はらぺこヴァンパイア 作:棗の
マンションの七階のワンルーム。
リビングのテレビではヴァンパイアと人間の抗争を描いたドラマが流れていた。
Netflixで見つけたシリーズ。
由佳の好みではないが、
ドラマを流し見しながら、由佳は座椅子に座ってタブレットを見ていた。
服の通販サイト。既にたくさんの服が買い物かごに入っていて、由佳の数か月分の生活費でも買えない額になっていた。
だけどそれでよかった。その中から梓がデートに着てきた服を元に、合う色を選ぶつもりだったから。
由佳の日常は梓のためだけに塗り替えられた。
この部屋で繰り返される昨日・今日・明日という
恋人がいて、付き合えているってこんなに幸せなんて。
昨日は雨。今日は日曜日。梓とデートする計画はまたも頓挫した。
今日、梓は家族と過ごしているらしい。
家族と過ごす。何をしているんだろう。
由佳にとって家族と過ごすという言葉がまともに使えたのは、小学校の六年生ぐらいまでだった。
パパがいて、ママがいて、借りてきたDVDを見て、出前のピザを食べて。
見終わったらわたしが疲れて寝ちゃって、パパと一緒にお布団で昼寝して。
「…………梓の方がいい」
それは呪文のような物。
絶対にもう手に入らない物を求めてはいけないのは当たり前のこと。
だから全部全部、手に入るかもしれない物へと転嫁する。
梓と一緒にここで映画を見て、そのあとベッドに行って、首を噛んでもらって、えっちなコトするんだ。
中学だってもう一度やり直したい。
中学1年の時に一緒のクラスになって、友達になって、旅行で告白して、断られなくて。
そこから恋人同士になって。高校も同じで、誰の邪魔も入らずに今日まで。
そうすれば今の梓は私にメロメロで、きっと二人で暮らしてる。
”あの人”の手なんて届かない場所で。二人でバイトして、家賃を払って、頑張ってる。
そうすればきっとこんなに歪まずに済んだ。
梓はすごく優しい人だから、そんな梓に愛されて、わたしはもっと素直でいい人でいられた。
梓の魅力にみんなが気付いた後に、わたしはスタートを強いられた。
だからライバルがたくさんいる。
梓がこの日曜日に何をしているのか分からない。
もしかすると――
足元から虫のように不安が這い上がる。靴下を履いた足先から腿まで、鳥肌が立つような感覚がした。
由佳はスマホを取ってLINEを開いた。
梓のトークルームは『音声通話が終了しました 1:32:20』で終わっている。
昨日の夜22時。梓は10時に眠るから、それまでって言われちゃったから。親と暮らしてて迷惑かけたくないからって。
本当に梓寝てるの? 前9時までデートできたのに10時に寝るの? 寝る前に何してるの?
歯を磨いてるならその間に喋れるよね。イヤホンあるし梓の家ってきっと広いから大丈夫だよね?
寝るまで通話しようよ。わたしも一緒に寝たいから。
全部全部言いたいことなのに言えない。恋人なのに。恋人だからこそ言えない。
梓に嫌われたら死んじゃう。
由佳は座椅子の上で丸めた膝をぎゅっと縮めて、タブレットを置いて息をつく。
Netflixではちょうどヴァンパイアの女の人が、人間の男とキスをしていた。涙を流しながらのキス。
たぶん何か感動的なシーンなんだろうけれど、前後がよくわからなくて、ただ自分のみじめさが上がっただけだった。
わたしは梓とキスできてない。ほっぺたにしただけ。梓からしようと思われたこともない。
恋人同士なのに。
映画を止めて、ちょっと前に流行った邦画の恋愛ものを再生した。
女優の人が可愛くて、梓にちょっと似てる気がして見始めた。引っ込み思案で恥ずかしがり屋な所も。
由佳は暴れる気持ちが静まるまで、タブレットで真面目な事を調べる時間にした。
フリマサイトの出品画面を開くと、中学の時の制服が売れていた。フリマサイトのポイントが四桁になっている。
名前も刺繍されていないし、高く売れるらしいから売った。
このお金をペイペイに振り込めば、今欲しい物も買える。
小学校の時から持っていたディズニーのクッキーの空き缶も、昔のディズニーランドのチケットも売りに出している。コメントがついていて、値下げ希望だったから無視した。
別のタブを開く。広告を見たりアプリを入れたらポイントをもらえるポイ活サイト。ようやく100円分ぐらいは溜まった。
新しい広告が来ているみたいで、それを押す。大音量で新しいスマホゲームの動画が流れ出す。
ファンタジー世界で派手な格好をした女の子たちが戦うゲームらしい。
似たようなのが多くて由佳には違いがよくわからなかった。
由佳は騒音を流すタブレットを下向きに置いて、ドラマを見る作業に戻る。
広告が終わって2円分溜まった。別の広告を押して、またドラマを見る。
タブレットの時計を見た。20時20分。
楽しみな時間まであと10分。梓との通話まであと10分。
広告が一通り終わって、由佳は別のタブを開いた。
アルバイトの検索ができるサイト。赤いネズミのアイコンがちょっとかわいい。
必要書類に 『未成年の場合親の承諾書』と書いていて、その時点で無理になる。
できそうなバイトには『イベントスタッフ』とか『派遣』とか書いていて、その意味を調べていたところだった。
現金でもらえるし、親の承諾がいらない。深夜だし給料も高い。
お金があれば梓とおそろいの服をたくさん買えるし、梓に買ってあげられる。
お金で梓を釣るって行為はしたくないけど、お金があればできるデートプランだってたくさんある。
「……派遣ってどんなことするんだろう」
高校生で派遣は危ないって書いてるブログもあった。言われた内容と仕事が違ったり、ニュースでたまに聞く闇バイトのこともあるんだって。
怖い男が出てきたりするのかな。男が見る下品な動画の勧誘だったりするのかな。
だけど現金が手に入るのは大きいし、わたしにできる仕事なんて限られてる。
現金なら隠せるし、使い道もいっぱいある。
LINEの通知音がベッドの上のスマホから鳴った。
由佳はタブレットを即座に置いて、スマホを手に取る。
『通話できるよ』
由佳は脊髄反射でOKのスタンプを送った。
ベッドにごろんと寝転がって、通話ボタンを押す。
早く繋がってほしい。早く早く早く!
一回、二回、三回、四回呼び出して、呼び出し音が途切れる。
「……もしもし?」
「もしもし! 由佳だよ! やっと話せたー!」
自分一人の時よりもずっとトーンの高い声。大好きな人用の声。
「あはは。楽しそうだね、由佳」
「そりゃそうだよー! 梓と話せるんだもん。昨日は雨で外に出られなかったし、梓も寂しくなかった?」
「え? うーん……そう、かな」
由佳がベッドから飛び起きる。ちょっと恥ずかしそうに言っている気がする声。
「そ、そうなの? 梓も寂しいって思ったりするよね」
「……う、うん。思うよ」
「わたしと同じ! わたしもずっと会いたかったよ! ねえ梓、今から会わない?
電話の向こうで梓の小さな声。何て言ったんだろう。
「……由佳、もう夜中だし、明日は学校だよ。危ないから」
ちょっと呆れたような声。梓は笑っているのか怒っているのかわからない。
やっぱり会いたい。会って喋った方が、きっと気持ちもわかるし伝わる。
「はぁーい。我慢する。明日になったら会えるし」
だから由佳も甘ったるい声を出して、従ったふりをした。実際に行ったらびっくりすると思うし、梓は夜だからきっと来てくれる。
寝間着姿で。
……梓の寝間着ってどんなのだろう。
「梓っていまどんな服着てるの?」
思ったことがそのまま口を突いてしまった。一瞬黙って答えが来る。
「どんなって……パジャマだけど」
ビデオ通話のボタンは押せなかった。
ノーメイクの顔なんて見せたくない。
「どんなの? 梓って大人っぽいし、服のセンスもいいし」
「普通のだよ。よく行くお店で売ってた上下で3000円ぐらいの」
「そうじゃなくて! 色とか、そういうの」
電話の向こうでまた数秒音声が止まる。
由佳はベッドの上で耳をスマホにぴったりつける。ざらざらのノイズ音の中に、かすかに車の音がする。窓を開けているのかな。
「青色で、薄くお花の模様がかいてるやつ。半袖で、下はショートパンツになってるやつ……かな」
妄想の中の梓がそれに合った服を身に着ける。絶対可愛い。
梓のショートパンツなんて今まで見たことない。梓は体つきがすごく大人っぽいから、絶対似合ってる。髪がちょっと乱れてて、眠たそうにベッドに座って赤い目でこっちを見る梓。見たら気絶しちゃいそう。
この部屋に梓を呼んだら見れる。梓の寝る時の姿。
「今すぐうちに来て」と言えなかった。
由佳の中の恐怖心がその口を縛り付けた。
ぱくぱくと口を動かして、「そ、そうなんだ。クーラーとか当たると寒くない?」と無難な言葉が出てくる。
「あー……私、
予想外の言葉が返ってくる。
由佳の知らないヴァンパイアの特徴。由佳は思わず飛び起きた。
「そうなの!? だから長袖でも平気なんだ……」
「そう。汗かいたりもしないし。熱中症とかにもならないみたい。太陽の光は怖いけどね」
電話の向こうで梓が笑った声がした。梓はヴァンパイアの話をすると、ちょっとだけ感情が動く。不思議な感覚。
梓はファンタジーとかあんまり興味なさそうなのに、こんなファンタジーなことで感情が動くんだ。梓は頭いいしきっと気付いてる。無意識じゃない。
やっぱり素の梓はこっちなんだ。梓はヴァンパイアだから、こっちのほうが自然なんだ。
「汗もかかないってすごいよね。この季節って背中に汗溜まったりとか、じめじめしてるから大変だけど……そういうのも気にしないんだ」
「そう。ヴァンパイアの数少ない良いところ」
少し呆れたような声。
「そうなの? 他にもいっぱいあると思うけど」
「……どうだろう。小さな便利って思うことはあるんだけど、出来ないことのほうがいっぱいあるから」
「例えば?」
「普通のご飯を食べられないこととかね」
正直、かなり意外だった。
太陽よりも、雨よりも、十字架よりも、それが一番梓にとってつらいってこと?
わたしだってご飯を食べられないことはある。お金を使いすぎたり、天気が悪すぎて買い物に行けなくて食材も買えなかったとき。
だけど、太陽の光や雨よりも辛いの? 長袖で太陽の光をよけるぐらい苦手なのに、それよりも?
梓の食べてるものは、間違いなく人間の血。
ヴァンパイアだし、きっとそう。
わたしの血をあげるって言ったら反応が変わった時もそうだし、首筋にも惹かれてる。
好奇心が首をもたげ、口を動かす。
戻れない先かもしれない。
地面の無い崖かもしれない。
だけど知りたい。
梓のことは全部全部知りたい。
そうすればもっと仲良くなれるから。
もう失敗しないから。
「梓って、その……血を、飲んでるんだよね」
だから一歩、踏み出した。
「……うん。そうだよ」
梓の声が固くなる。
それだけで由佳の心臓がすごい速さで動く。笑い飛ばしたくなる。「だよねーヴァンパイアだし当たり前だよね!」って言いたくなる。
ずっと気になってること。
梓が誰から、どうやって血液を得ているのか。
それを知ればきっともっと近づける。梓のことをいっぱい知って、もっと恋人になれる。
「血って、アマゾンとかで買ってるの?」
由佳はまず、とぼけてみせた。
調べなかったわけじゃない。日本の法律だと血液は売っちゃダメってことになってるらしい。梓も絶対に知ってる。
「違うよ。血は日本の法律だと売っちゃダメだから」
「そうなんだ。アマゾンって何でも売ってると思ったけど……売っちゃダメなものは流石にダメなんだね」
「売ってたらこんなに苦労してないよ」
梓のため息交じりの声。
やっぱり梓はヴァンパイアに関することになると、ちょっと感情がこもる。
「……そうなの?」
「簡単に手に入るものじゃないからね」
何かすごく深い感情がこもっているような声。
由佳の手に汗がにじむ。ベッドの横にかけたタオルで、首筋の汗を拭いた。
たぶん今、梓のすごく深い所を、わたしは歩いてる。
踏んじゃいけない所がたくさんある場所を。
ごくりと唾をのんだ音は相手に聞こえただろうか。
どこが梓の触れてはならないところなのかわからない。恋人なのに。
「…………献血とか、してるもんね。大変なんだ」
「そう。どこにでもあるんだけど、簡単には手に入らないものだから」
どこにでもある。
自分の体の中にも。梓の両親の体の中にも。中村にも。八坂にも。
誰を噛んでるんだろう?
心に湧いた当然の疑問。だけど、怖くて踏み込めない。
梓はなんとなく、触れられたくない気がする。
せっかく奇跡の確率で掴んだ梓の恋人の座を、手放しちゃうかもしれない。
だけど梓ともっと近づきたい。
梓は優しいし大丈夫。きっと怒らない。
「……梓って、その、人にかっ、噛みついたりするの? ヴァンパイアだし!」
最後の部分をできるだけ明るく強調した。
数秒、スマホの向こうが静かになる。
なんで通話なんだろう。会って話したい。
「……しないよ。噛まない。言ったでしょ」
人を噛まないヴァンパイア。そんな人いるんだ。
映画でも見たことない。いや、もしかしていたのかもしれないけど。
「えっ、じゃ、じゃあ、どうやって」
数秒、沈黙。
「………………飲んでるの。血を。タンブラーに入れて飲んでる」
梓が怒っている気がする。
まずい。嫌われちゃう。梓に嫌われちゃう!
「あ、そ、そ、そうなんだ! ごめんね! 嫌な事聞いちゃった! 嫌だったよね!」
体が震えている。
梓に嫌われちゃう。
ブロックされちゃう。
お願い嫌わないで。何でもするから。
血でもあげるから。お願い。
「…………嫌じゃない、けど……気持ち悪いとか、思わないの?」
数秒経って、返ってきた言葉。
がたがた震える体が止まる。
「え? なんで?」
自分の声はちょっと鼻声になっていた。だけど出た言葉は本音だった。
ヴァンパイアだし血を飲んでるのは普通なはず。
むしろタンブラーに入れてるって、なんかすごく上品で、現代っぽい。
「なんで、って…………血だよ? 他の人が流した血だよ?」
「そうだけどさ。梓にとっては食べ物なんでしょ? 梓はヴァンパイアなんだし」
梓が何を言っているのか、よくわかっていなかった。
血は食べ物じゃないのは知ってる。だけど梓はヴァンパイアだから、血を飲む。
歯ぐきから血がいっぱい出た時にすごく苦いけど、別に気持ち悪いとか思ったりはしない。
わたしがおかしいのかな。
「……本当に?」
「何が?」
「本当にそう思うの? 私に気を遣ってる?」
「だって。梓はヴァンパイアだし、血を飲むのは普通じゃない? 梓のこと大好きだから、悪く思ったりとかしないよ」
ヴァンパイアが実在するなんて思わなかったけど、映画の中やドラマのヴァンパイアを見ても、気持ち悪いなんて思わなかった。
きれいで、ちょっとえっちで、自分も噛まれてみたいって思った。
もちろん梓に。
ちょっと痛いかもしれないけど、きっとすごく気持ちいいんだと思う。映画の中の女優さんも気持ちよさそうだったから。
由佳の震えは止んでいた。
由佳が思う間に、10秒ほど経っていた。
スマホの画面の向こうで何が起こっているのかは分からない。
やがて、ふふっと小さく笑う声がした。
「由佳、変わってる。でもありがとう」
それは確かに感情のこもった声。
梓が喜んでる。その確信があった。
由佳は録音のボタンも押し忘れるほどに、呆然としていた。
「ほんと変わってるよ。びっくりした。由佳ってオカルトとか、そういうの好きなの?」
気のせいか、梓もちょっと泣いている気がした。だけど楽しそうだった。
「あははっ……でもよかった。不安だったんだよね。だから、隠してた。私の血が黒いこととかも、血を食べることもさ」
梓が珍しく、自分の気持ちを喋ってる。
初めてかもしれない。
自分から話すことがあんまりない梓が、喋ってるなんて。
本当の梓の声は大人っぽいというより、自分と同い年だと思った。
「……あ、ご、ごめんね。私だけ喋っちゃった。気持ち悪いって、思ってない……よね?」
雨の中で怯える子猫みたいな声。
それはまるで、
自分がずっと気にしていたこと。
レズだってわかったら引かれちゃう。
気持ち悪いって思われちゃう。
梓も同じだ。
ヴァンパイアだって気付かれたら引かれちゃう。
気持ち悪いって思われちゃうって、ずっとずっと不安だったんだ。
由佳の視界がじわりと歪む。自分の気持ちの湧き処の一つが見えた気がした。
自分の中で嵐を巻き起こす劣等感と、孤独感が吹き荒れる中にあった、竜巻の根元。
その一つがふっと見えた気がした。
だから由佳は涙を拭いて、恋人がそう言ってくれたみたいに答えた。
「ううん。思ってないよ。変わらず大好きだって思ってる。梓」
無機質な『通話中』画面の向こうで、梓が赤い目を細めて笑ったのが見えた気がした。
照れても顔が赤くならない不思議な恋人の、照れた顔が見えた気がした。
「……ありがと」
「梓、いますっごく照れてるでしょー?」
「照れてないっ! 電話だから分かんないでしょ」
衣擦れの音が聞こえる。梓もベッドの上にいるんだ。足をバタバタさせたりしてるのかな。かわいい。
梓はわたしのことをちゃんと意識してる。そこら辺の大勢とわたしは違う。
わたしは梓にとって特別なんだ。
運命の恋人同士だから。
そこから暖かい空気が流れて、いっぱい話をして、気が付くと時間が経って。
梓が「そろそろ寝るね」と言った時、「うん。おやすみ梓」と何のためらいもなく言ってしまって。
通話が切れて、一度も録音してないことに気付いた。一度も引き止めなかったことに気付いた。
「……だいすき。あずさ」
だけど、なんだか分からない暖かいものが胸の中に溜まっていて。
由佳は梓とのつながりを胸に抱いて、そのままベッドに横たわり眠った。
悪夢もなく、揺り籠に揺られるように穏やかに。