はらぺこヴァンパイア 作:棗の
「……それ、いつ?」
考えるよりも先に、冷気を纏った一言が、
由佳の口調が変わったのも気づかずに、梓は夜景を見ながら答えた。
「おとといだよ。学校帰りに
「……誰と?」
「え? だから
梓が由佳の方を振り向くと、由佳はもう笑っていなかった。
穏やかな音楽にどこまでも似合わない、昏い瞳を梓に向けていた。
まるで告白される直前の、机に伏せていた時みたいな。
「…………浮気」
由佳の奥から熱く焼けた塊が湧き上がる。
それは嫉妬。
それは悲しみ。
それは怒り。
「なんで!! わたしと通話しないで
由佳はさっきまで腕に絡めていた手で、そのまま梓の両肩を掴んだ。
梓の赤い目が驚きに見開かれている。
だめ。
五分しかない大事な時間なのに。
キスする時間なのに。
止まらない。怒りが止まらない。
「なんで!! ねえあずさ! わたしより八坂の方が大事なの!?」
だめ。やめて。
いやだ。言いたくない。
「ねえっ! 嘘ついたの!? 買い物ってスーパーじゃないの!? 先回りして会おうとしたのにいなかったし! ねぇ!」
言葉が止まらない。
梓が驚いた顔してる。
やめて。言いたくない。
こんなことしたくない。
「裏切らないで! わたしに嘘つかないで!」
自分が言っていることがわからなくなる。
梓が何か言おうとしているけど、言葉が止まらない。
わたしが傷ついたって。
悲しかったって。
わかってほしいのに。どうして!
「わたしにだけはほんとの梓でいてよ! ねぇ!」
梓が何を考えているのか、もう考える余裕もなかった。
梓の赤い目が潤んでいたし、口が何かを言おうと、牙が見え隠れしていたのもわかる。
けれども、それが何のためなのかもわからなくて。
「ご乗車ありがとうございました――?」
空気が抜けるような音がして、ロープウェイの扉が左右に開いた。
その向こうで、笑顔の係員が営業用の笑顔のまま固まった。
高校生の女の子二人がいて、片方がもう片方に怒りの表情で詰め寄っている。
もう片方の少女がこちらを向くと、その目はやけに赤かった。
「あ、ありがとうございますっ。由佳降りてっ」
梓がロープウェイから慌てて出て、由佳の腕を引っ張った。
少しだけ強い力になってしまったようで、由佳が梓に抱きつくように外に出た。
梓が由佳の体を一瞬持ち上げて、横に立たせた。
由佳の心も体も支配していた怒りが、周りからの視線で冷えていく。
係員の人は笑ってくれているけど、前に乗っていたカップルや、遠くから見学中のおじさんがニヤニヤ嗤っていた。
「こんなところで喧嘩かよー」なんて声も聞こえてくる。
わたしが、デートをぶち壊した。
「あ、あず、さ」
梓は答えなかった。
由佳の手を引いて、出口と書いた自動ドアへ歩いていく。
自動ドアが開いて、さらに歩く。
梓の顔が見えない。
背中が冷たくなって、胸の奥が凍り付いていく。
わたし、何を言った?
梓に何を言ったの?
金切り声みたいな自分の言葉が、記憶の奥から浮かんでくる。
思ってないはずの言葉。
キスから一番遠い言葉がいっぱい。
世界で一番大事な五分間なのに、喧嘩で終わっちゃった。
わたしのせいで。
「え、ま、まって、あずさ、あのっ」
梓は待ってくれなかった。
「あずさっ、あのっ、ごめっ」
梓は待たなかった。
きれいな通路なのに、どこまでも不釣り合いなこと。
背の高い、早歩きの梓についていくのが精いっぱいで、せいいっぱい足を動かして建物の外まで出た。
無意識に手が目元に動いて、そこで自分が泣いていることに気付いた。
梓が周りを見渡して、誰もいないベンチを見つけて、そこまで歩いていく。
まるで一回目のデートの時みたいに。
由佳は慌てて、その横に座った。
梓の顔を見上げることなんてできなかった。
もう怒りはどこかに消えていて、足元から湧き上がる焦燥感が頭の先まで達していた。
嫌われちゃう。
梓に嫌われちゃう。
怒られちゃう。
「…………由佳のことは大事だよ」
最初に口を開いたのは、梓だった。
いつもよりずっと固い口調だった。
梓の方を見れない。
見て、もし自分を軽蔑していたら、きっとここで心臓が止まって死んでしまうから。
由佳は自分の膝しか見れなかった。
ほんの僅か、視界の端に、梓の白い肌が見える。
だけれど、梓の真っ白い肌が綺麗だって今は思えない。
ただ怖い。
嫌われる。
見捨てられる。
裏切られる。
梓に捨てられる。
やだ。こわい。
いやだ。一緒にいて。
やめて。わたしをおいていかないで。
ひとりにしないで。
ひとりは嫌だ!
「……あ、あず、さ」
絞り出せたのは、怒っている恋人の名前だけだった。
「……ごめんね。私、女の子と初めて付き合ったから、分からなくて。もうしないよ」
由佳はその言葉で、そっと梓の方を向いた。
怒って、ない?
梓の赤い目が、赤っぽく潤んでいた。
由佳の方を見ずに、遠くのどこかを見ていた。
「言い訳になっちゃうけど……私、あんまり人とお付き合いした経験がなくて……今日頑張ってみたんだけど、大事な所で要らないこと言っちゃった。
ごめんなさい。せっかくプランを考えてくれたのに」
梓は目線を足元に落として、申し訳なさそうに言っていた。
怒ってない?
むしろ、謝ってる?
「由佳は女の子が好きだし、女の子と遊ぶのって、よくなかった……ごめんね」
由佳は心の奥がぎゅうっと握りつぶされた気がした。
”あの人”に殴られたときみたいな、そんな痛みだった。
ちがう。
謝るのはわたしの方なのに。
それは、待っていた言葉のはずなのに。
どうしたらいいかわからなくて、由佳は梓に抱きついた。
梓の胸に顔を埋めて泣いた。
子どもみたいに、大声を上げて泣いた。
もう何もかも気にしている余裕はなかった。
あまりにも自分が醜くて。
あまりにも恋人が優しすぎて。
「ゆ、由佳? あの、えっと」
梓は慌てて、周りの人から見えないように手で由佳の横顔を覆った。
幸いにも周りを歩くカップルたちは、二人に注意を向けていなかった。
それはわたしが望んだ答えのはずなのに、どうして胸が苦しいんだろう。
梓がわたしだけを見てくれるって、浮気はやめるって宣言なのに、どうして辛いんだろう。
わたしは本当にこんなことを望んでいたの?
恋人同士って、本当にこれで正しいの?
梓は自分の胸で泣き崩れる由佳の頭を、とりあえず撫でてみた。
デートの初めの時みたいに、照れたりもせず、梓の肩をぎゅっと掴んで由佳は泣くだけだった。
まるで小学生ぐらいみたいに、大声を上げて泣いていた。
自分の頬に何かが伝っていた。
それが自分の赤い涙だと気付いて、急いで手で拭った。
白い手のひらの上で、落ちたアイシャドウと赤い涙が混ざっていた。
私が泣いちゃいけない。私が悪いんだから。
前のベイクォーターの時と同じ。
由佳は急に焦ったり怒ったりして、泣いたりもする。
きっと私の知らない何かがあるって前は思ったけど、今回は私のせいだった。
由佳と一緒にいると気持ちが緩んで、家にいる時みたいに話しちゃう。
だから、早紀ちゃんと一緒に遊びに行ったことも話しちゃった。
買い物に行っただけだったけど、それは浮気になるんだ。
私が知らないだけで。
レズビアンの人たちにとっては、女の人は恋愛対象であって、恋敵でもあるんだ。
悲しいし、寂しい。
だけどそれは仕方のないこと。
私が常識を知らなかっただけ。
友達と恋人同士は違う。
私がそんなことも知らずに、血に釣られてあっさりOKしてしまうヴァンパイアだから。
ヴァンパイアには人間の恋愛なんて分からない。
人殺しの怪物には分からない。
由佳だけは私がヴァンパイアだって知ってるから、ちょっと不器用なところを見せてもいいかもって思ったけど。
人殺しの怪物にそんな甘さなんてない。
本当は、ここにいていいわけなんてないから。
だから、ぶつけられた言葉全てを飲み込むしかない。
……
――裏切らないで!
由佳の言葉が頭の中に響く。
裏切り、なんて言葉、使ったことも使われたこともなかった。
それぐらいに強くて、ひどい言葉だから。
そんな言葉を向けられるほどのことを、私はしたのかな。
買い物に一緒に行っただけなのに。
裏切るつもりなんて全然なかったし、由佳のことを避けたつもりもなかった。きっとそう。
由佳から投げられた言葉がどれも鋭利で、痛みを感じないはずの体がぐらぐら揺れていた。
できることなら、全部全部投げ出して、家に帰って目を閉じて眠りたかった。
――わたしに嘘つかないで!
私はたくさん嘘をついてる。嘘つきなのも本当。
由佳から投げられたトゲトゲの言葉のうち特に鋭利な一つが、梓の冷たい心臓の中で響く。
――わたしにだけはほんとの梓でいてよ!
「……私が知りたいよ。そんなこと」
梓の涙声の呟きは、泣き崩れる由佳には聞こえていなかった。
本当の私がどうなっているかなんて、私が一番知りたい。
どこまでが
もし人間の三浦梓としてここに来れたなら、どうなっていたかなんて、私が一番知りたい。
動いていない心臓の奥から、黒くどろどろしたものが湧いてくる。
それは怒りだった。
梓が人生でほとんど感じたことのない、他者への怒りだった。
由佳の頭に乗せた真っ白い指に、少しだけ力が入っていた。
いけない。
そんなこと、しちゃいけない。
私は、ヴァンパイアだから。
梓は自分の下顎を牙で刺した。
どろっとした黒い血が涙に震える口の端から漏れて、慌てて空いた手で押さえた。
梓の手の甲のアイシャドウと血色の涙の上に、黒い炭のような血が重なった。