はらぺこヴァンパイア 作:棗の
日曜日の夜。梓は一日中家にいた。
月曜日の朝を起点に三日効果のあるアンチライトを摂取しているため、日曜日はどうしても太陽の光への耐性がない日になる。
梓は日曜日の間だけ、本当のヴァンパイアになる。
慣れというのは恐ろしいもので、遮光していないお昼のリビングにも、何の警戒もせずに行けるようになってきた。
今日の梓が万が一でもそれをしたら最期、全身が燃え上がって死ぬ。
そんな事故を予防するために梓は夕方まで自室で眠り、そのあとに起きるルーティーンが自然と出来上がった。
起きているとリビングの遮光を気にする必要があるため、眠っていた方がいい。
どうせ疲れないし眠くもならないので、その間は両親にも自分たちの時間を過ごしてほしかった。
起きて、何も食べるものの無い夕食の時間を終えて、今、自室にいる。
「やっと日曜日……」
机の上にだらんと伏せて、息を吐いた。疲れないはずの体が疲れている感覚。
梓が学校に通い始めておよそ一か月。激動の一か月だった。
梓は挙動不審なアルビノ少女から、ちょっと変わってるけどドッジボールがめちゃくちゃうまいアルビノ少女になっている。
“ちょっと変わった人”には、なれたのかもしれない。
話しかけられることも多くなった。
前の席の
大体聞かれることは一緒。
土日にやっていること、前の授業で分からなかったこと、球技大会の時の練習をどうやったのか。
全部事前に用意した答えをちょっと変えて出すだけ。
前田くんと話すときだけ
由佳ちゃん、もしかして前田くんがあんまり好きじゃないのかな。
仲が良くない人同士を見ていると、ちょっと嫌な気分になる。
由佳ちゃんと
なんだか自分の知らないところで、何かが動いている気がする。
そういうものに梓はもともと疎かったし、グループ内の仲良し関係とか、そういうものも知らないふりをしていたかった。
みんな仲がいいし、みんな笑って過ごしてほしかった。
だけどなんだかそういうものがちょっと見えてくる気がして、嫌な気持ちになる。
私の生活が、少しずつおかしくなってる気がする。
さっきの食事中、ママが食器を落とした。
食べている途中に、手に持っていたハンバーグのお皿を落として、ハンバーグが一部だけテーブルの上に落ちた。
パパが慌てて拭こうとすると、ママがゆっくり首を振って、キッチンペーパーで取って、落ちたところだけナイフで切り取って捨てた。
ママが食事中に食器を落とすところを人生で初めて見た。
なんだかおかしい。5月の初めぐらいから、ママはずっと調子が悪そう。
昼の世界には楽しいことがいっぱいあって、人間だった頃の高校生活よりずっと刺激に溢れていて。
誰かにいじめられているわけでも、嫌なことをされてるわけでもないのに、どうしてか、悲しくなってくる。
一つ一つの光よりも、一つの影のほうが目についてしまう。
私の性格なのかもしれない。
私はヴァンパイアなのに、昼の世界で生きることを選んだ。だからヴァンパイアが嫌がっているのかもしれない。
毎日太陽の光は怖いし、雨の日も怖い。
ヴァンパイアの自分を痛めつけたら、いつか出て行ってくれるかもしれないと思うときがある。
ある日起きたら人間に戻っていて、カラオケも、カフェも、ご飯も。好きなように行けるようになるかもしれないって思うときがある。
梓は机の上に広げたノートを置いて、リビングへ向かった。
途中のお風呂でシャワーの音がする。
リビングでは一美がソファに座って、ぼんやりした目でテレビのバラエティ番組を見ていた。
ソファのひじ掛けに大きなクッションをいくつも置いて、ほとんど寄りかかるように座っている。
「……あら。梓、どうしたの?」
梓はきゅっとした胸の痛みを押し殺して、ソファに座って、母に聞く。
「……ママ。ほんとに大丈夫なの?」
一美は笑って「大丈夫よ」と返した。
「大丈夫じゃないでしょ。ママ、何があったの? お仕事行けなくなったからだけじゃないでしょ」
ずっとおかしいと思っていた。
急に体調を崩したママ。
病院から謹慎処分にされて、落ち込んでると思っていたけれど……最近明らかにおかしい。
梓は一美の横に座って、身を乗り出して母の顔を見る。
肌が少し青白くて、息も荒い。運動した後みたい。
さっきの食器の片づけは手伝ったし、この家の中でそんなに運動できるところなんてない。
病気なのかな、とも思ってちょっと調べてみたけど、色んな怖い言葉が出てきてやめた。
「ちょっとね。何十年ぶりかの長期休みだから疲れが出てるのよ。だから——」
「ママ。隠し事しないで。私だってママに色んなこと言ってる。ママも隠さないで」
どの口が、と自分の中の誰かが言う。
13人の人を殺したことは言ってない。
でもママとパパは気付いてる。
だから言わなくていい。きっとそうなんだ。
一美はしばらく目を伏せた後、「待ってて」と言って立ち上がり、冷蔵庫を開けた。
動いていない心臓が跳ねた気がする。
冷蔵庫。ママ。まさか。
一美は冷蔵庫の引き出しを開けて、何かを取り出して、戻ってくる。
目を引く赤色の液体。プラスチックのぶよぶよした容器に入った液体。
血だ。
「え……ママ、どうして、それ……」
昨日の夜、無くなったはず。
それから梓は一度も冷蔵庫に近寄っていなかった。
ママはあれから一度も職場に行ってないらしい。まさか別のところから?
梓の前に、血液パックが置かれる。
梓はそっと手に取る。
ラベルがない。二色のぶよぶよした液体だけがある。
それになんだか、いい匂いがする。
いつもの血液パックと違う。
「……梓のご飯、無くなっちゃったでしょ。だから足したの」
「た、足したって。どこから」
梓は気付いた。
ずっと巻かれたままの、母の肘の包帯。
梓が一度だけやったことある献血。
「…………大丈夫。命に影響はないようにしたから」
一美が柔らかく笑う。
梓が血液パックの盗難を知ったその日の夜みたいに。
なんて声をかけたらいいのかわからなかった。
ありがとうも、ごめんなさいも、どちらも違う気がして。
頼んでない。そんなこと頼んでないのに。
「どうして……」
どうして、なんて言う資格もないのに。
人は殺さない。誰も傷つけない。でも血は買えない。
だったら誰かから血を取るしかない。
当たり前の理屈。ずっとずっと目を逸らしてきたこと。
その誰かが今は、ママだっただけ。
「ちょっと古いから、飲めるかわからないけど……」
まるで賞味期限ぎりぎりの牛乳を開けた時みたいに言って、一美はボウルにお湯を注いでいく。
お湯が溜まって、フリーザーバッグを開ける音がして、ぱしゃん、と水音がする。
「美味しくなかったらごめんね。どれくらい古い物でも大丈夫かわからないけど、薬で加工はしておいたから」
「そうじゃなくて! なんで! なんでママが……血を……」
一美は台所のカウンターに寄りかかって梓の方を見ていた。
ぼんやりと光を宿す目。
度重なる採血で
「梓のためよ。全部。ちょっとで申し訳ないけど」
「私のためって……なんで……」
言葉がうまく出てこない。
なんでとか、どうしてとか、そんな事わかってる。
私がヴァンパイアだから。
私が食べられるものが人間の血しかないから。
人間の血は人間からしか取れないから。
それ以上でもそれ以下でもないのに。
なんて言えばいいんだろう。
私よりもっと、コミュニケーション力が高い人ならうまく言うのかな。
千夏ちゃんがもしヴァンパイアだったら、もっと気を使ったことを言えるのかな。
梓がソファから立ち上がろうか迷っている間に、一美はフリーザーバッグをお湯から出して、キッチンペーパーで拭いて、お皿の上に中身を乗せる。
そうしてふらふらと歩いて、梓の前の、背の低いテーブルに置く。
見た目はいつもと何も変わらない、梓のご飯。血液パック。
「はい。どうぞ」
一美は梓の隣に座って、笑って言った。
青い顔で、梓のお皿にそっと手を添えて。
「こ、この血って、ママ、の……」
震える唇と別の生き物のように、梓の手はゆっくり血液パックに伸びて、それを持ち上げた。
言ってることと、やってることが合ってない。
だけど止まらない。
おいしそう。
暖かい。いい匂いがする。
何かは分からないけれど食べ物のにおい。
少し体を前に傾けて、口をつける。
たべたい。
やめて。なんで食べようとするの。
ママの血なのに。おいしそう。
おかしいよ。そんな資格なんてない。
ママが傷ついて、それでも作ってくれた血なのに。
だから暖かくて、おいしそう。
嗅いだことのある暖かい食べ物のにおいがする。
いつもの血液パックと違う。その香りが喉まで通って、梓は口を開けて、牙を舐めた。
紫がかった舌が鋭利な牙先までをなぞって、はあっと息を吐く。
血の匂いに魅了されたヴァンパイアがいる。
おいしそう。すごくおいしそう。
ちょっとだけ。ちょっとだけ食べたい。せっかく用意してくれたご飯なんだから。
一度抜いた血は戻らない。
謝っても、泣いても、戻らない。
だったら食べてしまった方がいい。
きっとそう。
そのほうが現実的。
大丈夫。ママだって食べてって言ってたから。
食べなきゃ失礼だよ。
「……ありがとう」
陶酔した目つきで、梓は言った。
体を傾け、大切そうに皿の上の血液パックを撫でた。
梓はふうっと一度息を吐いて、口を大きく開いた。鋭利な牙が化学繊維の表面をなぞる。
脳裏に、最後に殺した女子高生の首筋が浮かぶ。
暖かくて、気持ちよくて、もう一度食べたい。
もう一度噛んで、噛みちぎって、噴き出す血を舐めたい。
両手で血液パックを持ち上げた。
まるで人に背中から噛みつくときのように、目線の高さまで持ちあげた。
梓はうっすらと笑っていた。
いつもの、血を前にしたときの無邪気な笑み。
一美は娘から、目を逸らした。
ヴァンパイアはゆっくりと噛みつく。
中から暖かい液体が漏れ出て、喉の奥へ。
おいしい。
すごくおいしい!
すごく、すごくおいしい!!
懐かしい味。
大好きな食べ物の味。
何の味だろうと思って一秒、気付く。
においも、味も、全部。間違いない。
私の好きな物。
夜眠れない時、ママが作ってくれた温かいコーンポタージュの味。
間違いない。
これはコーンポタージュだ。おいしいコーンポタージュ!
ママの作ってくれたコーンポタージュ!
ちょっと水っぽいけど、それでもおいしい。
梓はもう一度血液パックに噛みついていた。
牙の隙間から漏れた血が梓の白い指に絡まって、縄のような模様を描く。
一度火がついた気持ちが止まらない。
暖かくておいしくて、もう二度と食べられないと思った食べ物の味。
ママが何度も作ってくれたコーンポタージュの味。
間違いなかった。
赤くて綺麗なコーンポタージュ。
胸の奥に広がって、悲しみを流してくれる。
そっか。こんな近くにあったんだ。食べられるもの。
ママがいればずっと食べられる。
梓は喉を鳴らして血を飲みこんでいく。
赤い目を細めて、その一口一口の味を確かめながら飲み込んでいく。
失われたはずの食べ物の味。
おいしい。
もっとほしい!
もっと!!
コーンポタージュみたいに喉を流れる血が細くなっていって、喉を鳴らしてもなにも通らなくなる。
口を開けて、牙をむき出しにして、暖かい息を吐き出す。
「はぁーっ……」
梓は満面の笑顔を浮かべていた。
赤い目が赤い涙で潤んでいる。
今ここがどこで、自分が何をしていたのかも全部全部どうでもよくなる程に、その一杯は極上で。
中身を失った血液パックの残骸が、皿の上にぱしゃりと落ちる。
梓は直前までそれを握っていた血まみれの指を、童のように無邪気に舐めた。
こどものときによく食べたスナック菓子の粉みたいに、コーンポタージュの味の鮮血を何度も舐めた。
「あはは……♪」
梓は楽しそうに横に向いた。
自分の右に座る母へ。
匂いがする。ママの首からいい匂いがする。
コーンポタージュの香り。ずっとずっと感じてた。
ママの血のにおいだったんだ。全部わかった。
梓は目を細めて、猫みたいな無邪気な顔で一美の首にすり寄る。
ねばつく血糊にまみれた両手で一美の両肩を掴んで、首に口をつける。
一美の顔が、はっきりと恐怖で染まる。
数十年来感じたことのない、命の恐怖で。
食べちゃダメ。噛んじゃダメ。
でもなめるだけなら大丈夫。
おいしいのをちょっと味わうだけ。
「ママぁ……ねぇママぁ……もっとたべたい……」
梓は牙を何度も、一美の頸動脈の上にこすりつけた。
そのたびにわずかに傷ついた皮膚の隙間から、コーンポタージュの温かい香りがしてくる。
血塗られたヴァンパイアの衝動が、梓の口を突き動かす。
「ママだいすきぃ……おいしかったぁ」
これ、クセになっちゃうかも……!
味はもうないけど、匂いだけでも暖かくて気持ちがいい。
噛んじゃダメ。ママにはぜったい、ぜったい、噛んじゃダメだから。
ちょっと撫でるだけ。香りを楽しむだけ。
絶対噛まないから。ちょっとだけ。
血は無くなっちゃったけど、ちょっとだけ楽しみたい。
「梓、待って!」
一美は力の入らない両手で、梓の肩を持って押しのけた。
梓は一瞬寝ぼけたみたいな顔をして、ぼふんとソファに倒れて、赤い目を見開く。
肩を鷲掴みしていた両手が、絵具で塗ったような赤に染まっていた。
「あ……え……え、と」
梓は自分の牙を両手で押さえた。
そして目の前の母親を見た。
母の首筋に傷はない。ただ、赤い線が何本が入っている。
乾いて凝固した血の筋が、母の首の皮膚に走っていた。
一美は肩で荒く息をしていた。梓を押しのけた姿勢のまま固まっていた。
「梓、あなた……」
一美は言葉を続けようとして、しかし何も言わずに梓をきつく抱きしめた。
今にも人間の世界から逃げようとした娘を。
もう一度闇の中に消えようとしていた娘を。
もう絶対に離さないと決めたから。
梓は声を上げて泣いた。
赤い涙が一美の腕に、流れる血のような線を作っていく。
湧いてくる感情に任せて泣く間にも、ヴァンパイアはずっと梓に訴えかけてくる。
コーンポタージュの香りがする。ママの血のにおい。
もう体の中ではコーンポタージュとママの血は完全に結び付けられていて、二度と離れない。
ママはコーンポタージュなんだ。
ママを噛めばコーンポタージュの味がするんだ。
それは新たな呪いだった。
「ママの血が……っ……おいしかったの……だからっ……」
一美が目を剥く。
血がおいしい?
前の血液パックは白湯みたいな味と言っていた。それとは違う味がした?
なぜ? 血がおいしい? それは——
恐ろしい可能性に辿り着く。
娘の中のヴァンパイアが何を知覚してしまったのか、理解する。
娘は泣きながらも、自分の首に顔をこすりつけている。
冷たい娘の皮膚の感覚の中に、ひときわ冷たくて固い物が時折混ざる。
それは娘の牙の感触。
背筋が冷える。
娘のチャームポイントとすら思おうと努力した牙が、急に恐ろしく思えてくる。
娘を抱きしめて、頭を撫でて慰めているのに、自分の中の危険察知の部分が叫ぶ。
この怪物から離れろと。
母性と本能で揺れる中で、一美は母性を取った。
震える腕で、娘を一層強く抱きしめて、「大丈夫よ」と言う。
恐怖で乾く口の中を悟られないよう、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「大丈夫。おいしかったんでしょ? 良かった」
娘のために何でもすると決めたのだから。
娘の優しい心を信じるのだから。
「大丈夫って言わないでっ……安心しちゃうの……ママの、血のにおいで、安心しちゃう……」
首筋に冷たい水が流れる感覚があった。娘の涙は冬の水みたいに冷たい。
ずっと昔からそうしてきたように、泣きじゃくる娘の背中をぽんぽんと叩いて、娘の髪を撫でる。
梓の泣き声に驚いた浩平がお風呂から顔を覗かせて、一美がそっと首を振った。
浩平は静かに唇を噛んで俯き、お風呂に戻った。
一美は梓の変化には気づいていた。
ここしばらく、梓は自分の首筋に顔や牙をこすりつけることが多かった。
その理由がようやくわかって、安心と戦慄の二つが同時に心に渦巻いた。
娘もわかっていなかった。
それほどヴァンパイアの本能は強く、娘と一体化している。
「……梓、今はお腹がすいているし、疲れてるのよ。少し、体を休めてあげなさい」
梓はぐずぐずに泣きながらも、しばらく母の首に顔を押し付けていた。
ヴァンパイアが優しいコーンポタージュの香りを梓に届けて、梓の心は安らいでいく。