はらぺこヴァンパイア 作:棗の
天気は曇り。
黒い帽子に、黒色のマスクをつけて、首に黒いタオルを巻いた梓。赤い目を伏せて、まるで護送される犯罪者のような様相。
一美もまた、マスクをして車の外へ出た。
梅雨の晴れ間のうだるような暑さに、マスクを外す。
後部座席のドアを開けると、梓が車を降りた。
梓は学校を早退した。
「昨日から風邪っぽくて、病院に行くから」と早退した。
昨日の夜からそう決めていた。
マスクも黒にしたし、黒いタオルも持って行った。
何度も口の中を噛んで血が漏れても、目立ちにくいから。
こういう時に病弱キャラは楽だと思えるほど、梓は荒んでいなかった。
変わった人になりたいだけなのに。病弱な人って思われたくないのに。
どうしようもなくお腹がすいて、”がまん”が止まらない。
授業中にあてられないのをいいことに、何度も何度も口の中を噛んだ。
昨日より激しくなってる。
授業中にスマホを出して写真を見ようとしたら、
学校に行くようになってから、ここまでおなかがすいたのは初めてだったかも。人間だった時を含めて。
梓は一美の後をついて、エレベーターで6階へ。
玄関までたどりついて、リュックを下ろしてそのまましりもちをついた。
「お疲れ様。梓。がんばったわね」
「ありがとう。ご飯……は、ないよね」
梓は肩を落として、ふうっと息をつく。
首に鎖が巻き付いて、締め付けているような感覚。
痛みではなく、強い不快感。
全部全部断ち切るために、次のコーンポタージュまで眠りたかった。
でも眠れない。私は高校生だから。
月曜日から金曜日は学校。
今日は早退したけど、明日はちゃんと学校に行かないと。六時間目まで授業もあるし。
それに長い間眠ったら……起きた時にきっと、誰かを殺す。
ママかもしれない。パパかもしれない。
その時の私に、まともな感情なんてきっとない。
”ただのヴァンパイア”に、分別なんてない。
食べて、満腹になるまで止まらない。
そう考えると夜に眠ることすら、ちょっと怖い。
次起きた時に、ただのヴァンパイアになっているかもしれなくて。
どうすればいいのかわからない。
考えたいけど寒いし頭が痛い。まずこれをなんとかしないと。
なんとかするには殺すしかない。
でも殺したくない。
でもどうしたらいいかわからない。
グルグル回って、行き止まりに行きつく。
今すぐ、ちょっとだけなんとかする方法は知ってる。
やったこともある。体が教えてくれた。
おなかがすいて力が出ない。
私はヴァンパイアだし、やっぱり血が無いとダメなんだ。
でも絶対噛んじゃダメ。
噛まなきゃ大丈夫。大丈夫だから。
梓は幽鬼のように立ち上がって、アウターを脱いだ一美に近寄った。ソファに座ったのを見計らって、その隣に座った。
一美は疲れた目で、何か言いたげな娘を見た。
「ねえ、ママ……いい?」
梓の口には微笑が浮かんでいて、色の無い舌が牙を舐めていた。
一美はふうっと息をついて、首元の襟をずらした。
目の前の母の首が、キラキラ光って見えた。
噛んで、引き千切って、頸動脈をむき出しにすれば、あったかい血が噴き出て、すごくおいしい。
ダメ。噛んじゃダメ。
梓はソファの上で身を乗り出して、一美の首筋に顔を付けた。
暖かい。コーンポタージュの香りがする。
「ありがと、ママ……」
紫がかった舌が出て、一美の頸動脈の上を撫でる。
梓の舌が何度も、何度も、一美の頸動脈の上を舐めた。
子犬が皿の水を飲むように。
梓は身を乗り出して、一美に覆いかぶさるように両肩を掴んだ。
ヴァンパイアの握力で、一美の体がソファに沈む。
冷たい舌が、何度も一美の首筋を舐める。
おいしい。気持ちが落ち着いてくる。
寒さが引いて、本当にコーンポタージュを飲んだ後みたい。
「ママ……おいしい……」
ぼんやりした目で呟いて、牙を立てて首筋をなぞった。
かさぶたができて塞がっていた切り傷の横に、真新しい赤い傷が二筋できた。皮膚の表面を切っただけの浅い傷。
まるで紅茶のパックを開けた時みたいに、コーンポタージュの香りがふわりと立ち上る。
梓の両手に力がこもる。
もう少し押し込めばもっとおいしくなる。
ダメ。ママを傷つけちゃう。
これ以上は絶対ダメ。
梓は一美の首筋に頬をこすりつけて、猫みたいに満足げに目を細めた。
真新しい傷をまた舐めて、舌先にほんのわずかに伝わる温かみを逃さないよう、集中する。
一美は娘に悟られないよう、両手を太ももの裏に敷いて、ぎゅっと握っていた。
冷や汗が止まらない。
根源的な恐怖。
娘がわずかでも力加減を間違えれば、頸動脈が破損し大量出血する。その部位の止血は出来ない。
救急車の到着までに15分はかかる。15分あれば生命維持に危険なラインまで到達するし、何より溢れる血を見て娘に自制が効くとは思えない。
そうなれば自分は、なすすべもなく死ぬだろう。
それにたとえ表皮の傷であっても、娘の体内にあるかもしれない未知の細菌――ヴァンパイアだけが持つ何か――が、自分の体内に入った場合、どうなるかは分からない。
危険すぎる”遊び”。
娘が新しく覚えた遊び。
母として叱るべきだと思いつつも、それができなかった。
慢性貧血で衰弱した心と体が、自分の人生で最も大切な娘への貢献で慰めを得ている。
苦しむ娘に、母として今できること。
自分の頸動脈を差し出し、それを舐めさせること。
その間、娘は飢えの苦しみから逃れられる。
これは慰め。
娘と、自分への。
人間としての娯楽で満足感を得づらい娘が見つけた、新たな趣味。
他の誰かに迷惑をかけるぐらいなら、自分がする。
梓を信じている。
この子は優しい子。
決して人を傷つけようとは思わない子。
梓は昔からよく転ぶ子だった。
転んで泣いて駆け寄ってきて、自分は絆創膏と消毒薬をもってきていた。
痛いことをされるとわかっていても膝を差し出す娘に、「えらいね梓ちゃん、えらい子だね」と褒めてあげていた。
今、自分の命を奪うかもしれない娘の姿が、その時の幻影と重なった。
「えらいね、あずさ。えらい子ね」
一美は片手を太ももの下から出して、梓の頭を撫でた。
梓が一瞬、赤い目で自分を見て、嬉しそうに笑う。
梓が笑ったのか、ヴァンパイアが笑ったのかは分からない。
”がまん”を褒められて嬉しくなって、梓は赤い傷を何度も舐める。
涎の無い舌が、炎症反応で熱される傷を冷やすように動いて、一美もなんだか痛みが和らいでいた。
嬉しくなって、楽しくなっても、自制しなきゃいけない。
私は人間だから。犯罪だし、法律は守らないと。
「ママだいすき……おいしい……」
いつもだとちょっと恥ずかしいセリフも、今なら言えてしまう。
おいしくて大好きなママ。
コーンポタージュの香りがするママ。
家の中だから大丈夫。ママしか見てないから大丈夫。
絶対傷つけないから大丈夫。私はちゃんとできる。
前も、その前も出来たから、今回も大丈夫。
梓はそう念じて、楽しみなご飯の香りを全身に行き渡らせていた。