はらぺこヴァンパイア 作:棗の
雨の日だった。
なんとか車から歩いて昇降口までたどりついた
顔も、手も焼けてない。汚れてない。
「よし。あと一日……」
早く週末になってほしかった。
なんだか色々な事がありすぎて、一週間に体験できる量をとっくに超えていて、気持ちを休めたかった。
ヴァンパイアが疲れないなんてもう言えない。
鏡の中に、不安げな赤い目のヴァンパイアが映る。
自分がちょっと疲れた顔をしてる気がする。
今日は雨だからだ。きっとそう。雨はやっぱり嫌いだ。嫌なことをたくさん思い出すから。
梓が教室を開けると、梓の席に人がいた。
「あっ! 梓! おはよー!」
由佳は勢いよく立ち上がって、梓の元へ走って、そのまま梓にぎゅうっと抱きついた。梓の腕に頬ずりする。
思わず梓は周りを見たが、誰も来てない。
「お、おはよ。由佳ちゃ」
「由佳!」
「ゆ、由佳。おはよ」
「おはよう梓。大好きだよ」
由佳がにっこり笑って言う。まだ目の周りが赤い。
泣いていたのかな? でも、どうして?
由佳から昨日の夜来たLINEもよくわからなかった。何が心配だったんだろう。
「梓! 大好きだよ!」
由佳がちょっと怒ったように言う。
「え、あ、うん。ありがと」
由佳がぷくっと頬を膨らませてこっちを見ている。何かまずいことした?
「……いいもん。梓、今日は雨だけど大丈夫だった?」
「ああ、うん。大丈夫だった。濡れてないよ」
「すごいね。結構降ってるよ今日」
由佳が窓の外を見ながら言う。
「練習したからね。制服汚したくないし」
梓が席につくと、由佳は向かいの席に座った。
リュックについた水滴をハンカチで拭いて、鞄の中のフリーザーバッグにしまった。
「制服が汚れる、ってどういう事?」
「水に触れると血が出ちゃうの。私の血、黒いから。汚くなっちゃう」
ヴァンパイアだって知ってるはずだから言ったけれど、由佳が目をまんまるにして驚いていた。
「なんで水で血が出るの?」
「なんでって……わかんないよ。雨とか水道の水とかがダメなの」
映画とかのヴァンパイアは違うのかな。
あんまりそういう怖い映画見たことないから分からないけど。
「自分の体なのに?」
「由佳だって自分の血がどうして赤色なのかわからないでしょ?」
由佳が首を傾げた。
「こんなに肌が白いのに血は黒色なんだ……不思議だね」
「ほんとにね。由佳は怖くないの?」
「え? 何が?」
「私が」
由佳はぱあっと顔を輝かせて「全然!」と言い切った。
「どこが怖いの? すごく綺麗だし可愛いし!」
「どこが、って……」
「梓の牙も、きれいでかわいいよ。笑った時見えるのも可愛い」
「牙、見えてる? やだ……困る」
梓が思わず手で口を押えると、由佳がいたずらっぽく手を掴んで外した。
「そういうとこもかわいいの。わたしの梓。ふふっ」
由佳が体を乗り出して、近づいてくる。
何をする気かわからない間に、頬に暖かい感触。
キスされた。
「……今日は五回はするからね。みんな見てないとこで」
由佳は真っ赤な顔で不敵に笑った。
「おはよー」とクラスの子の声がすると同時に、由佳はぱっと顔を上げて挨拶していた。
梓はキスされた頬を撫でた。
冷たくてさらさらした自分の頬の感触だけがあった。
それからその日は、色んな所で由佳がついてきた。
雨の日だからなんだか気分が乗らなくて、お昼に学校の中を散歩していたら由佳がついてきた。
お昼食べてないのかもって思うぐらいに早くついてきて、人のいないところで何度も頬にキスされた。
由佳は背が低いから、跳ねて一瞬触れるだけのキスだった。
由佳は、昨日までと表情がなんだか違う。
私にキスしたあとはぺろっと唇を舐めて、ちょっと上目遣いで見てくる。顔が真っ赤だけど。
「えへへ。梓にいっぱいキスできてる。嬉しい」
「そ、そっか。よかった」
私がヴァンパイアだからなのかは分からないけれど、なんだか映画かドラマでも見ている気分だった。
由佳が嬉しそうなのは分かるから、とりあえず笑ってみているけれど。
私、やっぱりヴァンパイアになって変わったのかな。
人間の私だったら、由佳みたいなかわいい子にこういうことされたら、嬉しいのかな。
「……梓、どうしたの? 嫌なことあったの?」
気が付くと、ふらふら歩いて視聴覚室の前まで来ていた。由佳が手をつないだまま聞いてくる。
嫌なことがあったわけじゃない。だけどなんだか気分が沈む。
きっと雨のせいなんだ。
由佳にならこの悩みを、言えるかも。
そうやって口を開こうとすると、由佳が顔を曇らせて喋り始めた。
「やっぱり昨日の夜何かあったの? その……親のことで」
「え? 親?」
「その……梓のお母さん、すごく怖い人だし」
「怖い?」
ママを怖いって思ったことなんてほとんどない。
私が昔、友達の家に内緒で泊まろうとして、ばれて友達の家の車で帰った時ぐらいだった。
「梓のお母さんって何してるの? 極道?」
「ご……違うよ。看護師だよ。病院で働いてるの」
「看護師なの!? あれで!?」
ちょっと失礼だなぁと思った。
「忙しいけど、私のために車を出してくれてるの。すごく助かってる」
「…………ふぅん。梓がその、アレってことは知ってるよね」
由佳は梓に気を遣って、ヴァンパイアという言葉は使わないようにしていた。それは素直にありがたかった。
「もちろんだよ。ママだもん」
「…………そう。梓ってさ、その……食べ物とかって、どうしてるの。ほんとは」
梓は言葉に詰まった。
今の由佳にごまかしは効かない。でも言いたくない。
盗んできてもらったなんて。ママの命を削って血を取ってもらってるなんて。
「……私、ほとんど食べなくても生きていられるの。ほんとだよ」
「そうなの? どれくらい?」
「うーん、一週間に2回か3回ぐらい……」
血液パックがなくなる直前はそんな感じだった。
今は何日かに一回、ちょっと気持ちが沈んだ時にコーンポタージュをママからもらってる。
「そ、それだけ? 食べたくなったりしないの?」
「しないよ。食べられないし」
嘘だ。ほんとは食べたい。
今だって。
「……梓? どしたの?」
急に顔を逸らした梓に、由佳はきょとんとした顔で尋ねた。
梓は「なんでもないよ」と曖昧に笑った。
由佳がポケットから飴を出して、梓に見せた。
「これは? 梓の好きな紅茶の味だけど」
「うーん……食べたいとは思わないかな。ごめんね」
由佳が目を丸くして、包み紙を破って飴を食べた。
「そうなんだ……で、でも。おなかすいたら言ってね。わたし、頑張るから」
頑張るって何を? と聞こうとして、思い出す。
由佳から受けた告白の最後。
血をあげるって。
「わ、忘れてよ。忘れていいから。その、別に、そういうの目当てで、受けた、わけじゃないし……」
ごにょごにょと声が尻すぼみになって消えてしまう。
由佳の、恋人として好きなところ。
梓は昨日の夜を使って考えたが、答えは出ていなかった。
由佳は大事な友達。それは間違いないけれど、恋人同士って言われると、途端に梓の中の誰も彼もが沈黙して、前に進まなくなる。
ましてや血が欲しいなんて思ったこともない。そうに違いない。友達を噛んだりしたくない。
由佳の血なんて、ぜんぜん興味ない。絶対そう。
「ふぅーん……」
由佳は珍しく感情をあらわにした梓を見て、にやりと笑った。
やっぱりヴァンパイアだし好きなんだ。
一つの成功体験。
梓は血のことを言うと、すごく興味を持ってくれる。やっぱり間違ってなかった。
わたしの恋人はヴァンパイア。綺麗で、ミステリアスで、黒猫みたいなヴァンパイア。
落ち着いてる梓が、首を噛んで血を吸うことにこだわっていると思うとすごくえっちな感じで、ドキドキした。
体を求められてる気がする。
心臓の鼓動が速くなって、体が熱くなる。
「吸いたいって思ったりしないの?」
「……しないよ。ぜったい」
梓は目を逸らして、天井の方を見ていた。
「ほんとにー? ちょっとつまみ食いしたいって思わないの?」
ここまで何度キスをしても動揺しなかった梓が動揺してる。
それがなんだか楽しくて、ちょっといたずら心が芽生えていた。
「おいしそうな恋人がここにいますよー?」
由佳は夏服のシャツの首筋を、ブラの紐が見えるぐらいまでめくってみた。そして上目遣いで梓を見た。
梓は目の前の友達を見た。
健康的な白い首。
衝動。
梓の指が鉤爪のように動いて、目の前の人間の肩を掴みそうになる。
口が僅かに開いて、一対の牙が現れる。はあっと熱い息を吐いた。
この細い首の内側に、血が流れてる。
牙がうずく。
――たべていい?
ダメ! 絶対噛んじゃだめ! 絶対だめ!
梓は由佳から目を逸らして、口に手を当てて、自分の口内を噛んだ。
口内にあふれる黒い血を飲み込んで、ふうっと一息ついて、由佳の方を見ずに言った。
「……由佳、ここは学校だよ。女の子だし、そういうことしないほうがいい」
由佳は梓を見て、小悪魔みたいに笑った。
「えへへ。梓、やっぱりヴァンパイアなんだねー。首、好きなんだ」
由佳の考える梓の人物像は相変わらず正しかった。
クールな梓は、わたしの首筋に夢中。
そのギャップがもうたまらない!
「……好きじゃないし。別に。私が好きなのは紅茶とカレーだから」
「何その組み合わせ。梓照れてる」
由佳は梓の片手をぶんぶん振って笑った。
梓は珍しく、自分の声が不機嫌な気がした。
自分じゃない自分のことでからかわれてる。
別に由佳から血を吸いたいなんて思ったことない。
血ならママの血……ううん、コーンポタージュがあるから。
コーンポタージュ。おいしそう。
今日、食べようかな。
梓は真っ赤なコーンポタージュに思いを馳せた。
梓の口が、牙の根元まで見えるぐらいにぱっくりと開いた。
食事を夢想するヴァンパイアがいた。
由佳はごくりと唾をのんだ。
恋人のレア顔。梓の牙、あんなに大きいんだ。
いつもと違う梓。ヴァンパイアの梓だ。
わたしだけが見る権利のある、ほんとうの梓の顔だ。
「あ、あ、梓! 写真撮ろ! 写真!」
慌ててスマホを出すと、「うんー?」とぼんやりした口調で梓が振り向いた。
いつもの凛々しい梓と違って、なんだかぼうっとしている感じ。
前に一度だけ見たことがある。確か4月の中旬ぐらいに。
由佳はインカメモードにして、慌ててピースして撮った。
ぼんやりと口を開けてこちらを見るヴァンパイアと、顔を紅潮させた少女がスマホに映っていた。
ヴァンパイアはじっと少女の首筋を見ていた。新しい食料候補を。