はらぺこヴァンパイア   作:棗の

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求めていた関係-5月25日22時5分

 

(あずさ)は頭にバスタオルを巻いて、寝間着姿で自室にいた。

 

 

お風呂上がりにベッドに腰かけ、ドライヤーで髪を乾かす。

 

ヴァンパイアになって良かったと思う事なんてほとんどないが、お風呂の後の手軽さは人間よりは上だった。

 

髪が伸びたり自然に抜けたりすることがないようで、常に一定に保たれている。

ドライヤーを部屋でかけても汚れない。体が濡れてもさっと拭くだけで乾いてしまうし、風邪をひくことも凍えることもないのだから。

 

ヴァンパイアは流れる水が苦手だが、浴槽に浸かった後、体を這う水滴やドライヤーで跳んだ水飛沫は許してくれるようだった。

お風呂上がりの化粧水も保湿もいらない。いつも肌は真白くきれいなまま。

 

時が止まったような体。ある程度髪を切った状態でヴァンパイアになって良かった。

前髪の形がおかしいときになったら、ずっとそのままになるところだったから。

 

 

今日は土曜日で、天気は曇り。家族三人でショッピングモールに行っていた。

一美(かずみ)を元気づけるために梓が計画したお出かけの会で、三人で買い物をした。

梓は荷物持ちに徹して、父と母がのんびりと買い物するのを後ろから眺めていた。

 

 

そんな梓はご機嫌だった。

久しぶりに誰かのために動けた気がする。荷物ぐらい片手で持てちゃうし、太陽の光がほとんど無いお店の中は、夜みたいに動けた。

最近元気がないママのために親孝行できた気分。

 

ママとパパは相変わらず仲が良くて、ママの夏物のアウターをパパが選んだりしていた。

 

両親二人のお風呂が済んだ後、梓は浴槽にお湯をためてお風呂に入った。

どうしても多少は血が出てしまうから、最後にしか入れないしお湯も汚くなるけど、なんだか体の中の嫌なものも出してくれる気がして好きだった。

 

 

梓は途切れ途切れの鼻歌を歌いながら、ドライヤーを持たない方の手でスマホを開いた。

LINE通知4件。星野由佳(ほしのゆか)

 

『梓おはよう 今日お家にいるよね?』

 

『梓今日はどこにいるの? 曇りだけど外にいるの?』

 

『梓どうしたの? ひどいめにあってる? 大丈夫?』

 

『お願い返事して 無視しないで あやまるから』

 

梓は苦笑した。

そういえば買い物中はLINEを見てなかった。元々そんなに人から連絡が来るわけじゃないし、これからは見る癖をつけたほうがいいかも。

 

LINEを開いて『ごめんね 親と買い物行ってた』と返す。

すぐに既読がついた。

 

『どこかいくなら教えて家にいるって言ってたのに』

 

そういえばそんなこと言った気がする。

「明日どうするの?」って昨日帰る時に聞かれたから、その時点では特に何も決めてないし、適当に答えていた。

 

 

梓はドライヤーを終えて、洗面台の下にしまってリビングへ。

照明が常夜灯に切り替わっていて、ソファの上で一美がタオルケットにくるまり静かに寝息を立てていた。

 

いつもよりちょっと穏やかな母の顔。

最近なんだか険しい顔をしていることが多くて、ご飯の時もあんまり喋らなくなった。

自分のせいなのはわかっているけれど、コーンポタージュ以外に食べられるものも思いつかなくて。

 

 

寝室の明かりが点いていて、ドアが開いている。

ちらりと覗くと、寝間着姿の浩平(こうへい)がタブレットで映画を見ながら炭酸ジュースを飲んでいた。

梓の視線に気づいて、イヤホンを外してこちらを見た。

 

「梓、起きてたのかい」

 

「起きてるよ。今日はありがとうパパ。ママ、ちょっと幸せそう」

 

「こっちこそありがとう。久しぶりにママとデートできちゃったよ。梓はほんとに力持ちだね。まさか娘に荷物持ちを任せるなんて……」

 

「いいの。本気出せば車ぐらいなら持ち上げられちゃうよ」

 

梓が牙を見せてにやりと笑うと、浩平も笑う。

 

「梓も疲れただろうし、ゆっくり休んでおいで。パパはママが起きてくるまでゆっくりしておくから」

 

「うん。じゃあお先におやすみ、パパ」

 

梓は手を振って、部屋に戻った。

 

 

すっかり乾いた髪をくるくる指でもてあそびながら、ベッドに腰かけてスマホを開く。

LINE通知。星野由佳。2件。

 

『そしたらもう電話できるよね いいでしょ?』

 

『梓お願い 電話しよ』

 

5分刻みで2件来ていた。

 

「わかったよ……」

 

梓はちょっと呆れたように笑って、無線のイヤホンを出してきてBluetoothでつなぐ。サンリオのペンギンのキャラクターをモチーフにしたイヤホンを耳に着けた。

 

昨日の帰り際、由佳が「明日電話するから」と何度も繰り返していたのを思い出す。

 

由佳と電話で話すのは初めて。こんな時間だけどいいのかな。

『電話していい?』とLINEすると、即座にOKのスタンプが返ってくる。

梓は部屋のドアがしっかり閉まっているのを確認して、通話ボタンを押した。ワンコールで発信音が止んだ。

 

「あずさぁ……やっと話せた……」

 

由佳は涙交じりの声をしていた。

 

「ど、どうしたの? 由佳の方こそ何か」

 

「梓がいなくなっちゃうから! 今日一日お家にいるって言ったのに!」

 

「ごめん……いなくなってないよ。出かけてただけ」

 

通話だと向こうの様子が全く分からなくて焦ってしまう。

もしかして朝からずっと待ってたのかな。いやそんなまさか。

由佳は他の友達と遊んでたんだと思う。

 

「今日は恋人同士になってはじめての土曜日なんだよ。記念すべき日なの。梓、わかってる?」

 

「う、うーん……そう、だけど」

 

それってはじめてって言うのかな。

 

 

拗ねている由佳をなだめながら、ベッドに腰かけて通話を続ける。

10分経って、20分経って、だんだん由佳がいつもの声色に戻ってくる。

 

夜に通話で誰かと話すのなんていつぶりだろう。もう覚えていないぐらい昔のこと。

 

由佳がする話は学校とそんなに変わらなかった。

好きなインスタグラマーの話、YouTubeShortで見た面白い動画の話。

 

 

由佳が言った動画をタブレットで見ようと思うと、もう23時だった。

 

「由佳、もう11時だけど大丈夫? 親、起きちゃうんじゃないの?」

 

すうっと向こうから返ってくる声が止む。

 

「……大丈夫だよ。起きない起きない。梓もでしょ。起きたら怖いじゃん」

 

ちょっと怒っているような声。

 

「いや、私は自分の部屋あるし大丈夫だよ。怖いこともないし」

 

「梓、わたしに嘘つかなくていいんだよ。ね?」

 

なんか誤解されてる。

 

「わたしは梓の味方だよ。梓の恋人なんだから」

 

「……ありがと。ママはちょっと機嫌が悪かっただけだと思う。優しいママだよ。ほんとに」

 

由佳は数秒黙って、「ところでさ」と別の話を切り出した。

 

「明日は何するの?」

 

「明日は家にいるよ。宿題とか、家事とか」

 

「明日曇りだけど、外に出ないの?」

 

梓はまた天井を仰いだ。

 

日曜日に外に出ないのは、太陽の光に耐性が無い日だから。

アンチライトのことは言ってない。

ブラックドッグとの”契約”にうっかり触って、由佳の身に危険があったらまずいから。

 

「明日は別にいいかな。曇りでも太陽の光はあるから」

 

とりあえず嘘をつくことにした。

 

「そっか……ほんと大変だよね。夜がやっぱり一番いいの?」

 

「うん。夜の方が元気。今ぐらいの時間だと外も涼しいし」

 

梓は立ち上がって、窓を開けた。

マンションの六階からの景色。遠くに東京都(とうきょうと)内の輝くビル群が見える。

ヴァンパイアの視力で、マンション下の街灯の無い道を歩く人までしっかり見えていた。

 

「いつか夜中にデートしたいなぁ。だめ?」

 

「門限とかあるんじゃないの」

 

「うち門限ないから。大丈夫」

 

ちょっと早口で言う由佳。

 

心の中で引っかかって、大きくなっていく違和感。

 

 

梓は数秒、迷う。踏み込んでいい場所なのかわからなかったから。

 

机の上のノートを見た。

『由佳への気持ち』と書いたページ。由佳にしてもらった小さな嬉しいことがいっぱい書いてあった。

だけど、答えが出てない。

 

恋人らしいことってなんだろう。

 

「……そういえばさ、由佳ってどこに住んでるの?」

 

だから友達同士でも違和感のないことから、ちょっとずつ歩んでいくことにした。

 

妙蓮寺駅(みょうれんじえき)の近くだよ。マンション。梓は?」

 

いつもの由佳が答えた。

 

「私は日吉駅(ひよしえき)の近く。マンションだよ」

 

「そうなんだ……地下鉄だと結構遠回りだよね。やっぱり太陽の光が苦手だから?」

 

「そう。ちょっとでも避けたいから」

 

本当のことを話せてる。早起きなんて苦でも何でもなくなったから、遠回りだって平気だった。

 

「わたしも地下鉄にしようかな……梓、地下鉄の駅とかだと気持ちが楽なんでしょ?」

 

「そうだけど……定期作り直しとか面倒だし大丈夫だよ。気持ちだけもらっとく」

 

「定期代より梓と一緒の時間の方を買いたいの」

 

ちょっと予想外の言葉が返ってきて、梓は部屋の中をきょろきょろと眺めてしまう。

 

「……そんなに?」

 

「うん。ずっとずっと一緒にいたいよ。梓と」

 

そんな言葉を向けられたのは、人生で初めてだった。

いま人間だったら、すごくどきどきしていたのかもしれない。

 

でも、一方で……そんなにずっと一緒にいたいと思う気持ちが、よくわからなかった。

 

 

梓も一美のことは大好きだが、ご飯や寝る前以外は別々の部屋にいる。たまに一緒にテレビを見たりするぐらい。

 

前に付き合っていた彼氏も……そう思う前に一方的にブロックされたし、経験のないことだった。

人間として経験のないことを、ヴァンパイアとして経験していた。

 

だから、人間の三浦(みうら)梓だったらどうしたのかわからなかった。

 

「……ありがと」

 

「どういたしまして。あ、で、でも。迷惑じゃなければだよ!」

 

くすりと笑ってしまった。

由佳は気の遣い方がちょっとよく分からない時がある。だけど別に嫌じゃないし、あたふたしてる由佳はちょっとかわいいと思う。

 

 

「……由佳も眠くなったら言ってね。()()()()()()()()()()

 

 

ふっと口をついて、普段は言わないことを言ってしまった。

人間じゃないってすぐにわかること。

どうしてかはわからない。

 

「わかんない、ってどういうこと?」

 

「あー……ヴァンパイアだしさ、眠くならないの」

 

「え!? そ、そうなの? お昼の間、棺で眠ったり」

 

「しないしない。朝でも夜でもずっと起きていられるの。眠いって感情が無いの」

 

由佳はしばらく黙ったあと、「すご……ほんとに……?」と声を漏らす。

 

「ほんとに全然眠くないの?」

 

「三日間ぐらい起きてたことあるけど、全然」

 

梓はなんだか不思議な気持ちだった。

学校の友達とヴァンパイアのことを話してる。本当はずっとずっと隠さないといけなかったことを喋れてる。

胸の奥で詰まっていたものがすっと抜けた気がした。

 

「えぇー! めちゃくちゃうらやましい! じゃあさじゃあさ! 空飛んだりは!?」

 

 

……もしかして私、求めていたのかな。

 

 

「さすがにできないけど……三階ぐらいまでだったら飛べるよ」

 

 

ヴァンパイアの話ができる友達を。

 

 

「すごーい! 梓ってやっぱり運動すごいできるんだね。球技大会の時、絶対手加減してるって思ったもん」

 

「してるよ。本気でやったら大変な事になっちゃう。ボールなんて絶対投げられないし」

 

「投げたらどうなるの?」

 

「体育館の壁に穴が開いちゃうかも」

 

あはは、と梓は笑った。

やったことないけど、やったら由佳は丸い目をもっと丸くするかも。ちょっと見てみたい。

 

「すごい! じゃああれって、相手チームに気を遣ってたんだ」

 

「相手チームって言うか、人間にね」

 

梓はなんだか楽しくなっていた。

 

「すごい……やっぱり梓ってヴァンパイアなんだ。本気出してみたいとか思わない?」

 

「いや……別に思ったことはないかな」

 

本気で走ったこともあるけど、別になんだか楽しくなったりはしない。

人間だった頃はたまに走るのも好きだったけど、そういう感覚も消えちゃったみたい。

 

「見たい! 夜の学校とか行ってみない?」

 

「いいね。夏休みとかに行こうよ」

 

「夏休みじゃなくてー明日とかー」

 

甘えた声を出してくる由佳。

最近こういう甘えた声が増えた。由佳って甘えんぼなのかもしれない。なんだかワンちゃんみたい。

 

「だめ。ばれたら大変な事になるし、日曜だと部活やってる人いるから」

 

「だって梓とデートしたいもん。明日。デートしよ! デート!」

 

「明日……はちょっと無理。日曜日は色々したいことがあるから」

 

アンチライトのことはまだ言う気はなかった。

 

「わたしより大事なの?」

 

たぶんいま、ぷくっと頬を膨らませた顔をしている。

 

梓はちょっといたずら心が芽生えていた。ちょうどドラマで聞いた台詞を言ってみたくなった。

 

 

「由佳より大事な事はないけど、必要な事があるから」

 

 

言った後、向こうから反応が無くなる。

「何それ」って笑ってくれるか、ドラマの話になると思ったのに。

 

「……あ、ごめん。由佳、今の無し。ドラマの台詞で、ちょっとふざけたくて」

 

「も、もう一回! もう一回言って! お願い!」

 

由佳の息が荒い。ガサガサ音がする。何してるんだろう。

 

「え、えっと、ゆ、由佳より大事なことはないけど、必要な事があるから」

 

なんだか恥ずかしい。一度うけなかった冗談をもう一回言わされるってこういうことなのかな。

 

スマホの向こうでガサガサ、カチカチ音がする。

 

「……えへへ。梓からはじめて大事って言われちゃった♪ 大事、大事かぁ……えへへ」

 

衣擦れの音が聞こえる。ベッドの上にいるのかな。

 

「今日は梓からの愛情表現記念日だね。明日ケーキ買わないと」

 

「え、えぇ?」

 

よくわからないけど由佳は喜んでいた。”彼女らしいこと”ができたのかな。

友達のことを大事って思うのは普通だと思うし、お世辞じゃなく、由佳は大切な人だけど……彼女らしいことって、どういうことなんだろう。

 

 

すれ違いが起こってる。わかっているけど、どうしたらいいかわからない。

 

 

「ねえあずさぁ、わたしの好きなところもっと言って」

 

由佳が甘えた口調でそう言った。

 

「え、えっと……優しいところ?」

 

「他に!」

 

「私のことをよく見て、色々気遣ってくれるところ、とか……」

 

「もっと!」

 

「私と服の好みが似てるところとか」

 

「そ、その……か……可愛い、とか」

 

「え? うん。由佳は可愛いよね」

 

きゃーっと悲鳴が聞こえる。

ばさばさ布が動く音。それからカチカチ音がする。

 

そこまで反応されるとこっちも恥ずかしくなる。

 

「えへへ……梓だいすき。癖になっちゃいそう」

 

「ありがと。そろそろいい? 寝ないと」

 

あんまり夜中まで話していると、リビングに聞こえちゃうかもしれない。

 

「えっ!? なんで!? 梓寝ないでしょ!?」

 

「寝るよ。夜中まで話してたら親が起きちゃうし、由佳のご両親にも悪いから」

 

「だっ、大丈夫! うちの親いな……一度寝たら起きないから!」

 

「そういう問題じゃないでしょ。ね。明日の夜また電話するから」

 

言って、安請け合いしちゃったなと少し後悔。

 

「やだぁ……やだよ。梓行かないで。寂しいの」

 

急に涙声になる由佳。

梓は天井を仰いで、ふうっと一度息を吐く。

 

「私はどこも行かないよ。ね? だから今日は終わり」

 

「…………わかった。梓に嫌われたくないし、今日はやめとく」

 

由佳が頬を膨らませているのが見えるようだった。

 

「嫌わないよこんなことで。じゃあ、またね」

 

ばいばい、と言って画面の赤いボタンを押す。

イヤホンを外して、ベッドに倒れこむ。

 

遠くからの街の喧騒。気のせいか、体がちょっと熱い。

 

 

耳を澄ますと、リビングの方から話し声がする。

パパとママの声。楽しそう。

ママが笑ってる。今日のお出かけの話でもしてるのかな。

 

「ふふ……」

 

親孝行、できたかな。恩返しできたかな。

 

楽しい気分を心に押し込んだまま、梓はしっかり窓を閉め、遮光カーテンをフックで留めて、遮光を確認した。

スマホのアラームは残り7時間半。このアラームが切れたら、太陽の光を浴びちゃいけない。

 

「じゃあ7時まで寝ようかな……」

 

梓は布団を被って、目を閉じた。

 

 

 

由佳はスマホ画面を呆然と眺めていた。

換気扇と洗濯機の音だけが聞こえる室内が戻ってくる。

 

自分だけの部屋。

さっきまで梓がいたのに、もういない。冷たい部屋だけ。

 

「あずさぁ……」

 

下着姿の由佳はふらふらと立ち上がって、洗面所のタオルで顔を拭く。

涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったひどい顔が鏡に映る。

 

お手洗いを済ませて、手を洗ってベッドに戻ると、自分が脱ぎ散らかした寝間着と、さっきまで抱きついていた丸めた毛布がある。

 

大丈夫。梓はまた明日って言ってくれた。

明日まで我慢すればまた会える。

また電話できる。また一緒の時間を過ごせる。

 

 

由佳は毛布を整え、服を畳んで、テレビをつけて、Netflixで適当なドラマを流す。

タブレットを開いて、梓の好きなアーティストの音楽を大音量で流す。

下着姿のままベッドに転がってスマホを手に取り、梓と二人でベイクォーターで撮った写真を見る。

 

行ってしまった梓の残骸を手元に手繰り寄せて、冷えていくぬくもりを拾い集める。

 

 

この部屋に住んで3年ぐらいになるのに、なんだか昨日から住み始めたような気持ち。

さびしい。

 

 

梓の手の感触を、二人の時間の楽しさを知ってしまったから。

一人は嫌だ。

 

「ううん、違う……」

 

わたしはひとりじゃない。

まだいる。まだ一緒にいる。離れないで。お願い。

 

音の濁流に自分を投げ込んで、荒くなっていく呼吸を落ち着ける。

 

さびしくない。一人じゃない。一緒にいる。

 

 

梓はちょっと呆れてた気がする。

もしかして嫌われたのかな。LINEブロックされてないかな。

 

「だいじょうぶ……だいじょうぶ……」

 

これで終わりじゃない。

梓は怒ってない。

大丈夫。梓はそんな子じゃない。

 

 

電話はやっぱり苦手だ。声だけじゃ相手の反応が分からない。

梓は感情をあまり表に出さないから、冷たい声になるとすごく怒ってるかもしれないって不安になる。

梓に嫌われたら死んじゃう。

 

この部屋の中で、ベッドの中で話したい。

贅沢言わないから、一緒のテーブルで向かい合って話したい。

 

だけど梓をここにはまだ呼べない。

万が一、”あの人”が玄関のドアを開けたら全てが終わる。

ここは安全じゃない。

 

それまではここに両親がいるという設定にしておく。いてほしくもないけど。

 

 

由佳はスマホのLINEトーク履歴を開いて、『紗枝(さえ)おばさん』を選ぶ。最後のLINEは昨日。

 

『わたし告白したよ OKしてもらえた』

 

『よかったわね由佳ちゃん。彼氏さんと仲良くね。この前の理枝(りえ)のことは叱っておくから』

 

ちくりと胸が痛む。

 

優しい人を騙している罪悪感。

自分が外れものであることの自覚。

隠さなければ生きていけない世の中への哀しみ。

 

なぜこの人が母親じゃなかったんだろう。

なぜこの人が結婚できなくて、あの人が結婚できたんだろう。

この人がもし母親だったら、今よりも少しはマシな生活ができていたと思う。

梓に隠しごとなんてする必要なかった。

 

どす黒い感情が胸の奥から湧いてきて、寂しさと混ざって鋭利な刃になって、むき出しの肌を傷つける。

 

 

首を振って、スマホの録音アプリを開いた。梓と付き合ってすぐにスマホに入れたアプリ。

今日の日付の音声ファイルが二つ。

そのうちの一つ、”ゆかよりだいじなことはない”と書いた物を押す。

 

「――え、えっと、ゆ、由佳より大事なことはないけど、必要な事があるから」

 

それは録音した恋人の声だった。雑音交じりだけど、それでも自分の魂を揺さぶる声。

確かにさっきあったこと。

由佳を攻撃する孤独が、その声を受けて、身じろいて止まる。

 

「あずさぁ……」

 

由佳は渦巻く感情を、部屋を取り巻く音の濁流に投げ捨てて、電気を消してベッドに倒れこむ。

 

「――え、えっと、ゆ、由佳より大事なことはないけど、必要な事があるから」

 

スマホのボタンを何度もタップする。

 

「――え、えっと、ゆ、由佳より大事なことはないけど、必要な事があるから」

 

何度も。

 

「――え、えっと、ゆ、由佳より大事なことはないけど、必要な事があるから」

 

何度も。

 

「あずさぁ……だいじだよね……わたしのこと、スキだよね……っ」

 

音の混じった部屋の中に、熱っぽい由佳の吐息が加わる。

 

 

悲しみも、みじめさも、愛情もごちゃまぜになりながら、夢想する。

 

 

恋人がここにいることを。

恋人が自分の体を求める夜を。

 

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