はらぺこヴァンパイア 作:棗の
纏わりつくような不快感。
お風呂に入っても、きれいな夜景を見ても、欲しい服を通販サイトで探しても、ママと
太いロープが首に巻き付いて、締め付けているような感覚。
寒さを感じないはずなのに、寒い。
学校の数学ドリルを開いて、何も考えずひたすら解く。
真っ暗な部屋で、ぼんやりと光って見えるノートとドリルを交互に見て、解き続ける。
首が締まっていく。寒い。
梓は毛布を体に巻いていた。
温かい飲み物を取りに行こうとして、飲めないことに気付く。
コーンポタージュはまだ、ない。
宿題だった37ページの問題を解いて、次のページへ。
明日やるはずの部分。
梓の口が無意識に動いて、口内で下あごを刺す。どろどろの血が喉に伝って、首の拘束が緩む。
半ページ解いて、また首が締まる。
口が動いて、血が喉に落ちる。
さらに半ページ解いて、口が動いて、血が喉に落ちる。
「あっ……」
べしゃっ、と音がして、黒い血の塊がノートの端を汚した。
ティッシュで拭き取ったが、ノートの端にくっきりと黒い染みが残ってしまった。
ペンを置いて、口にティッシュを当てて洗面所へ。
鏡に映った自分は、口の両端に黒い一筋の汚れがついていた。
使い捨てのペーパータオルをたくさん取って汚れを拭きとった。ペーパータオルはまるでお風呂掃除に使ったみたいに汚れていた。
「……はぁ」
口を開けると、牙と歯がわずかに黒く染まっていた。
教科書で見た平安時代のお
どろどろの溶けたチョコレートみたいなものが、口内に纏わりついていた。
「……ちょっとだけ」
もう宿題に戻る気にはならなかった。
スマホを取って机に戻る。
ドリルとノートを片付けて、インスタグラムを開いた。
ブックマークの中にある写真を一枚ずつ見て、スワイプしていく。
ごちそうのリスト。おいしそうな人がたくさん載ってる。
私はヴァンパイアだから。別にいいよね?
ふーくんの後ろを振り返った写真。耳元から首筋のラインがきれい。
メンバーの人が撮った、ロケバスで寝てるふーくん。
首が横に傾いていて、きれいなラインを描いている。
「へへ……」
今度ドラマに出る女優さん。髪を後ろで結って、帽子を被る前の写真。
後ろ髪の生え際から首の後ろのラインがきれい。
昨日の夜のバラエティに番宣で出てた若い俳優さん。いま大学四年生の男の人。こっちに流し目を見せてる一枚を選んだ。
口元から首、鎖骨のラインがきれい。
首。首。首。
頸動脈。
温かい血が流れてる、噛んだらぶしゅーって血が噴き出て、おいしいものが溢れてくるところ。
「おいしそう……」
無意識のうちに、舌で牙をなめていた。
はぁっと熱っぽい息を吐いて、口元が笑みを作る。
なんだか気持ちがいい。なぜかわからないけど、気分がよくなってくる。
「誰も見てないし……」
指先が迷って、一枚の写真でスマホの映像が止まる。
イチオシの一枚は、ロケバスで寝ているふーくんの写真。無防備な首がくっきり映っている。
生気に満ちた、きれいな首。
噛んだらきっと、おいしそう。
グチャグチャに噛んでしまいたい。
誰にも迷惑かけないし、誰も見てない。
大丈夫。
私はヴァンパイアなんだから、首筋に惹かれるのは当たり前。変じゃない。
由佳じゃないから大丈夫。相手はふーくん。
私が会えない人。だから安全。
梓はロケバスの中にいた。
真っ暗なバスの中で、眠ったままの
温かい鮮血が出てきて、喉を通って、自分の体に行き渡る。
現実の梓は赤い目を薄く開いて、牙をむき出しにして何もない空を噛んだ。
噛むたびに下の唇に牙がこすれて、裂傷から漏れた黒い血が梓の顎に新しい模様を作っていく。
喉には何も伝わらない。けれどもなんだか、気持ちが和らいでいく。
もっとほしい。せめて何か噛みたい。
梓はベッドの縁に丸めて置いた黒いタオルを取った。
くしゃくしゃに丸めて、両手におさめて、牙を立てて噛みついた。
布を引き裂く音が響く。
これは布じゃない。
ふーくんの首。
私は今噛んでる。
血を吸ってる。
人間を狩って、食って、血を吸ってる!
「がううっ! ふううっ!」
梓はタオルを床に押さえつけて、唸り声をあげて何度も噛みついた。
黒色のタオルに、新しい黒の模様が生まれていく。
引き裂かれた繊維に、何度も牙が突き刺さる。
体を曲げて、抵抗する獲物を押さえつける。
これはふーくんの首!
噛んでる!
血を吸ってる!
「あはははっ!」
噛みついて、引き千切って、血管をむき出しにして、吸い上げる。
鮮血がダンスして、引き裂かれた肉片が舞い上がる。
楽しい。
これ楽しい!
噛みつくたびに鮮血が飛び散る幻想。
ヴァンパイアが見せる夢に乗って、何度も噛みつく。
4回、5回、6回噛みついて、タオルがぼろぼろの布きれに変わっていく。
噛んだ感触が足りなくて、自分の腕に噛みついて、黒い血が白い絨毯に飛び散る。
夢の中でふーくんの首がズタズタになって、湧き出る鮮血が減っていく。
頸動脈の内側、頸椎を噛み砕いて、どろりと溢れる体液が足元に滴っていく。
さらに数回噛んで、顔を上げた。
四つん這いのまま、天井を見上げた。
ふうっと一度、長い息を吐いた。
梓の口から笑みが消える。
夢が終わり、現実が戻ってくる。
ここは私の部屋。
ボロボロの糸くずになったタオルと、その周りに散らばる真っ黒い汚れ。
自分の腕には抉り取ったような傷がいくつもあった。
タオルと一緒に噛みついていたらしい。
抉り取られた白いヴァンパイアの皮膚の内側は紫がかっていて、真っ黒い墨のような血が腕を伝っていた。
「…………カーペット、汚しちゃった」
ふわふわのカーペットに、墨汁をぶちまけたように黒い血が撒かれている。
このカーペット、お気に入りだったのに。
丸洗いできるのかな。
タオルも捨てないと。
ティッシュで腕の傷を適当に拭いて振り返ると、部屋のドアが開けっぱなしだった。
そっと廊下に出ると、リビングと廊下を隔てるドアは閉まってる。
きっとママにはばれてない。大丈夫。
レジ袋にぼろぼろのタオルを入れて、縛って玄関のごみ箱に入れた。
体に纏わりつく不快感は、もうなかった。
何も食べていないけれど、空腹に怒るヴァンパイアは満足したらしかった。
腕の傷も、黒い血の汚れだけ残して塞がっていた。
だけど。
「……もうちょっとだけ」
今度こそちゃんとドアを閉めて、別の人を獲物にして、何度も空を噛んだ。
誰も見てないから大丈夫。
誰も傷つけてないから大丈夫。
気が済んだら、宿題をするから。