はらぺこヴァンパイア   作:棗の

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慰め-5月31日12時40分

 

(あずさ)は空腹だった。

 

 

天気は曇り。

一美(かずみ)の車に揺られて、梓は家に帰りつく。

黒い帽子に、黒色のマスクをつけて、首に黒いタオルを巻いた梓。赤い目を伏せて、まるで護送される犯罪者のような様相。

 

一美もまた、マスクをして車の外へ出た。

梅雨の晴れ間のうだるような暑さに、マスクを外す。

後部座席のドアを開けると、梓が車を降りた。

 

 

梓は学校を早退した。

「昨日から風邪っぽくて、病院に行くから」と早退した。

昨日の夜からそう決めていた。

 

マスクも黒にしたし、黒いタオルも持って行った。

何度も口の中を噛んで血が漏れても、目立ちにくいから。

 

 

こういう時に病弱キャラは楽だと思えるほど、梓は荒んでいなかった。

変わった人になりたいだけなのに。病弱な人って思われたくないのに。

 

どうしようもなくお腹がすいて、”がまん”が止まらない。

授業中にあてられないのをいいことに、何度も何度も口の中を噛んだ。

 

 

昨日より激しくなってる。

授業中にスマホを出して写真を見ようとしたら、早紀(さき)ちゃんに「あずちんダメだって!」と小声で止められた。

 

学校に行くようになってから、ここまでおなかがすいたのは初めてだったかも。人間だった時を含めて。

 

 

梓は一美の後をついて、エレベーターで6階へ。

玄関までたどりついて、リュックを下ろしてそのまましりもちをついた。

 

「お疲れ様。梓。がんばったわね」

 

「ありがとう。ご飯……は、ないよね」

 

梓は肩を落として、ふうっと息をつく。

首に鎖が巻き付いて、締め付けているような感覚。

痛みではなく、強い不快感。

全部全部断ち切るために、次のコーンポタージュまで眠りたかった。

 

でも眠れない。私は高校生だから。

月曜日から金曜日は学校。

今日は早退したけど、明日はちゃんと学校に行かないと。六時間目まで授業もあるし。

 

それに長い間眠ったら……起きた時にきっと、誰かを殺す。

ママかもしれない。パパかもしれない。

 

その時の私に、まともな感情なんてきっとない。

”ただのヴァンパイア”に、分別なんてない。

食べて、満腹になるまで止まらない。

 

そう考えると夜に眠ることすら、ちょっと怖い。

次起きた時に、ただのヴァンパイアになっているかもしれなくて。

 

 

どうすればいいのかわからない。

考えたいけど寒いし頭が痛い。まずこれをなんとかしないと。

 

なんとかするには殺すしかない。

でも殺したくない。

でもどうしたらいいかわからない。

 

グルグル回って、行き止まりに行きつく。

 

 

今すぐ、ちょっとだけなんとかする方法は知ってる。

やったこともある。体が教えてくれた。

 

 

おなかがすいて力が出ない。

私はヴァンパイアだし、やっぱり血が無いとダメなんだ。

でも絶対噛んじゃダメ。

噛まなきゃ大丈夫。大丈夫だから。

 

 

梓は幽鬼のように立ち上がって、アウターを脱いだ一美に近寄った。ソファに座ったのを見計らって、その隣に座った。

一美は疲れた目で、何か言いたげな娘を見た。

 

「ねえ、ママ……いい?」

 

梓の口には微笑が浮かんでいて、色の無い舌が牙を舐めていた。

 

 

一美はふうっと息をついて、首元の襟をずらした。

 

 

目の前の母の首が、キラキラ光って見えた。

噛んで、引き千切って、頸動脈をむき出しにすれば、あったかい血が噴き出て、すごくおいしい。

 

ダメ。噛んじゃダメ。

 

 

梓はソファの上で身を乗り出して、一美の首筋に顔を付けた。

 

暖かい。コーンポタージュの香りがする。

 

「ありがと、ママ……」

 

紫がかった舌が出て、一美の頸動脈の上を撫でる。

梓の舌が何度も、何度も、一美の頸動脈の上を舐めた。

 

子犬が皿の水を飲むように。

 

梓は身を乗り出して、一美に覆いかぶさるように両肩を掴んだ。

ヴァンパイアの握力で、一美の体がソファに沈む。

 

冷たい舌が、何度も一美の首筋を舐める。

 

 

おいしい。気持ちが落ち着いてくる。

寒さが引いて、本当にコーンポタージュを飲んだ後みたい。

 

「ママ……おいしい……」

 

ぼんやりした目で呟いて、牙を立てて首筋をなぞった。

かさぶたができて塞がっていた切り傷の横に、真新しい赤い傷が二筋できた。皮膚の表面を切っただけの浅い傷。

まるで紅茶のパックを開けた時みたいに、コーンポタージュの香りがふわりと立ち上る。

梓の両手に力がこもる。

もう少し押し込めばもっとおいしくなる。

 

ダメ。ママを傷つけちゃう。

これ以上は絶対ダメ。

 

 

梓は一美の首筋に頬をこすりつけて、猫みたいに満足げに目を細めた。

真新しい傷をまた舐めて、舌先にほんのわずかに伝わる温かみを逃さないよう、集中する。

 

 

 

 

一美は娘に悟られないよう、両手を太ももの裏に敷いて、ぎゅっと握っていた。

冷や汗が止まらない。

 

 

根源的な恐怖。

 

 

娘がわずかでも力加減を間違えれば、頸動脈が破損し大量出血する。その部位の止血は出来ない。

救急車の到着までに15分はかかる。15分あれば生命維持に危険なラインまで到達するし、何より溢れる血を見て娘に自制が効くとは思えない。

そうなれば自分は、なすすべもなく死ぬだろう。

 

それにたとえ表皮の傷であっても、娘の体内にあるかもしれない未知の細菌――ヴァンパイアだけが持つ何か――が、自分の体内に入った場合、どうなるかは分からない。

 

危険すぎる”遊び”。

娘が新しく覚えた遊び。

 

母として叱るべきだと思いつつも、それができなかった。

慢性貧血で衰弱した心と体が、自分の人生で最も大切な娘への貢献で慰めを得ている。

 

苦しむ娘に、母として今できること。

自分の頸動脈を差し出し、それを舐めさせること。

その間、娘は飢えの苦しみから逃れられる。

 

これは慰め。

娘と、自分への。

 

人間としての娯楽で満足感を得づらい娘が見つけた、新たな趣味。

 

 

他の誰かに迷惑をかけるぐらいなら、自分がする。

 

梓を信じている。

この子は優しい子。

決して人を傷つけようとは思わない子。

 

 

梓は昔からよく転ぶ子だった。

転んで泣いて駆け寄ってきて、自分は絆創膏と消毒薬をもってきていた。

痛いことをされるとわかっていても膝を差し出す娘に、「えらいね梓ちゃん、えらい子だね」と褒めてあげていた。

 

今、自分の命を奪うかもしれない娘の姿が、その時の幻影と重なった。

 

「えらいね、あずさ。えらい子ね」

 

一美は片手を太ももの下から出して、梓の頭を撫でた。

梓が一瞬、赤い目で自分を見て、嬉しそうに笑う。

梓が笑ったのか、ヴァンパイアが笑ったのかは分からない。

 

 

”がまん”を褒められて嬉しくなって、梓は赤い傷を何度も舐める。

涎の無い舌が、炎症反応で熱される傷を冷やすように動いて、一美もなんだか痛みが和らいでいた。

 

嬉しくなって、楽しくなっても、自制しなきゃいけない。

私は人間だから。犯罪だし、法律は守らないと。

 

「ママだいすき……おいしい……」

 

いつもだとちょっと恥ずかしいセリフも、今なら言えてしまう。

 

おいしくて大好きなママ。

コーンポタージュの香りがするママ。

 

家の中だから大丈夫。ママしか見てないから大丈夫。

 

絶対傷つけないから大丈夫。私はちゃんとできる。

前も、その前も出来たから、今回も大丈夫。

 

梓はそう念じて、楽しみなご飯の香りを全身に行き渡らせていた。

 

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