はらぺこヴァンパイア 作:棗の
新調した黒のダッフルコートに、灰色チェック柄のタイトなズボン。
そんないでたちで、梓はホテルのフロントにいた。
白いマスクをして、赤い目だけが見えている。
もう全ての傷は跡形もなく塞がっていて、真っ白い肌が眩しいほどだった。
その赤い目を見る者は誰もいない。
梓は震える手で、複数の光るナンバープレートのうち小さそうな部屋の横に書かれた”407”を選んだ。
音もなく、横の機械からカードキーが出てきた。
横にあったエレベーターのボタンを押した。
すぐに扉が開くが、中には誰もいない。
ふうっと一息ついて、乗り込んで目的の階のボタンを押した。
1階、2階、3階、と上り、誰にも会わず4階に辿り着いた。
かすかに何か声が聞こえるが、耳を澄ませてはいけないと自分に言い聞かせた。
部屋まで小走りで行って、カードキーを差した。
差込口の上のランプの色が変わって、ノブをひねって中へ入り、ドアを閉めた。
「……よかった」
誰とも会わなかった。
ここでだけは、誰とも会いたくない。
ホテル特有のちょっとだけカビくさいにおいがした。
整えられたクイーンサイズのベッドと、ガラス張りのテーブルと、リゾートな雰囲気の黒い椅子が二つ。
部屋の横にガラス張りのドアがあって、カーテンが付いていた。
窓があるようだが、カーテンは閉められていて外は見えない。
部屋の中全てが、月明かりの下みたいにぼんやりと見えた。
「…………はぁ」
ため息がまた出た。
テレビがあるけど、点けるのが怖い。
なんだか雰囲気全体が、自分を嫌っている気がする。
梓がいるのは、ラブホテルの一室だった。
18歳未満は本来宿泊できないホテル。
女子会におすすめと書かれた、ぎりぎり入れそうな場所を選んだつもりだった。
ここが他のラブホテルに比べてどうかは分からない。
本来は、愛し合ってる人同士が、気持ちを確かめ合ったり、幸せな事をするための場所なのに。
人殺しの犯罪者の自分が、隠れ場所に使ってる。
未成年で普通のホテルは泊まれない。
身分証の確認が入るって、家出した女の子のVlogに書いていた。
身分証の確認をされても出せるものなんてない。
学生証はとっくに捨ててしまった。
偽名とかもできない。クレジットカードなんてない。
だから、ラブホテルしかまともに泊まれるところがないって気付いたのは、去年の五月頃。
人間だった頃に、一度も行ったことなかったのに。
「…………ごめんなさい」
梓は部屋の壁に向かって頭を下げた。
コートとブーツを脱いだ。コートの下には、よれよれの黒い半袖シャツ。
もう一か月ぐらい着ている気がする。
ウエストポーチを腰から外して、スマホを取り出して、テーブルの上のWi-Fiのパスワードの紙を確かめた。
必要なものがあることを確かめて、梓は椅子に座った。
何か月ぶりだろう。
雨の中で殺した人が、たくさんお金を持っていたから、また泊まることにした。
手持ちのお金が10万円をこえたときだけ、3日間ホテルに泊まる。
そこで服の処分や洗濯や、ホテルを出てしばらくの宿泊プランを練る。
この体なら寝ようと思えば路上でも椅子の上でも眠れる。
だけど、しばらくの間同じところで過ごせるほうが気分はまだいくらか晴れた。
この生活の、ささやかなぜいたく。今日はぜいたくな夜だ。
「お風呂……やっと入れる……!」
ちょっとだけ声のトーンが高かった。
梓はガラス張りのドアを開けて、浴室を恐る恐る覗いた。
高そうな石造りっぽく見える床と洗面台があって、ガラスを隔てて、三人は入れそうな大きなバスタブがあった。
梓はカーテンを開けて浴槽にお湯をためた。
お湯が溜まるまでの間に身に着けていた服や下着を脱いで、ポーチから取り出したレジ袋にまとめた。
ウエストポーチの中の紙くずを捨てて、モバイルバッテリーと充電ケーブルを出す。
続いて財布、ポケットティッシュ、ハンカチを取り出した。
ユニクロで買った、黒いロングスカートと長袖シャツ、飾り気のない下着を袋から取り出した。
梓の荷物はそれで全部だった。
ウエストポーチも黒い血がべったりとついているけれど、これは洗濯機じゃ洗えないから、あとで浴槽でつけ置きするしかなかった。
スマホで明日泊まれる漫画喫茶を調べようとして、今日はホテルだったと思い出した。
自然と笑顔になってくる。
この生活の中でホテルに泊まれたことは、今回で二回目。
泊まったのなら、泊まっている間に漫画喫茶じゃできないことをやる。
洗濯と、お風呂。
人間だった頃にしていたこと。
備え付けのクローゼットを恐る恐る開けると、ふわふわのバスタオルが入っていた。
浴室のトイレの上に置いて、浴槽に流れ続けるお湯を止めた。
洗面台の上の壁一面、横長の鏡を見た。
そこにはヴァンパイアの裸身が映っていた。
肩までの癖のない黒い髪、真っ赤な目、白い肌。
口からちょっと見える牙、不自然なほどきれいな顔。
体には傷一つなくて、毛穴もない。
上向いた胸とおしりの肉周り以外は細く引き締まっていて、染みもしわもない。
ちょっと自分は笑っていたらしい。
だけどその顔を鏡で見ると、きゅっと口を結んで、無表情に戻る。
梓はヴァンパイアの顔が嫌いだった。
昔の、人間だった頃と違う顔が嫌いだった。
なんだか不自然で、不気味な顔。
自分の顔だけど自分じゃないみたい。
体も一年前と違う。
背が伸びて、胸やおしり周りが大きくなった気がする。
ブラのサイズも一年前と違う。
浴槽の液面を揺らす波がなくなってから、ゆっくり片足を、両足を、腰をつける。
足の指の間から、黒く固まった血がすうっと分離していく。
「ふぅ……」
温度がちょうどいいかはよくわからないけれど、肩まで浸かってお風呂の中で両手を伸ばす。
体に固着していた泥や血がお湯に染み出していって、なんだか流しの中の食器になった気分だった。
口を閉じて、鼻をつまんで目を閉じて、お風呂の中へ潜る。
髪の毛まで水の中に入れて、30秒、1分、2分、3分。
ゆっくりお湯から顔を出して、目と鼻と口を開ける。
お湯がちょっと黒っぽくなっていて、今回もずいぶん汚れたなぁと苦笑する。
「シャワー、使えたら楽なんだけど」
流れる水は清浄で淀まない、聖なる物。
雨はもちろん、シャワーすらも浴びれば皮膚が爛れ、焼けてしまう。
この体になって困ったことは無数にあるが、これはかなり上位に入るものだった。
備え付けの、高そうなシャンプーを手に取った。
髪の毛を浴槽の中で洗っていく。
何度お湯を使ってもタダだし、何時間かかったっていい。
暑さも寒さもほとんど感じないし、風邪をひくこともない。
自分がいよいよ流しの中の食器か、洗濯機の中の洗濯物みたいだった。
いつもの漫画喫茶と違ってすごく静かで、泡まみれの自分の髪をこする音と、水の音だけが響く。
梓はなんだか怖くなって、鼻歌を歌いながら髪を洗う。
夜の街はそんなに怖くないけど、明るい所にいるのはなんだか怖い気がする。
ここは安全な所だと自分に言い聞かせながら、肩まである自分の黒髪を洗っていく。
「お金……手に入ってよかった」
今の自分にとって、お金の使い道は数個しかない。
宿泊代。昼の間の避難所になるカフェ用のコーヒー代。
たまに使う電車の移動費。
そして、死体を消すための千円ぐらい。
服はあまりにも血で汚れたり破れたりした時だけ買い替えている。
汗もかかず代謝しない体のおかげで、服が臭くなったりすることはほとんどなかった。
血以外は何も食べない。何も飲めない。
メイクもやめた。する必要がないから。
遊びに行く気にもならなかった。
人から盗んだお金で遊ぶなんて有り得ないし、人殺しの自分がそんなところ行く権利なんてないと思った。
それに、おなかがすき始めるとどこに行っても血のことしか考えられなくなる。
歩く人たちを、殺そうと思ってしまう。
そんなことはしたくないから、現実から逃げるために眠り続ける。
「……お金で解決出来たらよかったのに」
自分の体を維持する唯一の食べ物。人間の血のこと。
人間の血のことに、思いを馳せる。