足で通行人のおじさんはタクシーまで歩いていく。

 

何度も口の中を噛みすぎたみたいだった。

足元を見ると、自分の血が足元の雨と混ざって黒い染みを作っていた。

 

 

ヴァンパイアの血は、黒い。

 

真っ黒いオイルのようなねばねばした血。

梓の白い口角の両端から黒く垂れた血が、小さな塊になって梓の足元に落ちていた。

 

 

梓は慌てて場所を移動する。

ダッフルコートのフードを深く被って、一瞬だけ雨の当たる所を通って、反対のお店の軒下へ。

雨粒が何滴かあたって、じゅうっと頬が焼けた。

痛くはないけれど、嫌なにおいがする。

 

雨は本当に嫌いだ。

雨を防げるところで、人を安全に殺せる場所なんてほとんどない。

屋内はどこにカメラがあるかわからない。

死体処理の異形が来るのが遅れれば見つかってしまう。

 

軒下から、さっきまでいた駅の出口を見た。

自分がどこにいたのかすぐにわかった。

白と薄茶色のタイルに、黒いモップみたいに自分の血だまりがあったから。

 

 

梓はスマホを取り出す。

23時35分。終電が近い。

終電になったら、この辺は一気に人がいなくなる。

自転車に乗っている人にも追いつけるけど、噛みついたとき倒れた音でばれるかもしれない。

 

電車が発車する音が聞こえる。

梓はスマホをしまって、目を細めて下を向く。

赤い目で目立たないように、何も興味がないふりをして。

 

人が駅から出てくる。十人ぐらい。ほとんどは男の人。

 

そのうち一人が、傘を差して梓の前を通る。

 

一瞬の交差の中で、コートの襟から伸びた首筋が見えた。

そこに食べ物がある。

 

 

梓の口元に、嗜虐的な笑顔が浮かぶ。

 

 

顔は見えないが、たぶん30代前半ぐらいの会社員。

その先には居酒屋が何件かある人気の少ない通りがあるはず。

その通路の監視カメラの場所は覚えてる。

もし警察の人がいなければできる。

 

 

そこなら殺せる。

 

 

男が角を曲がったところで、梓は歩き出す。

フードを被って、ざあざあと降る雨の音が梓のロングブーツの足音を隠す。

 

赤提灯のついた居酒屋が一件だけあって、そこ以外は明かりの消えたビルばかり。

 

 

今なら殺せる。

 

やっと食べられる。

 

 

食事の時間。

いただきますの合図。

梓はふうっと息を吐いて、走る。

一歩、二歩、三歩と走って、濡れた地面を蹴って飛ぶ。

 

男は傘をちょっとだけずらして、後ろを見ようとする。

 

梓は地面を蹴って、男の背後から飛びかかった。

 

「ぐっ―――」

 

男の口から一瞬だけ低いうめき声が漏れた。

男の舌と喉の奥に、梓の指が食い込んで声を塞ぐ。

コートの襟から出た首の根元に、梓は噛みついていた。

 

びしゃびしゃっと音を立てて男が濡れた地面に倒れた。

 

梓のフードが飛んだ拍子に外れていた。

梓の顔に雨がかかり、透明な雨が黒いヴァンパイアの血でどす黒く染まる。

噛みついていた口を離して、真っ赤な鮮血が垂れる口を塞いでフードを被りなおす。

 

男が痙攣(けいれん)しながら、起き上がろうとする。

 

梓は男の体を担いで、ビルとビルの隙間に滑り込んだ。

ギザギザのコンクリートの壁が梓の頬をこすって、黒い血痕が濡れた壁に線を描く。

男をクッションのようにして着地した。

 

「はぁっ、はあぁっ……」

 

飢餓のままに、首筋に食らいつく。

地面に男の頭を押さえつけながら。

破損した大動脈から噴き出す血を梓が舐めとっていく間に、男の指がびくびくと動いて、止まる。

 

 

梓が奪った命がまた一つ増えて、12人になる。

 

 

男のモスグリーンのコートに、梓の黒い血がぼとぼとと落ちていく。

さっき浴びた雨で梓の額と鼻から上が、真皮まで達する熱傷を負ったようにぐずぐずになっていた。

ぎいっ、ぎいっ、と鎖骨を削るほどに強く噛みついて、体に残った血液を吸い出していく。

男の肩を掴んでいる手も、男の口に入っていた手も、雨に当たって真っ黒い炭のようになっていた。

しかし梓は構わず、自分の血の水たまりの上で、食事を続ける。

 

 

梓はもう飢えていなかった。

 

 

雨で片目が焼けたみたいで、なんだか右の視界が黒くかすんで見えづらい。

左目だけで見ながら、息絶えた男をひっくり返して、ポケットを漁って財布を見つける。

 

高そうな財布には一万円札が二十枚と、千円札が四枚。

 

「やった……」

 

思わず呟いた自分の周りに、殺した11人の細長い影が立っている気がした。

真っ黒い人影が真っ白い目で、見下ろしていた。

そこに地面から起き上がるように一つの人影が加わって、12人の細長い人影になった。

 

影たちは物言わずに、卑しい窃盗犯を見下ろしていた。

 

梓はぎゅうっと目をつむって、目の前にある現実の札束にだけ目を向ける。

自分の血で汚さないように、ダッフルコートをめくってウエストバッグに突っ込む。

男の財布を元あったところに戻し、うつ伏せに戻して、コートのフードを被る。

 

鼻を触ると、オイルみたいな血がべったりとついていた。

 

「……服、また替えないと」

 

だから雨は大嫌いだ。

 

梓は男の差していた傘を回収して、男の後頭部の上に開いたまま置いた。

顔が見えないように遺体は置いた。

見たらまた、心がぐちゃぐちゃになってしまうから。

 

ダッフルコートの内側で自分の手の血を拭いて、スマホを取り出す。

電話アプリを開いて、履歴の一番上を押す。

このスマホは通話ができないはずなのにつながる、不思議な番号へ。

 

「……もしもし。死体、回収してください」

 

電話を切って、雨が少しでも当たらない場所に寄りかかって、一息ついた。

 

目をつむって、血まみれの真っ黒い手をすり合わせる。

ざりざりと炭が擦れる音がして、炭化した皮膚の破片が零れ落ちていく。

破片はすぐに降りしきる雨と混ざって見えなくなる。

 

「ごめんなさい。ごめんなさい。本当にごめんなさい。おなかがすいてて、我慢できないんです。ごめんなさい……」

 

熱傷で焦げ付いた目から、淡い赤色の涙がこぼれる。

 

 

こんな雨の中でどうしてそこまでして殺そうとしたんだろう。

いつもいつも思うこと。

だけど空腹の自分にはそんな分別もない。

絶対に今日殺して食べる、という気持ちしかなかった。

そのためなら何でもするし、誰だって殺してしまう。

 

そんなことはいつもいつもわかっていても繰り返す。

 

だっておなかがすいているから。

 

 

そうやって一人殺して、おなかを満たす。

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