はらぺこヴァンパイア 作:棗の
寝間着姿で部屋のベッドで丸くなり、スマホを見つめる。
ブラの肩紐がずれても、おなかが見えていても、直す気もなかった。
スマホの電子画面の向こうには、おいしそうな人間がたくさんいる。
スワイプする毎にごちそうが流れていくが、どれも自分の口には入らない。
何の味もしないドロドロの黒い血だけが、喉の奥に流れていく。
真っ白い足先が苛立ちを隠しきれず、ぱたぱたと動いている。
あれから誰も梓の部屋には来ていない。
LINEには
由佳とLINEをしたって意味なんてない。
LINEはごはんじゃない。食べ物は手に入らない。
おなかすいた。
イライラする。
「……梓、ちょっといい?」
梓の指先が止まって、じろりと睨むように自室の出口を見た。
父・
「……パパ。どうしたの?」
梓の目は、父を食料としては認識していなかった。
いつもよりは不機嫌そうな声だったが、それでも会話が通じる雰囲気はあった。
「ごはんできたよ。おいで」
浩平はにっこり笑って言った。
「…………ごはん? ほんとに?」
梓がむくりと起き上がった。
「私のごはん、だよね?」
「もちろん。梓のごはんがあるよ」
梓はスマホを投げ捨て、バネのように起き上がって、浩平の前に立った。
牙の目立つ口の周りから、黒い血が流れ落ちていく。
笑みのない顔で、じいっと見つめる。
「……コーンポタージュ?」
浩平が僅かに唇を噛んで、笑顔を取り繕った。
「違うよ。だけど、梓のごはんがちゃんとある」
浩平はそう言って、足早にリビングへ歩いて行った。
梓は寝間着の袖で口元を拭って、その後に続く。
リビングには浩平しかいなかった。
テーブルの上には、ほうれん草のおひたしとふりかけご飯と唐揚げと焼いた魚。
不味そうで、退屈な、人間たちの食べ物。
どれも食欲をそそらないし、牙がうずく感覚もない。
「……はぁ」
騙された。
私が食べられるご飯はない。
テレビの中には、人間たちがヘラヘラ笑って踊るバラエティ番組が流れている。
ソファに座って、何の感情もなく眺めた。
ことり、と手元で音がした。
大皿の上に、真っ赤な血液があった。それはチャック付きのポリ袋の中に入っていた。
光り輝く紅色が目から入って、脳の隅にまで一瞬で焼き付く。
「パパこれって!? どうして!?」
慌てて立ち上がると、皿を置いた浩平がにこりと笑った。
梓から目をそらさず、柔らかい口調で言う。
「ママとパパで用意したんだ。盗んだものじゃないよ」
「盗んだものじゃないって、じゃあどうやって……」
梓の手は意志に反して、その皿を持ち上げていた。
密閉された容器から、僅かな甘い香りがする。
どこから? どうやって?
ママは仕事に行けないはず。パパも平日は仕事で、休日は病院が休みだから行けない。
可能性がいくつも出てくる。どれも考えたくない物。
でもそんなことよりも、体が先に動いていた。
頬にあてると温かい。匂いはしないけれど、きっとおいしいはず。
どうでもいい。とにかくたべもの。たべものがある。
おいしそうな血がある!
梓はぴょんと立ち上がって、浩平の背中に抱きついた。
頬をこすりつけて、真黒く染まった牙の目立つ口で笑う。
「ねえパパはやく! いくつ食べていいの?」
その様子はとても高校一年生には見えず、小学生ぐらいの梓のようだった。
「……三つ、あるよ。もう少し待てる?」
「うん! あずさ待てるよ!」
梓はくるくる回って、椅子に座って体を傾け、皿の上の血液袋を舐めた。
やっと食べられる。やっと本当の食べ物が来た。
おなかすいた。
二つ目の入った皿が置かれて、梓は無邪気に歓声を上げる。
なんて贅沢なんだろう。ずっとずっと我慢したからご褒美なんだ。
「ご褒美だよねパパ! あずさいっぱい頑張ったよ! ねえ!」
梓はいつもよりずっと大きな声で浩平に言った。
浩平は色々な感情を覆い隠して「そうだね。頑張ったね梓」と返した。
梓は下手な鼻歌をうたって、二つ目の血液の袋も持ち上げて揺らしてみた。
きれいな赤色の液体がゆらゆらと揺れている。
まだがまん。お行儀が悪いから。
みんなで「いただきます」するまでがまん。
そっと寝室のドアが開いて、青い顔の
一美は浩平と顔を見合わせて、そっと梓から遠い場所の席についた。
飢えたヴァンパイアの目は、もう一美のことなど見てはいなかった。
三つ目の血液の袋が乗って、銀色のタンブラーが梓の横に置かれた。
三人の前にそれぞれの夕食が並べられた。
「「「いただきます」」」
梓は黒いタオル越しに血液の袋を手に取って、プラスチックの繊維に噛みついた。
牙の隙間から温かい血が噴き出て、喉へと落ちていく。
体が熱くなって、全身に纏わりついていた不快感が吹き飛んだ。
おいしい!
あったかい!
梓は赤い目を嬉しそうに細めて、何度も血液の入った袋に噛みついて飲み込んでいく。
おいしくて、あたたかくて、楽しくなってくる。
もう周りなんて見るつもりもない。三つもあるんだから違う食べ方をしたい。
一美と浩平はちらりと娘を見て、二人で目を逸らした。
ちょうどCMに入ったテレビを一生懸命に見つめていた。
プラスチックの繊維を裂く音が何度か聞こえた後、ふうっと梓が息を吐く音がした。
一美は笑顔を顔に貼り付けて、娘の方を向いた。
「ありがとうママ、パパ……やっと食べられたよ」
娘の口の周りが赤い。梓が幼稚園の頃みたいだった。
それに本人も気づいたようで、手の甲で拭いて、その手を舐めた。
僅かな血に梓の目がおいしそうに細められた。
「良かったわ。本当によく頑張ったわね。手に入るのが遅れてごめんね」
「ううん。ママが謝ることじゃない。えっと……」
梓は改めて、存在するはずの無い血液の出所に向き合おうとした。
しかし、手が二つ目の血液の袋を既に取っていた。
いつからこんなに食いしんぼになったんだろう。
「まずは食べてから、ね」
一美に言われ、梓はにこりと笑った。
今度はタオルでちゃんと隠し、血液の袋へ噛みつく。
一度噛んで牙で穴をあけて、漏れ出た血を舐め取っていく。
あまりにも噛みつきたくて、引き裂いてしまいたくて、我慢できなくてもう一回噛んでしまった。
別の場所から溢れた血をまとめて食べるために口を大きく開けて食いつく。
温かい血が全身をめぐって、体が元気になっていく。
もう頭痛も寒さもない。首を絞められる感覚もない。
ずっと我慢していた不快感が取り払われて、このまま外に飛び出したいぐらい。
二つ目の血液の袋もあっという間に無くなって、梓はタオルの中を見た。
深紅に染まったタオルとプラスチックの残骸があった。
残骸を包んで、血まみれの面を見せないように丸めて置いた。
ふうっと一息つくと、両親二人がこちらを見ていた。
「……ありがとう。パパ、ママ。おいしかった」
気のせいか、いつもみたいに落ち着いて話せた気がした。
「良かった。もう一つあるよ。ごちそうさまはまだ先だ」
そう言った浩平の皿には、まだたくさんの料理があった。
「うん。もう一つはゆっくり食べるね」
梓は三つ目の血液の袋を持ち上げて、タオルで包んだまま一度噛んだ。噴き出た血を舐めて、折りたたむように持って、そのままタンブラーに落とした。
タンブラーの中に赤い液体が溜まっていく。
その赤い液面を見るだけでなんだか楽しくて、梓は笑っていた。
血の溜まったタンブラーを持って、一口飲む。
温かい白湯だった。
今はそういえば夏だけど、夏にクーラーの効いた部屋で飲む白湯はおいしいし、きっとそれと同じ。
梓はふうっと息を吐く。
もうおなかがすいている感じはない。
いつものご飯。一か月ぶりぐらいの、穏やかな夕食。
気持ちに余裕が出てきたせいか、周りを見る余裕も出てきた。
おなかがすいて騒がしいヴァンパイアが、今は出てこない。
ママはやっぱり調子が悪そう。
二週間に一回の採血でも、こんなに体調が悪くなるんだ。
二週間に一回で、スープのカップ一杯分。
私の体に必要な血は、どれだけ多いんだろう? ママ一人だけじゃ絶対に足りない。
パパは元気そう。
夏なのに、長袖を着てる。クーラーが効きすぎてるのかな?
ちょっと顔が青い気がする。
もしかして、怖がらせちゃったのかな。
パパは、私が血を飲むときは見ないようにしてる。
やっぱり見ていて気持ちのいいものじゃないよね。
分かってるけど、それでも何も言わないでいてくれる。
パパは優しい。
大好きって言いたいけど、ちょっと恥ずかしいかも。
それにさっき……パパに抱きついちゃったから、もっと恥ずかしい。
私に抱きつかれて、怖くなかったのかな。
おなかがすいてると我慢が効かなくなって、よくわからないことをしちゃう。
だけど、ごめんなさいって言うのもちょっと恥ずかしい。
梓は牙を隠して、愛する両親に笑って見せた。
それだけで食卓の空気が和らいで、気温の分からないヴァンパイアの体でも、暖かさを感じられた気がした。
「……良かった。いつもの梓ね」
一美が珍しく思ったことをそのまま口にしていた。
浩平は驚いて妻を見た。
一美も口をつぐんだが、梓は「そうだよ」と悪意もなく返した。
「おなかがすいてたから、ちょっとイライラしちゃってた……ごめんね、ママ」
「え、ええ。誰でもそうなるから、仕方ないわ。今日のは美味しかった?」
「うん。なんだか白湯みたいな感じ。あったかくておいしい。ママのじゃないよね?」
梓はようやく現実と向き合う準備ができていた。
本能のままに動くヴァンパイアではなく、人間の三浦梓として。
「私のじゃないわ。……病院から、廃棄する
浩平がそっと目を逸らした。
一美はどこも見ていないような目をしていた。
「そんなことできるの?」
「血液にも患者の人に使える有効期限があって、それを超えたものは廃棄することになってるの。それを譲ってもらっただけ。ほら、捨てられる食品で料理するコーナーあったじゃない」
まるで台本を読むように一美は言った。
梓の脳裏に、毎週日曜日に見ていた番組が浮かぶ。
梓の好きなコーナー。料理が得意なママと一緒に、どんな料理ができるのか予想するのが楽しかった。
「賞味期限があるんだ。おいしく食べられてよかった」
梓が笑って言う。
ヴァンパイアだからいいよね、と思う。
誰も食べないなら、私が食べる。
盗んだものじゃないし、きっと大丈夫。
捨てられるものを食べただけ。誰も傷ついてない。
誰も悲しんでない。だから大丈夫。
そんな方法があるならもっと早く欲しかった、と思い、心の中でそんな自分を叱った。
あんまりよく知らないけど、あのコーナーだって色んな課題があって、テレビのコーナーじゃないと出来ないって聞いたことがある。
コンビニのバイトの人だって、今はお弁当を持ち帰ったりできないらしいし。
きっとママは何かしたんだ。
病院には入れないはずなのに、どうやってか手に入れたんだ。
だけど、聞かない。
ママが頑張ってくれたことだから。
こんな考えをする私は良くない人なんだと思う。
殺人鬼で、強盗犯で、次は何が増えるんだろう。
ヴァンパイアが心の奥に引っ込んで、
なにも償っていない。
なにも変わってない。
だけど……今はもう少しだけ待っていてほしかった。
少しだけ、この血を飲んだ後の気持ちよさを感じたかった。
梓が血を飲んで、浩平と一美が人間の食事を続ける。
鮮血の入ったタンブラーの中身が減っていく中で、会話に花が咲く。
浩平の見た映画の話、梓が見たVlogの話。
両親が食べ終わるタイミングを見計らって、梓は最後に残ったタンブラーの中身を飲み干した。
白湯みたいな舌ざわり。
もっと飲みたくなる。
だけど今日はおしまい。
きっとまたあるから。
「「「ごちそうさまでした」」」