はらぺこヴァンパイア 作:棗の
食後、
洗い物を手伝えたらいいのだけど、梓がしても余計に汚すだけだった。
梓はできることが無くなって迷っていると、一美の視線を感じた。なんとなくソファの横に座った。
ほのかにコーンポタージュの香りがする。
だけど今は首の匂いをかいだりしない。私は人間だから。そんなことしない。
「……ママ、本当にありがとう。ごはん食べられたよ」
「どういたしまして。頑張って用意した甲斐があったわ。それに間に合ってよかった」
間に合って。何に。考えたくない。
あと一週間も持たなかったと思う。
ママは全部知ってる。
知っていて、頑張ってくれてる。こんなに体調が悪いのに。
人間の
今日の昼、ママに言ったこと。
――うるさい。
――香っちゃうの! おいしそうな人間の香りが!!
そんなこと、思ってもないはずなのに。
ママにうるさいなんて、思ったことも、言ったことも無かったのに。
ほぼヴァンパイアになった三浦梓は、そんなトゲトゲの言葉を発した。
確かにそれは現実にあったことだし、三浦梓が間違いなくやったこと。
「……ママ。ほんとに、ごめんなさい」
梓は深々と頭を下げた。
「今日の昼。すごく、悪い……失礼な……えっと、ひどいこと言っちゃった。ほんとに、ごめんなさい」
梓の人生の中で、親に暴言を吐いたことなんて一度も無かった。
そんなことしたくもなかったのに、空腹のヴァンパイアは、実の母を食べ物としか見ていなかった。
逃走の日々と何も変わらないこと。道行く人が、食べ物にしか見えなくなる。
どんな名前なのかとか、家族がいるのかとか、そういうことを全部見えなくさせられてしまう。
「…………気にしなくていいのよ。梓も、苦しかったんでしょ?」
一美の心は深い悲しみに覆われていたが、それを目の前の娘にぶつけるほど幼稚ではなかった。
「……今回も、助けてもらっちゃった」
自分でなんとかしようとしたけど、できなかった。
ブラックドッグは役に立たない情報を出しただけ。
献血車からの窃盗なんて、絶対やっちゃいけないこと。
相変わらず、食べ物はない。
しばらく二人でテレビを見る時間が続いて、台所からの水の音が止んだ。
浩平が寝室の扉を閉めたと同時、一美が待っていたように話し始めた。
「……学校はどう? 楽しい?」
「うん。楽しいよ。梅雨って意外と過ごしやすいのかも」
雨は触らなければ大丈夫。水族館のサメの水槽みたいなもの。
太陽は私を嫌ってる。満員の電車や、たまにいる怖い人たちみたい。
「良かった。梅雨だと、髪とか乱れちゃうんじゃない?」
「そうだけど、太陽の光よりはずっといいよ。なんかくせ毛も治ったし」
梓は人間だった頃はちょっとくせ毛ぎみだったのに、ヴァンパイアになってきれいなストレートヘアになっていた。
ヴァンパイアって何百年も前からいるのに、美しさの基準がちょっと今風な気がする。
「ふふ。縮毛矯正ももう要らなさそうね」
「ほんとにね。髪も洗わなくても全然べたべたしないし……すごく不思議」
ヴァンパイアは汗をかかないから、メイクもすぐには落ちないし、髪のにおいやべたつきが気になることもない。
女の子にとってはちょっとだけいいことなのかも。なってよかったなんて絶対に思わないけれど。
「学校の子とは仲良く出来てる?」
「うん。
中村とLINEをすることへの抵抗感は少しあった。
恋人がいるのに男の人と話すのって浮気にあたるのかな? と悩んだけれど、由佳は女の子だし、レズビアンだから男の人は恋愛対象じゃないはず。
それなら早紀ちゃんや千夏ちゃんはどうなのだろうと悩んだけれど、答えは出なかった。
「クラスに苦手な人はいない?」
「いないよー。みんな優しい。私、体育さぼってばかりだし、ずる休みしてることもあるのに……体が弱いししょうがないよって言ってくれてる」
「ふふ。梓が優しい人だからよ。人にやさしくして、良いことをしていたら良い人が周りに集まってくる。そういうものなのよ」
それは一美が幼い梓にたびたび伝えていたこと。一美が信じる世界観。
娘には優しい子に育ってほしい。善意を人に伝える人になってほしい。
その気持ちを何十年も持ち続けて、娘の魂にもそれは刻まれている。
娘の魂に刻まれた優しさが、ヴァンパイアとなった今でも生き続け、娘を人間の世界に留めている。
「そう、なのかな……わかんない。ママの方が優しいよ。私のために……」
「ママだからよ。梓のママだから。でしょ?」
一美は疲れた顔でも笑って見せた。梓もつられて笑った。
僅かに沈黙ができたのを見計らって、梓は目を伏せて、そっと言葉を紡ぐ。
「あ、あのねママ。さっきの血なんだけど――」
「それで、
しかし、その言葉は一美に遮られた。
そこは、あなたの踏み込んでいい場所ではない、と。
梓は数秒、らしくないことをした母に質問をしようとして、口をつぐんだ。
「えっと」と空を仰いで、答える。
「由佳とは電話したり、学校でも一緒にいるよ。喧嘩もしてない」
それはわかっている。梓がたびたびLINEで通話している声は聞こえているし、あの少女の性格を考えれば予想がつくこと。
問題はそこではない。
「デートとかはしたの?」
「ううん。してない。私が食べ物とか食べられないし、梅雨だし……ちょっとね」
梓は申し訳なさそうに言った。
「それは仕方のないことよ。星野さんは梓がヴァンパイアって知ってるし、気を遣ってるのかもしれないわ」
「……うん。そういうところが嬉しいかも。ちょっと距離が近いけど」
梓が小声で、しかし確かに本音を呟いたのを一美は聞き逃さなかった。
この優しい子ですらも表した小さな不満。
「距離が近い……って、どういうこと?」
「うーん……ずっと手を繋いでるし、腕を絡めてきたり、誰も見てない所で……その、ほっぺたに」
梓が恥ずかしそうにもじもじして顔を逸らす。
一美の顔から笑顔が消える。
「……梓は、どう思ってるの?」
「えっ?」
いけない。言葉に感情がこもりすぎていた。
笑顔を顔に貼り付けなおして、一美は言う。
「梓は、星野さんの……愛情表現はどう思ってる? 嬉しい?」
梓は赤い目を細めて、天井を仰ぐ。数秒経って、呟いた。
「……わかんない。普通の人間じゃないからかな。その、き、キスされても、何も感じないの。由佳が暖かいことはわかるんだけど」
複雑な感情の混ざった声。
梓の自己認識と、願望と、悲しみの混ざった声。
その裏にはどれほどの苦悩と、苦痛があるのだろう。
「……梓は人とお付き合いした経験があんまりないし、自然なことよ。梓のせいじゃない。ね?」
一美は思わず娘の手を握っていた。冷たくて、シリコンゴムのような質感の手。
「そうなのかな。由佳が……すごくまっすぐ、私を好きでいてくれてるの。嬉しいけど、私、何も出来てない気がして」
「梓は星野さんの気持ちにこたえられてないって思う?」
梓がこくりと頷く。
「由佳はいっぱい好き、私が一番って言ってくれてるけど……私はわかんなくて。私がレズビアンじゃないからじゃなくて、たぶん、ヴァンパイアだからだと思う」
無意識に首筋が強調された写真を集めてるように。
私がどれだけ願っても、ヴァンパイアが邪魔をしてる。
わかってるし、認めたくないけど、食事の度にどうしようもなくわかってしまうこと。
「……梓、星野さんはきっと、そんな梓が好きなのよ。どうしようもなく好きで、星野さんもどうすればいいかわからないことがたくさんある。
ちょっと不器用な子なのかもしれないわ」
不器用な子、なんて、どれだけオブラートに包んだ言い方だろう。あの一瞬の
梓は自分のものだと見せつけるように頬ずりして、誰よりも娘の理解者を装う子。
娘の一番の理解者は自分、というつもりは毛頭ない。
ただ、娘を不幸にする人を看過する気はない。
「……そうなのかな。由佳は私よりいっぱい友達がいるし。どうして私と付き合おうとしたのかも、よくわかんないし」
それはきっと娘の本心。
娘は分かってない。自分がどれほどに優れた美しさを持っているのか。
それはヴァンパイアから押し付けられたものだから。
「梓だからよ。梓のことを、誰よりも好きだと思ったの。それは受け入れるべきよ」
「私、ヴァンパイアだよ? 化け物だよ? だけど、なんで」
梓の中でずっと渦巻く疑問。
人殺しで、強盗犯で、親にもたくさん迷惑をかけてる自分が、どうして。
一美は梓の頬をそっと触って、笑って言う。
「それは重要な事じゃないの。星野さんが女の子が好きってことと同じ。個性の一つだって星野さんは思ったんじゃないかしら」
梓は首を傾げた。
「目が赤くて牙があることが個性なの?」
「そう。雪みたいな肌と、ルビーみたいな瞳。それが梓の個性だって、思ったんじゃないかしら」
梓はちょっと恥ずかしそうに目を逸らした。牙を指先で撫でながら笑う。
「……由佳ってちょっと変わってる。千夏ちゃんのほうが絶対可愛いと思うのに」
だけど悪い気はしなかった。
由佳はちょっと距離が近いけれど、話していて楽しいし、ころころ表情が変わって見ていて飽きない。
「由佳って、私がヴァンパイアだから好きになったのかな……」
「そうなの?」
梓はもじもじと指を合わせて言う。
「その……目とか、牙とか、きれいだって言ってて。気持ち悪いし、怖いはずなのに。
私が疲れないし、寝なくていいって言っても、すごいって褒めてくれて。由佳ってそういうの好きなのかな」
他の友達との違い。
家族以外で初めて、ヴァンパイアのことを話せる人。それが由佳だった。
血を吸ってもいいって言われたし。
いつかきっと。
「アルビノが嘘だってわかっても怒らなかったし、優しいって思った」
一美は静かに待った。遠慮がちな娘から洩れる本心を。
「……ちょっと、嬉しかった。
自分に課せられた、終わらない呪い。
その一部だけでも、由佳は肯定してくれた。
血を吸いたいって気持ちを分かってくれるかもしれない。
太陽が苦手な気持ちも、雨が怖い気持ちも。
心の奥底にずっと渦巻く、人殺しの罪への気持ちも。
人間の由佳と、ヴァンパイアの梓。
その現実を越えて、由佳と梓になれるかもしれないと少しだけ思った。
「…………そう。わかったわ」
結論は様子見。不審な部分はたくさんあるが、あの少女は娘に良い影響を与えている。ヴァンパイアの部分に惚れた少女。
どこまで知っているのかは分からない。ただ恐らくすべては知らない。
例えば娘がどうやって食べ物を得ているのか。それを教える気はない。
全てを知ったうえでも娘の傍にいてくれる人なら、それこそ娘にとって理想の友人か、それ以上の存在だろう。
それに。もし全てを知って……その血すらも娘に渡してくれるとすれば。望外の希望となる。
一美は目を瞑って、自分を叱った。
なんて言い方だ。打算まみれで、母親らしくもない。娘の恋人を祝福する一言でもかけるべきだ。
たとえその少女が、独占欲が強く常識外れであっても。
その事実がどうしようもなく二の足を踏ませている。
「星野さんも
「ううん。なんか話すと嫌そう。由佳は優しくて明るいんだけど、なんだか……話したくない話題がたくさんあるみたい」
梓はこの2か月の間で由佳と何度も話して、何となく察していた。
由佳には触れられたくない部分がたくさんあって、それに梓が踏み込もうとすると、そっと話題を変える。
あなたが踏んでいいのはそこじゃないって。
梓自身も決して人と話すのが得意なわけじゃないから、そういうところに無意識に踏み込んでしまう。
だからあんまり話題を振るのも良くないかもと思ってきていた。
由佳は色んなことを話してくれるから、頷くだけでも会話は進む。
それは甘えなのかもしれないし、良くないことなのかもしれない。
だけど、人間だった時の三浦梓もそんな感じだった。
友達と一緒に買い物に行くときも、誘うより誘われる側だった。
ちょっと押しが強くても、まあいいかなって思って損をすることもあった。
言うより言わない方で後悔したり、嫌な思いをすることが多かった。
「誰でもそういうのはあるわよ。だけど……星野さんはちょっと多いのかもね」
「うん。由佳……たぶんだけど、あんまりお家の中の環境がよくないのかも。私がママとかパパの話をすると、話を変えるから」
親がすごく忙しいのかも。あんまり家に帰ってこないとか、長期出張とかしているのかな。
一美は静かに娘の言葉を待った。
それこそが聞きたかったこと。星野由佳という少女の性格を知るための土壌の一つ。
「由佳、ちょっと寂しいのかも。私がLINEの通話切ろうとすると泣いちゃったりするし。夜に、もしかして誰もいないのかな」
夜に一人で眠ることの寂しさは、梓もわかっているつもりだった。
眠りたくない夜にYouTubeで可愛い猫の動画を見て、その可愛さを誰にも共有できない寂しさもわかるつもりだった。
「……そうなの?」
一美はわざとらしく驚いた風を装っていた。実際は予想が確信に変わっただけだった。
「うん。で、でもわかんない。他に悲しいことがあったのかも。もしかしたら彼氏に振られた後かもしれないし……あ、でもレズビアンだから彼女になるのかな……早紀ちゃんと付き合ってたのかな……」
梓はちくりと胸を刺した罪悪感に従った。
由佳のことを憶測で悪く言うなんて良くない。
私は何も知らないし、由佳は恋人なんだから。