はらぺこヴァンパイア 作:棗の
娘がいない間だけ遮光を外した明るいリビングにいた。
まだ当分、停職は解けない。
娘を送迎したら昼前まで眠るサイクルが、すっかり板についていた。
慢性的な貧血が体を蝕んで、すでに数週間経つ。
4月はじめから続けていた自己採血は既に4回を数えており、鉄分のサプリメントや休息だけではもはや回復が難しい病態となっていた。
二週間に一度の200ml採血。赤十字の推奨間隔を無視した滅茶苦茶なペース。
二か月前に一美が描いた筋書き通りに、物事は進んでいた。
まず第一に、血液パックの窃盗。次に、一美自身の血を採ること。
血液パックの窃盗がばれて、停職になるまでの期間は大体予想がついていた。すべてで先手を打った。
自分の血液と抗凝固剤入りの血液パックを混ぜ、盗んだパックを増やした。
梓は自分の血のことを、コーンポタージュみたいだと言った。
コーンポタージュは梓の好物。
ヴァンパイアが持つ異常な嗅覚と味覚。それが娘を支配している。
味覚や嗅覚は主観的なものだ。
梓は
梓に自己採血のことを明かすつもりはなかった。
しかし体調不良を梓に見透かされ、ばれてしまった。
不調を隠すのは慣れているつもりだったが、ヴァンパイアになって鋭くなった娘に見透かされていた。
怖くないと言えば嘘になる。
梓が何度も首に頬をこすりつけていたのは、自分の血のにおいを嗅いでいた。
血を自覚するよりずっと前から、梓は無意識にそうしていた。
ヴァンパイアの貪欲な執着心は、娘の無意識にまで浸透している。
娘にとって今の自分がどれだけ大事な存在なのか、
娘がヴァンパイアとしての部分も含めて本音で喋れるのは、恐らく自分と夫だけ。
つい先日にもう一人増えたらしいが、きっと本音で話せはしない。
入学式初日から娘を助けてくれた、親切な同級生。
梓の性質を理解し、色々な配慮や他のクラスメイトへの根回しをしてくれていた。
その延長線なのか、あるいは初めから計画していたのかは分からないが……一昨日、娘に告白したレズビアンの少女。
同性愛者の人とはあまり話したことはないが、偏見を持つつもりはない。
一番大事なのは娘がどう思うか、どうしたいかであって、相手が男性か女性かというのは、自分たち親が干渉するべきではないと思っていた。
それなのに、思ってしまった。
星野由佳は要注意人物だ。
同性愛者だからではない。
梓を監視し、梓を自分のものだと言い張るような態度。
「若い子だししょうがない」といつもの自分なら言えるかもしれない。
だが、今の自分には娘の応援や立場の共感よりも、娘の守護のほうが先立ってしまう。
あの子は娘に悪影響を与える。そうに違いない。
「はぁ……」
いけないこと。ほんの数分、会っただけでそんなことを思うなんて。
偏見は良くない。
だが自分の直感が、あの子は危険だと告げていた。
自他の境界が薄く、独占欲の強い少女。
娘の気持ちを顧みずに、娘を善意と恋慕で縛り付けている。
「……いけない」
一美は重い頭を振る。
15歳の恋する少女に何て言い草だ。大人げない。娘の幸せを願えずして何が母なのか。
貧血が心を蝕んでいる実感はある。
怒りっぽくなったし、泣くことが増えた。夫に泣きつくことも増えた。
色々な事への気力も乏しくなった。
梓が学校へ行って、家事を済ませテレビを見ているだけなのに、涙が溢れてくることがある。
うつ傾向が見られる。いけないこと。うつは治療が難しい。
これ以上、家計を圧迫したくない。娘を悲しませたくない。
やらなければいけないことはたくさんある。
折角得られたこの謹慎の状態を有効に使ってこそ、デキる母親のはず。
「今月も赤字……」
一美はテーブルに広げた家計簿を見る。数万円単位の大幅な赤字。
家のローンと光熱費と三人分のスマホ代と食費。
採血に使うディスポーザブル医療器具一式。
それに盗んだ
そして、梓が学校へ行くのに使う”太陽の光に耐性を得る薬”。
アンチライトという名前らしい。
3日ごとに1万円、月曜日と水曜日の朝に打つ注射薬。
梓がどこかから買っているそれは、まるで海外の歴史ドラマの小道具のような物だった。
内部の液体はただの水に見える。
自分にもし化学の知識があれば分析できるのかもしれないが、さすがにそれを勉強する気力は無かった。
こっそりと梓の財布にお金を入れているが、賢い娘は気付いている。
気づいているが、他に手が無いため何も言えない。そのお金も無限ではない。
何度かアルバイトの話をされたことがあるが、「高校に入ってすぐだから」と断っていた。
正直言えば働いてほしいが、そんなリスクを冒したくはない。
アルバイトの帰りに娘がまた闇に消えたらと思うと、気が狂いそうになる。
あの時と今は違う。もう知ってしまったから。
殺人を繰り返そうとも警察に気づかれない、闇に暗躍する人ならざる者がいることを。
娘をヴァンパイアの呪いに縛り付けた悪魔が、今も都市の闇の何処かにいることを。
なぜ娘がヴァンパイアにされたのかは分からない。
闇に潜む悪魔が何を思って梓を選んだのかも分からない。
もしかすると娘がヴァンパイアになったのは、悪魔にとって手違いだったのかもしれない。
もしそうなら、その悪魔がいつかまた戻ってきて――梓を殺すかもしれない。
一美は家計簿をつけ終えて、はあっと一息吐く。
脈をはかり、異常な頻脈や徐脈がないか確認する。
スマホを取って、パートタイム勤務募集中の場所を探す。
駅の近くで、歩いて行ける範囲で、体への負荷の小さい物。不景気なせいか、あまり見つからない。
もっと大学時代に勉強しておけばよかったと思う。看護の世界に入る前に手に職をつけていれば、こうやって一つの道が途絶えても、別の方法で娘を養える。
一通り新規の求人を確認した後、「よいしょ」と起き上がって、シンクで手を洗う。
寝室の扉を開けた。
寝室にあったのは、分厚い白い布の敷かれたアイロン台。その上にあるチューブと、滅菌された採血器具一式。
娘の”食事”の支度をはじめる。
食卓の上の分厚い布巾を取った。キッチンペーパーの上に置いた、蓋と口が下向きに置かれたジャムの瓶を手に取る。一時間ほど前から煮沸消毒後、乾燥させておいたものだ。
滅菌処理された手袋とマスクをつけ、容器を取り出す。アルコール消毒し分厚くキッチンペーパーを敷いただけの臨時の滅菌区画に置き、抗凝固剤を注ぐ。
あまりにも粗末な滅菌処理。衣類も、空気も、何もかも考慮されていない。
きわめて高リスクな行為だとは理解している。こんなこと職場でやれば一発で懲戒解雇になるようなこと。
梓が病気に対して耐性がある、というのは本人の言葉からの推測だ。
何の滅菌処理もなく、大動脈に至るほど深く人に噛みついたとしても、健康を害することがない。
ヴァンパイアの生態は、人間の理解を超えている。
しかしそれでも、体に染みついた滅菌プロセスへの意識が、自分を叱責している。わかっているが、どこかで妥協するしかなかった。
せめて自分が感染症にならないように気を付けようと感覚をシャットアウトし、寝室のアイロン台の前に座り、チューブを左の二の腕に巻く。
一美の左腕の関節部は紫に変色し、無数の刺し傷があった。
傷痕の上からアルコール綿で消毒する。ひりつく痛みに、顔をしかめる。
腕を曲げ伸ばした後、針を刺した。
濃い赤色の液体が、注射器の中に満たされていく。
自分の命の結晶。そして、娘の命を繋ぐもの。
明らかに無理なペースで、寿命すら削るものだとはわかりきっていた。
別の疾患を誘発する可能性も十二分にあることはわかっていた。
それでもやる。娘のためだから。
「はぁ……」
設定された量まで採血を終え、針を抜き、滅菌ガーゼで圧迫止血する。
額に浮いた汗を腕で拭いて、壁によりかかる。
数度、深呼吸し、ゆっくりと立ち上がった。
抗凝固剤の入ったジャムの瓶を開き、針を外した注射器から血液を注ぐ。すぐに蓋を閉め、ゆっくりと何度か回す。
「ふふ……」
眠たげな眼を細めて笑う。
不思議とその血液が、梓の好物のいちごジャムに見えてくる。
コーンポタージュの次はジャムを作っている。母親らしくていい。
「あずさちゃん、学校でたくさんがんばったし、ママがごほうびつくっておいたからね」
そう言うと小学生の娘は飛び上がってはしゃいで、ばたばた走って冷蔵庫に向かっていた。
冷蔵庫の下から二番目。製氷機の横。そこが娘の宝箱だった。
血液の瓶をしまい、医療用の絆創膏を患部に貼る。
注射器から針を外し、シンクの下にある開き戸から調味料の空瓶を取り出し、蓋を外して中へ入れる。
乾いた音を立てて注射針が中で転がる。中には同じような針が数本入っている。
蓋をしっかり閉めて、黒い袋に入れて口を縛る。
別の袋を取り出して、そこに空の注射器やマスク、手袋類をまとめて入れて、キッチン下収納にしまった。消毒用アルコールで手を拭き、食器用洗剤で手を洗う。
そこまででようやく食事の支度が終わる。
愛する娘のための炊事。
娘にちゃんと食べ物を用意できた。母親としての義務をまた一つこなした。
一美はキッチンの床に座り込んで、荒く息をしながら流しっぱなしのテレビを見た。
まだワイドショーをやっていた。
女性キャスターが緊迫した表情で、画面のテロップを読み上げている。
「去年より神奈川県や都内で続く、《
それは見覚えのあるニュース。もう二度と見たくない物。
今すぐテレビを消したかった。けれども体が動かなかった。
「――去年2月頃から断続的に続く、失踪事件。被害者は年齢や性別に共通点もなく、仕事や学校から帰らない、連絡が取れないという証言で発覚します」
「共通する特徴は、現場から犯行の痕跡が発見されないということです」
画面では防犯カメラの映像が流れている。
雨の降る
駅付近の建物から黒いフードの影が動いて、男性の後ろをついていく。
曲がり角を曲がるその一瞬で、長袖のコートの袖から、異様に白い手が映る。
「――こちらは今年2月頃の映像です。この駅を撮影日当日、通勤に利用していた男性が翌日に会社を無断欠勤していることが分かり、以後、行方不明となっております——」
『去年8月頃』と書かれた別の映像。
JR
去年9月頃。
今年1月頃。
「――共通しているのは黒いフードを被った影に、白い手のみ。防犯カメラの位置を把握しているように動き、顔は映りません――」
映像が切り替わり、スタジオが映る。
警察関係者の男性が、神妙な顔で喋りはじめる。その顔に見覚えは無い。
「犯人は相当、土地勘のある人物だと思います。防犯カメラの設置場所を事前に下見したうえで、夜間に絞って犯行に及ぶ。
しかし奇妙なのは、付近で不審な車両等の目撃が無く、被害に遭われた方がどこかに連れ去られた、あるいは……残念ですが殺害等された場合の、痕跡が見つかりません」
色黒の司会者が眉をひそめて「それはそれは。まるで神隠しみたいな」とまくし立てる。
「犯人の目的や動機は全くもって不明です。日々発生している行方不明事案が、本件と関わりがあるかどうかの断定も難しいことから、単独犯、複数犯いずれの可能性も視野に入れています。
被害者の方に共通点は見られませんが、加害者或いは関係者と思われる人物は肌が白い……外国籍の方で、10代の少年である可能性があると見ています」
司会者の男性が「それは……我々はどうすれば?」と悲観したようなリアクションを取る。
「夜間歩く際は、後ろを頻繁に振り返る、防犯カメラの無い狭い路地等を通らない、怪しい人物がいたら離れる等を徹底していただくしかありません。警察は関係者への聞き込みや、犯人が昼の間に行ったと思われる偵察を手掛かりに調査を続けております」
男性が言葉を切ると、女性アナウンサーが言葉を続ける。
「つい先日の3月19日、18歳の少女が夜間、
モザイクだらけの玄関先で、長い髪の女性がマイクを向けられている。
ぼさぼさの髪の女性に、『行方不明になった少女の母』というテロップ。
それまでぼうっとした目でテレビを見ていた一美の体が強張る。
採血後でままならない体を這って動かし、テレビのリモコンを取ろうとする。
「娘が、塾の帰りだったんです……っ! いつものように帰ってくると思ったのに、今から帰るって連絡が来て、そのまま……!」
画面の中の母親が嗚咽を漏らす。その声が一美の耳に入って、一美の体を縛り付ける。
自分の抱える罪が首をもたげて、どろどろの黒い涙を一美の背中に叩きつける。一美の心の深い部分が、その声に共鳴し、震える。
画面が変わって、明るい笑顔でピースサインする女子高生たちの写真になる。周りの友達の顔にモザイクがかかっているが、その子にだけはない。
無垢で明るい笑顔の後ろには『文化祭』の文字。
その顔を見てしまう。その文字を見てしまう。
「なんで娘が……何の手がかりもないって、何ですか……本当に……っ」
悲痛の声が刃となり胸を引き裂く。
一美はリビングの床に倒れて、目をつむっていた。ぼろぼろと涙を流しながら。
やめて。やめて。やめてください。お願いします。
「絶対生きているんですっ……絶対、遠くの友達の家とか、私が……知らないっ……親切な友達の所とか……」
それは自分が何度も唱えた言葉。
自分の心の崩壊を食い止めるための絆創膏の一つだったもの。
「――付近の防犯カメラの映像には犯人と思われる人物は映っていませんが、警察は一連の連続失踪事件と同一犯とみて、GPSの反応消失地点から駅までの経路を調査しています」
女子高生の写真が数秒映った後、画面が変わってCMが流れ始める。
一美も知っている女優が掃除機の使いやすさを語るもの。
CMが1つ、2つ、3つ流れる合間に、一美のすすり泣く声が響く。
溢れ出した罪悪感が、貧血で弱った一美の体を何度も叩く。
失われた少女の命の叫びが、一美の背中を踏みつける。
罪の影に踏みつけられ、ぐしゃぐしゃになった一美は、ゆらりと起き上がった。
ティッシュ箱からティッシュを取り、鼻を噛み、ソファに倒れこむ。
「……仕方ないことなのよ。これは」
一美は心の中で暴れ狂う感情に言い聞かせる。
母として。一度娘を失いかけた母として。
一年前の自分と似た母を見た、同じ娘を持つ母として。
あの人は私と同じ。ある日理不尽に娘を奪われた。
あの人は私と違う。その娘は帰ってこなかった。
封じていた感情が
「仕方ない」なんて、どの口が言えるのだろう。
理不尽に娘を奪われて、仕方ないなんて誰が言えるだろう。
信じたくない、認めたくない、絶対に生きている。
そう信じて、それだけが唯一の光だったのだから。
あの人と私は違う。その理不尽を振りまいた人を知っている。
それは、私の愛しい娘。
「仕方ない……仕方ないことなのよ……」
震える声で繰り返す。
泣き叫ぶ母親を見下ろして。
すべては仕方のないこと。
ヴァンパイアが生きるには、人の血が必要。
人の血を穏便に手に入れる方法などない。
だから娘は殺した。
娘はただおなかがすいていただけ。
おなかがすけば食べたくなる。仕方のないこと。
全部全部、娘が生きるためには必要だったこと。
娘が何人も殺したことも。
警察を騙したことも。
私が血液製剤を盗むことも。
全部、娘が生きるために、必要なこと。
それしか道は無かった。
そうに違いない。
私は、娘に必要な事をしているだけ。
一美は荒くなっていく呼吸を戻すため、頭を下げ、吐くことを意識して呼吸を整える。
膨れ上がって今にも体を引き裂きそうなほどの罪悪感を、その呼吸と一緒に諌める。
私は娘のために何でもする。
梓を産んだ時、そう誓ったはず。
娘が闇の中から戻ったあの日に、その決意を新たにしただけで。
ヴァンパイアに運命を握られた娘を受け入れて、守ると。
梓が死んではならない。
梓がもう一度闇に消えてはならない。
もうあの画面の中の女性のようにはなりたくない。
私はあの人とは違う。
何も待たない。
自分の手で、娘を守る。
これは私のエゴ。
憎悪を、怨嗟を、侮蔑を向けられたとしても、すべてを顧みず、娘を守る。
私は梓のママだから。
一美は震える手で水を飲み、スマホを開いた。
LINEのトークルーム一覧の、『あずさ』と書いたその前後に、複数の男女の名前があった。
そのうち一つに未読メッセージ。開かずに、一瞥する。
『わかりました。では明後日の4時に
一美は小さなノートを取り出した。梓から昔もらったノート。
ふわふわしたうさぎのキャラクターが周りに書いている頁に、自分の固い文字がある。
恐ろしい計画。正気を疑うような内容。
手が後ろに回るリスクが高いもの。自分が娘のもとを去らなければならないかもしれない。
次の食事の準備。
全部娘のため。娘が生きるため。
娘のためなら、どんなことでもする。
どれだけ体を壊そうとも、罪にまみれようとも、それは絶対に変わらない。