はらぺこヴァンパイア   作:棗の

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愛という呪い-6月4日19時1分

浩平(こうへい)はチーズタルトと紅茶を注文して、ボランティアに熱意を向ける娘の前で静かに食べた。

 

一通りボランティア募集を調べた娘はふうっと息をついて、「ありがと、パパ」と笑顔を見せた。

 

「どういたしまして。でも(あずさ)、本当に寝ずにやったりしちゃだめだよ。ちゃんと心も休ませないと」

 

「わかってるよ。なんか不思議な気持ち。眠くないのに寝るって」

 

時刻は19時を回っていて、普通の人間ならお腹がすく時間。

この後夜ご飯を食べに行くのだろうけれど、梓の食べられるものはここに無かった。

 

 

「……ママ、まだ寝てるのかな」

 

梓たちが家を出た時、一美(かずみ)は布団で眠っていた。

今はその不調の理由も全て知っている。慢性的な貧血のせい。梓のコーンポタージュが、一美の体の中で作られている途中。

 

「……たぶんそうだろうね。起きたらLINEするって言ってたから」

 

浩平がポケットのスマホをちらりと見て言った。

 

「……ねえ、パパ。ママって良くなるのかな」

 

一美の調子はずっと悪いまま。血を抜き続けているかららしい。

普通の献血ですら2か月は空けないといけないところを、二週間に一回、一美は繰り返している。

 

たったコップ一杯のコーンポタージュを得ることですら、ここまで人間を蝕む。

 

 

「……ママはできることをしたいだけなんだよ。ママが決めたことだ。全部わかっててやってるんだよ」

 

自分へ言い聞かせるような口調。

浩平とて、愛する妻が衰弱していく様は見たくはなかった。だが、妻が愛する娘のために身を捧げると決めた以上、その選択肢は尊重したかった。夫として。

 

妻の選択は、常人には理解しがたい物だろう。

血液パックを窃盗することも、自らの血を捧げることも……妻が娘に隠れて行っている、()()()()()

 

何度も手を探した。たかが血ぐらい、得る方法はあるだろうと思った。しかし、無かった。

 

売血は禁止されている。

梓を犯罪者にしたくはない。

 

あまりにも太く重すぎる二つの鎖が三浦(みうら)家を縛り付け、一美がその隙間から、罪にまみれた選択肢へ手を伸ばしているのが現状だった。

 

 

「……どうしてそこまでするの? 私だったらできない」

 

梓の脳裏に、一美の言葉が響く。

 

 

――ママだからよ。梓のたった一人のママだから。

 

 

その言葉の意味はまだわからない。ずっとわからないのかもしれない。怪物の自分には。

 

 

浩平は数秒悩んで、ふうっと息をついて、静かに語り始めた。

 

 

「…………梓がまだ生まれる前、もしかしたらこの世界に生きて出てこれないかもしれない、って言われてたんだよ。今から17年前のこと」

 

 

それはいつか言うかもしれないと思いながらも、聞かれなければ一生日の目を見なかった物語。

 

 

「梓がおなかにいるってわかった後のある日、お医者さんに言われたんだ。

この子はもしかしたら、生きられないかもしれないって。その時のママはすごく悲しんで、ずっと泣いていたんだ」

 

予兆は無数にあった。胎児に発育不全があると医者から度々聞かされていた。

産休中の一美は自分のせいだと自己嫌悪に苛まれ、医療従事者らしくもない、あらゆる民間療法やおまじないを試した。

 

「……ある日、ママが急に苦しみだして、緊急手術になった。梓かママか、その両方かが亡くなるかもしれない、ってお医者さんに言われたんだ」

 

そうして訪れた春の嵐の日。妊娠後期の妻が自宅の安楽椅子でくつろいでいた時。

苦しみはじめ、出血と共に病院に運ばれた。

 

同席した浩平が聞かされたのは、胎児の死のリスク。

うまく酸素が胎児にわたっておらず、緊急の帝王切開が必要だと聞かされた。

 

世界全てが灰色に染まった。

 

 

つい先ほどまでテレビを見て笑っていた妻が、この世を去るかもしれない。

 

名前も決め、ベビーベッドも用意した娘と共に。

 

 

激痛に意識が混濁する妻の手を握り、「愛してる」の一言を伝え、無機質な手術中の赤いランプが灯った時の記憶が、今でも時折フラッシュバックする。

 

 

それは一生消えることのない、あまりにも深い心の傷痕。

 

心の弱った時。泣き崩れる妻を慰め、(とこ)についた時。

常にその17年前は浩平の傍に現れ、心から血を流させた。

 

 

永劫という言葉があるが、それは手術が終わるまでベンチで待つ浩平にとって身近な言葉だった。

 

 

「だけど、無事に産まれた。梓も、ママも、無事だったんだ。もう二度と子どもを作れない体になったけれど」

 

奇跡的に母子ともに出産を終えた時の喜びは、浩平の人生の中でも片手の指で数えるほどだった。

 

 

一度、娘の命は手から(こぼ)れ落ちかけた。

それを浩平と一美は精一杯に拾い上げ、最大限の愛情をもって育て上げた。

妻は奇跡ともいえる確率で、子宮を失うだけで済んだ。

 

 

高潔な魂を持つ娘は17歳になり、そうして、ある日突然消えた。

意味も理由もわからず、ただいきなり塾の帰りに音信不通になった。

 

 

かつて浩平の感じた永劫のごとき待ち時間は、時を経て夫婦に再び襲い掛かった。

一年というあまりにも長い時間として。

 

 

狂いそうな絶望と、終わらない悲しみ。

時計の針が進むごとに消えていく娘の命の光。

 

 

そうして一年たち、娘は帰ってきた。ヴァンパイアとなって。

 

一度ならず二度、手から零れ落ちた娘の命が、闇の中に消えて、そして戻ってきた。

それがどれだけ嬉しかったか。

 

一美の心を支配する母性は、強烈で絶対的な物だった。

 

 

それは愛であり、呪いだった。

 

 

「だからママは、今度こそ絶対に、梓のために何でもするって思ってる。

パパはそれを応援したいし、パパも力になりたい」

 

 

梓は唐突に明かされた出生の秘密に、ただ呆然とするばかりだった。

全く何も知らなかった。

小学校の頃、”わたしのうまれたとき”って作文を書かされた時も知らなかった。

ヴァンパイアにならなければ、恐らく一生知らなかったこと。

 

まるで台風の中で外に出たみたいに、梓の心には暴風が吹いていた。

 

その中で口を突いた言葉は、自分でも疑うほど変な言葉だった。

 

 

「……じゃあ、()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

浩平がスプーンを取り落とした。

 

目の前のヴァンパイアは、無垢な赤い目で人間を見ていた。

 

「血を、くれるの?」

 

浩平は長袖で覆われた右の二の腕を押さえた。

 

 

「……あ、梓?」

 

梓も自分の言ったことに驚いていた。「あ、え、えっと」と慌てた様子で、口元を隠している。

 

「あ、ご、ごめん。なんかびっくりして、ヘンな事言ってる」

 

「そ、そうだね」

 

一瞬流れた異常な空気が、梓があたふたと動かす両手で霧散した。梓はそのまま、言葉をつづけた。

 

「だけど。ママがこのままだと病気になっちゃう」

 

浩平は紅茶を一口飲んで、静かに告げた。

 

「……大丈夫だよ。ママは医療のプロだ。自分で体の管理は出来てる」

 

ある種冷淡で、娘の期待していない台詞。

そう突き返すしかなかった。妻の意思はもう自分にも止められない。

決定的な破滅の時は、いつかは分からない未来にあるのだろう。

 

それがわかっていても突き進むしかない。

娘がおなかをすかせているから。

 

「そういうことじゃない……」

 

梓はぼそりと言って、一滴も減らないコーヒーに目を落とした。

梓もわかっていた。そうしないと自分が空腹に駆られおかしくなってしまうということぐらい。

 

血を手に入れる方法は、相変わらず無い。

3か月前と何も変わってない。

 

 

「……ねえパパ、私のごはんって、どうやって手に入れればいいのかな」

 

胸の奥の悩みを言葉にして、自分の尊敬する父にぶつけた。

すごく頭がよくて、いつも優しくて、ママのことが大好きなパパ。

私が悩んだ時に、いつも優しく答えをくれたパパ。

 

きっとパパなら知ってる。私が知らないだけだから。

 

「…………ごめん、それは僕にも分からないよ」

 

しかし返ってきたのはそんな返事だった。

初めての経験。

 

分からない、なんてあるんだ。

パパなのに? 何でも知ってるのに?

 

「いっ、いじわるしないでよ。何かあるよね?」

 

そんな思いが口を突いてしまった。

言ってしまった後悔が、胸の中に渦巻いてトゲトゲになって体を刺した。

 

 

浩平はチーズタルトを一口、二口食べて、フォークを置いた。

できるだけ険しい顔にならないよう、念じて目を閉じる。

 

ここで娘を励ますべきか、正直に伝えるべきか。

浩平は数秒悩み、後者を取った。前者は妻の役目だ。

 

 

「……いいや、本当にわからないんだ。パパも調べたけどね。だけどそれは、方法が無いってことじゃない。それは分かってほしい」

 

口の中に残るチーズタルトの味が急に無くなった気がした。

 

娘が自分を頼りにしてくれていることは知っている。

その自分がこのような事を口走って本当に良いのか、という葛藤はいつもあった。

しかし、それこそが娘という人間への誠意だと思った。

 

「だけどパパもママもあきらめない。絶対に方法を見つける。誰も傷つけない方法が絶対にあるはずだから」

 

泣き出しそうな娘の目をまっすぐ見て、浩平は言った。

涙を押しとどめた梓はこくりと頷いて、「ありがとう」と呟いた。

 

「私……何にもできてない。自分のごはんも用意できてないよ」

 

「パパだってそうさ。ママに用意してもらってる」

 

また自己嫌悪の渦に沈みそうになる娘を、浩平は柔らかい笑顔で救い上げた。

梓は頬を膨らませたが、少し気持ちは安らいだようだった。

 

「梓はたくさん悲しいことがあっても、前を向いて、ボランティアまでしようとしてる。一つずつやっていけばいいんだよ。パパとママはそんな梓を後ろから見て、支えてあげるのが役目だ」

 

「役目……じゃなくて。パパとママだっていっぱい大変な事あるでしょ。お仕事も大変そう」

 

潤んだ赤い瞳で娘はこちらを見ている。

それは幻想的で、あまりにも綺麗で、妻がルビーのようだと言った気持ちもわかるほどだった。

 

「ありがとう。お仕事は確かに大変だし、色んなやることもある。でもそれはパパとママがやることなんだ。梓が学校へ行って、勉強しているのと同じ」

 

「同じじゃないよ。大変さが違うよ」

 

浩平はまたチーズタルトを一口食べて、紅茶を飲んだ。もうちゃんと味がする。甘くておいしい。

 

「大人だからね。だけど、それは梓がなまけてるってことじゃない。梓は自分にできることをやってる。ボランティアだって、梓がしたいと思ったことだよね」

 

「そう……だけど。そうじゃなくて。もっと色んなことをしたいの」

 

珍しく梓は父に食い下がっていた。

浩平はチーズタルトを食べ終えて、紅茶を飲んで、娘の目を見つめる。

 

「……梓、焦らなくていいんだよ」

 

梓は焦りを見透かされたことに驚き、手元のコーヒーに目を落とす。

 

 

「……時間がないから」

 

不死のヴァンパイアなのに、そんな言葉が漏れた。

 

「……私、おなかがすくと、おかしくなっちゃうから。そうじゃない時に色んなことをしたいの」

 

 

おかしくなる。その言葉の裏にどれほどの娘の苦痛があるのだろう。

 

 

先週のこと。娘は妻の首を甘噛みしていたらしかった。

あの日の妻は恐怖でしばらく眠れず、首筋を押さえ泣いていた。

娘の姿をしているのに、まるで怪物のようだったと。

しかし、そう思ってしまう自分は母親失格だと、妻は泣いていた。

 

 

梓はどうしようもなく、ヴァンパイアに全てを握られている。

その高潔な魂すらも。

娘が名も知れぬ人たちのために、様々なリスクを冒してでも善意を贈ろうとする気持ちすらも、飢餓の前に容易く消えてしまう。

 

 

ヴァンパイアは空腹になれば、娘の魂を侵し、娘を操り食事を促す。

そうしてしたことはすべて、人間の娘の記憶に残るのだ。

 

なんて恐ろしい呪いだろう。

 

 

「次にいつごはんを食べられるか……わからないから」

 

浩平は思わず、娘の前で食事をする自分にすら罪悪感を覚えた。

紅茶の残りを飲んで、笑って言う。

 

「大丈夫。パパとママが、きっとなんとかするから」

 

根拠が無くても、空虚に響いても、そう言うしかない。

 

「……ありがと。パパ」

 

梓は微笑を浮かべて、そう言った。

 

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