はらぺこヴァンパイア 作:棗の
降りしきる雨を、梓はJR
その
雨は怖い。今の自分にとっては。
冬型の気圧配置で、ここ数日雨が続いている。
雨はずっと昔から嫌いだけれど、ここ一年はもっと嫌いだった。
動くこともままならない。
たとえ傘を差しても、僅かに跳ねる水滴が刃のように襲いかかる。
ぐらぐらと視界が揺れている。
頭が締め付けられるように痛くて、口の中が乾いている。
おなかがすいてる。
上顎に犬歯のかわりに生えた一対の牙がうずいて仕方がなくて、自分の下あごを口の中で刺した。
口内に大きな傷が生まれ、傷から溢れたどろっとした液体が口の中を満たす。
それは牙の刺さった所から出た、自分の血だった。
空腹を満たすことのない血が口の中をちょっとだけ潤した。
この後に待つ本当の食事まで我慢するよう、体に言い聞かせる。
何の痛みもなく、何の味もない。
ねばねばする冷たいとろろのような液体が、喉の奥に消えていっただけ。
すごく、おなかがすいた。
周りには何人も人がいる。
誰にだって噛みつける。
スマホを見てたり、音楽を聞いてたり。
隙だらけで、後ろから襲えば殺せる。
だけどここでやると、見つかっちゃう。
「あぁもう……!」
イライラする。目の前にごはんがあるのに食べられない。
「うわっ……?」
通行人が声を上げた。
フードの下から睨みつけると、早足で通行人のおじさんはタクシーまで歩いていく。
何度も口の中を噛みすぎたみたいだった。
足元を見ると、自分の血が足元の雨と混ざって黒い染みを作っていた。
ヴァンパイアの血は、黒い。
真っ黒いオイルのようなねばねばした血。
梓の白い口角の両端から黒く垂れた血が、小さな塊になって梓の足元に落ちていた。
梓は慌てて場所を移動する。
ダッフルコートのフードを深く被って、一瞬だけ雨の当たる所を通って、反対のお店の軒下へ。
雨粒が何滴かあたって、じゅうっと頬が焼けた。
痛くはないけれど、嫌なにおいがする。
雨は本当に嫌いだ。
雨を防げるところで、人を安全に殺せる場所なんてほとんどない。
屋内はどこにカメラがあるかわからない。
死体処理の異形が来るのが遅れれば見つかってしまう。
軒下から、さっきまでいた駅の出口を見た。
自分がどこにいたのかすぐにわかった。
白と薄茶色のタイルに、黒いモップみたいに自分の血だまりがあったから。
梓はスマホを取り出す。
23時35分。終電が近い。
終電になったら、この辺は一気に人がいなくなる。
自転車に乗っている人にも追いつけるけど、噛みついたとき倒れた音でばれるかもしれない。
電車が発車する音が聞こえる。
梓はスマホをしまって、目を細めて下を向く。
赤い目で目立たないように、何も興味がないふりをして。
人が駅から出てくる。十人ぐらい。ほとんどは男の人。
そのうち一人が、傘を差して梓の前を通る。
一瞬の交差の中で、コートの襟から伸びた首筋が見えた。
そこに食べ物がある。
梓の口元に、嗜虐的な笑顔が浮かぶ。
顔は見えないが、たぶん30代前半ぐらいの会社員。
その先には居酒屋が何件かある人気の少ない通りがあるはず。
その通路の監視カメラの場所は覚えてる。
もし警察の人がいなければできる。
そこなら殺せる。
男が角を曲がったところで、梓は歩き出す。
フードを被って、ざあざあと降る雨の音が梓のロングブーツの足音を隠す。
赤提灯のついた居酒屋が一件だけあって、そこ以外は明かりの消えたビルばかり。
今なら殺せる。
やっと食べられる。
食事の時間。
いただきますの合図。
梓はふうっと息を吐いて、走る。
一歩、二歩、三歩と走って、濡れた地面を蹴って飛ぶ。
男は傘をちょっとだけずらして、後ろを見ようとする。
梓は地面を蹴って、男の背後から飛びかかった。
「ぐっ―――」
男の口から一瞬だけ低いうめき声が漏れた。
男の舌と喉の奥に、梓の指が食い込んで声を塞ぐ。
コートの襟から出た首の根元に、梓は噛みついていた。
びしゃびしゃっと音を立てて男が濡れた地面に倒れた。
梓のフードが飛んだ拍子に外れていた。
梓の顔に雨がかかり、透明な雨が黒いヴァンパイアの血でどす黒く染まる。
噛みついていた口を離して、真っ赤な鮮血が垂れる口を塞いでフードを被りなおす。
男が
梓は男の体を担いで、ビルとビルの隙間に滑り込んだ。
ギザギザのコンクリートの壁が梓の頬をこすって、黒い血痕が濡れた壁に線を描く。
男をクッションのようにして着地した。
「はぁっ、はあぁっ……」
飢餓のままに、首筋に食らいつく。
地面に男の頭を押さえつけながら。
破損した大動脈から噴き出す血を梓が舐めとっていく間に、男の指がびくびくと動いて、止まる。
梓が奪った命がまた一つ増えて、12人になる。
男のモスグリーンのコートに、梓の黒い血がぼとぼとと落ちていく。
さっき浴びた雨で梓の額と鼻から上が、真皮まで達する熱傷を負ったようにぐずぐずになっていた。
ぎいっ、ぎいっ、と鎖骨を削るほどに強く噛みついて、体に残った血液を吸い出していく。
男の肩を掴んでいる手も、男の口に入っていた手も、雨に当たって真っ黒い炭のようになっていた。
しかし梓は構わず、自分の血の水たまりの上で、食事を続ける。
梓はもう飢えていなかった。
雨で片目が焼けたみたいで、なんだか右の視界が黒くかすんで見えづらい。
左目だけで見ながら、息絶えた男をひっくり返して、ポケットを漁って財布を見つける。
高そうな財布には一万円札が二十枚と、千円札が四枚。
「やった……」
思わず呟いた自分の周りに、殺した11人の細長い影が立っている気がした。
真っ黒い人影が真っ白い目で、見下ろしていた。
そこに地面から起き上がるように一つの人影が加わって、12人の細長い人影になった。
影たちは物言わずに、卑しい窃盗犯を見下ろしていた。
梓はぎゅうっと目をつむって、目の前にある現実の札束にだけ目を向ける。
自分の血で汚さないように、ダッフルコートをめくってウエストバッグに突っ込む。
男の財布を元あったところに戻し、うつ伏せに戻して、コートのフードを被る。
鼻を触ると、オイルみたいな血がべったりとついていた。
「……服、また替えないと」
だから雨は大嫌いだ。
梓は男の差していた傘を回収して、男の後頭部の上に開いたまま置いた。
顔が見えないように遺体は置いた。
見たらまた、心がぐちゃぐちゃになってしまうから。
ダッフルコートの内側で自分の手の血を拭いて、スマホを取り出す。
電話アプリを開いて、履歴の一番上を押す。
このスマホは通話ができないはずなのにつながる、不思議な番号へ。
「……もしもし。死体、回収してください」
電話を切って、雨が少しでも当たらない場所に寄りかかって、一息ついた。
目をつむって、血まみれの真っ黒い手をすり合わせる。
ざりざりと炭が擦れる音がして、炭化した皮膚の破片が零れ落ちていく。
破片はすぐに降りしきる雨と混ざって見えなくなる。
「ごめんなさい。ごめんなさい。本当にごめんなさい。おなかがすいてて、我慢できないんです。ごめんなさい……」
熱傷で焦げ付いた目から、淡い赤色の涙がこぼれる。
こんな雨の中でどうしてそこまでして殺そうとしたんだろう。
いつもいつも思うこと。
だけど空腹の自分にはそんな分別もない。
絶対に今日殺して食べる、という気持ちしかなかった。
そのためなら何でもするし、誰だって殺してしまう。
そんなことはいつもいつもわかっていても繰り返す。
だっておなかがすいているから。
そうやって一人殺して、おなかを満たす。