はらぺこヴァンパイア   作:棗の

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至福の時(三)-6月8日19時45分

「……それ、いつ?」

 

 

(あずさ)の気持ちに寄り添おうと、困惑に震えていた心が止まる。

考えるよりも先に、冷気を纏った一言が、星野由佳(ほしのゆか)の口から漏れていた。

 

 

由佳の口調が変わったのも気づかずに、梓は夜景を見ながら答えた。

 

 

「おとといだよ。学校帰りにE-Z’s(イージス)のショップ行くから一緒にどうって言われて、久しぶりにいいかなって思って」

 

 

「……誰と?」

 

 

「え? だから早紀(さき)ちゃん……」

 

 

梓が由佳の方を振り向くと、由佳はもう笑っていなかった。

 

 

穏やかな音楽にどこまでも似合わない、昏い瞳を梓に向けていた。

 

 

まるで告白される直前の、机に伏せていた時みたいな。

 

 

「…………浮気」

 

 

由佳の奥から熱く焼けた塊が湧き上がる。

それは嫉妬。

それは悲しみ。

それは怒り。

 

「なんで!! わたしと通話しないで八坂(やさか)なんかと一緒にいたの!?」

 

由佳はさっきまで腕に絡めていた手で、そのまま梓の両肩を掴んだ。

梓の赤い目が驚きに見開かれている。

 

 

だめ。

五分しかない大事な時間なのに。

キスする時間なのに。

止まらない。怒りが止まらない。

 

 

「なんで!! ねえあずさ! わたしより八坂の方が大事なの!?」

 

だめ。やめて。

 

いやだ。言いたくない。

 

「ねえっ! 嘘ついたの!? 買い物ってスーパーじゃないの!? 先回りして会おうとしたのにいなかったし! ねぇ!」

 

言葉が止まらない。

 

梓が驚いた顔してる。

 

 

やめて。言いたくない。

こんなことしたくない。

 

 

「裏切らないで! わたしに嘘つかないで!」

 

 

自分が言っていることがわからなくなる。

梓が何か言おうとしているけど、言葉が止まらない。

 

 

わたしが傷ついたって。

悲しかったって。

わかってほしいのに。どうして!

 

 

「わたしにだけはほんとの梓でいてよ! ねぇ!」

 

 

梓が何を考えているのか、もう考える余裕もなかった。

梓の赤い目が潤んでいたし、口が何かを言おうと、牙が見え隠れしていたのもわかる。

 

 

けれども、それが何のためなのかもわからなくて。

 

 

「ご乗車ありがとうございました――?」

 

 

空気が抜けるような音がして、ロープウェイの扉が左右に開いた。

その向こうで、笑顔の係員が営業用の笑顔のまま固まった。

 

 

高校生の女の子二人がいて、片方がもう片方に怒りの表情で詰め寄っている。

もう片方の少女がこちらを向くと、その目はやけに赤かった。

 

 

 

「あ、ありがとうございますっ。由佳降りてっ」

 

 

梓がロープウェイから慌てて出て、由佳の腕を引っ張った。

少しだけ強い力になってしまったようで、由佳が梓に抱きつくように外に出た。

 

梓が由佳の体を一瞬持ち上げて、横に立たせた。

 

 

由佳の心も体も支配していた怒りが、周りからの視線で冷えていく。

 

 

係員の人は笑ってくれているけど、前に乗っていたカップルや、遠くから見学中のおじさんがニヤニヤ嗤っていた。

「こんなところで喧嘩かよー」なんて声も聞こえてくる。

 

 

 

わたしが、デートをぶち壊した。

 

 

 

「あ、あず、さ」

 

 

梓は答えなかった。

由佳の手を引いて、出口と書いた自動ドアへ歩いていく。

自動ドアが開いて、さらに歩く。

 

梓の顔が見えない。

背中が冷たくなって、胸の奥が凍り付いていく。

 

 

わたし、何を言った?

梓に何を言ったの?

 

 

金切り声みたいな自分の言葉が、記憶の奥から浮かんでくる。

 

 

思ってないはずの言葉。

キスから一番遠い言葉がいっぱい。

 

 

世界で一番大事な五分間なのに、喧嘩で終わっちゃった。

わたしのせいで。

 

 

「え、ま、まって、あずさ、あのっ」

 

梓は待ってくれなかった。

 

 

「あずさっ、あのっ、ごめっ」

 

梓は待たなかった。

きれいな通路なのに、どこまでも不釣り合いなこと。

背の高い、早歩きの梓についていくのが精いっぱいで、せいいっぱい足を動かして建物の外まで出た。

 

無意識に手が目元に動いて、そこで自分が泣いていることに気付いた。

 

 

梓が周りを見渡して、誰もいないベンチを見つけて、そこまで歩いていく。

まるで一回目のデートの時みたいに。

 

由佳は慌てて、その横に座った。

 

梓の顔を見上げることなんてできなかった。

 

もう怒りはどこかに消えていて、足元から湧き上がる焦燥感が頭の先まで達していた。

 

 

嫌われちゃう。

梓に嫌われちゃう。

怒られちゃう。

 

 

「…………由佳のことは大事だよ」

 

最初に口を開いたのは、梓だった。

いつもよりずっと固い口調だった。

 

 

梓の方を見れない。

見て、もし自分を軽蔑していたら、きっとここで心臓が止まって死んでしまうから。

 

由佳は自分の膝しか見れなかった。

 

ほんの僅か、視界の端に、梓の白い肌が見える。

だけれど、梓の真っ白い肌が綺麗だって今は思えない。

ただ怖い。

 

 

嫌われる。

見捨てられる。

裏切られる。

梓に捨てられる。

 

 

やだ。こわい。

いやだ。一緒にいて。

やめて。わたしをおいていかないで。

 

ひとりにしないで。

ひとりは嫌だ!

 

 

「……あ、あず、さ」

 

 

絞り出せたのは、怒っている恋人の名前だけだった。

 

 

 

「……ごめんね。私、女の子と初めて付き合ったから、分からなくて。もうしないよ」

 

由佳はその言葉で、そっと梓の方を向いた。

 

 

怒って、ない?

 

 

梓の赤い目が、赤っぽく潤んでいた。

由佳の方を見ずに、遠くのどこかを見ていた。

 

 

「言い訳になっちゃうけど……私、あんまり人とお付き合いした経験がなくて……今日頑張ってみたんだけど、大事な所で要らないこと言っちゃった。

ごめんなさい。せっかくプランを考えてくれたのに」

 

 

梓は目線を足元に落として、申し訳なさそうに言っていた。

 

 

怒ってない?

むしろ、謝ってる?

 

 

「由佳は女の子が好きだし、女の子と遊ぶのって、よくなかった……ごめんね」

 

 

由佳は心の奥がぎゅうっと握りつぶされた気がした。

”あの人”に殴られたときみたいな、そんな痛みだった。

 

 

ちがう。

謝るのはわたしの方なのに。

 

 

それは、待っていた言葉のはずなのに。

 

 

どうしたらいいかわからなくて、由佳は梓に抱きついた。

 

梓の胸に顔を埋めて泣いた。

子どもみたいに、大声を上げて泣いた。

 

もう何もかも気にしている余裕はなかった。

 

 

あまりにも自分が醜くて。

あまりにも恋人が優しすぎて。

 

 

「ゆ、由佳? あの、えっと」

 

 

梓は慌てて、周りの人から見えないように手で由佳の横顔を覆った。

幸いにも周りを歩くカップルたちは、二人に注意を向けていなかった。

 

 

それはわたしが望んだ答えのはずなのに、どうして胸が苦しいんだろう。

梓がわたしだけを見てくれるって、浮気はやめるって宣言なのに、どうして辛いんだろう。

 

 

わたしは本当にこんなことを望んでいたの?

 

恋人同士って、本当にこれで正しいの?

 

 

 

梓は自分の胸で泣き崩れる由佳の頭を、とりあえず撫でてみた。

 

デートの初めの時みたいに、照れたりもせず、梓の肩をぎゅっと掴んで由佳は泣くだけだった。

まるで小学生ぐらいみたいに、大声を上げて泣いていた。

 

自分の頬に何かが伝っていた。

それが自分の赤い涙だと気付いて、急いで手で拭った。

白い手のひらの上で、落ちたアイシャドウと赤い涙が混ざっていた。

 

 

私が泣いちゃいけない。私が悪いんだから。

 

 

前のベイクォーターの時と同じ。

由佳は急に焦ったり怒ったりして、泣いたりもする。

きっと私の知らない何かがあるって前は思ったけど、今回は私のせいだった。

 

 

由佳と一緒にいると気持ちが緩んで、家にいる時みたいに話しちゃう。

 

だから、早紀ちゃんと一緒に遊びに行ったことも話しちゃった。

 

買い物に行っただけだったけど、それは浮気になるんだ。

私が知らないだけで。

 

レズビアンの人たちにとっては、女の人は恋愛対象であって、恋敵でもあるんだ。

 

悲しいし、寂しい。

だけどそれは仕方のないこと。

私が常識を知らなかっただけ。

友達と恋人同士は違う。

私がそんなことも知らずに、血に釣られてあっさりOKしてしまうヴァンパイアだから。

 

 

ヴァンパイアには人間の恋愛なんて分からない。

人殺しの怪物には分からない。

 

 

由佳だけは私がヴァンパイアだって知ってるから、ちょっと不器用なところを見せてもいいかもって思ったけど。

人殺しの怪物にそんな甘さなんてない。

本当は、ここにいていいわけなんてないから。

だから、ぶつけられた言葉全てを飲み込むしかない。

 

 

 

……()()()

 

 

 

――裏切らないで!

 

 

 

由佳の言葉が頭の中に響く。

 

 

裏切り、なんて言葉、使ったことも使われたこともなかった。

それぐらいに強くて、ひどい言葉だから。

 

 

そんな言葉を向けられるほどのことを、私はしたのかな。

 

 

買い物に一緒に行っただけなのに。

裏切るつもりなんて全然なかったし、由佳のことを避けたつもりもなかった。きっとそう。

 

 

由佳から投げられた言葉がどれも鋭利で、痛みを感じないはずの体がぐらぐら揺れていた。

できることなら、全部全部投げ出して、家に帰って目を閉じて眠りたかった。

 

 

――わたしに嘘つかないで!

 

 

私はたくさん嘘をついてる。嘘つきなのも本当。

 

 

由佳から投げられたトゲトゲの言葉のうち特に鋭利な一つが、梓の冷たい心臓の中で響く。

 

 

――わたしにだけはほんとの梓でいてよ!

 

 

「……私が知りたいよ。そんなこと」

 

 

梓の涙声の呟きは、泣き崩れる由佳には聞こえていなかった。

 

 

本当の私がどうなっているかなんて、私が一番知りたい。

 

 

どこまでが三浦(みうら)梓で、どこまでがヴァンパイアか、知っているなら教えてほしい。

もし人間の三浦梓としてここに来れたなら、どうなっていたかなんて、私が一番知りたい。

 

 

動いていない心臓の奥から、黒くどろどろしたものが湧いてくる。

 

それは怒りだった。

 

梓が人生でほとんど感じたことのない、他者への怒りだった。

 

 

由佳の頭に乗せた真っ白い指に、少しだけ力が入っていた。

 

 

いけない。

そんなこと、しちゃいけない。

 

私は、ヴァンパイアだから。

 

 

梓は自分の下顎を牙で刺した。

どろっとした黒い血が涙に震える口の端から漏れて、慌てて空いた手で押さえた。

 

 

梓の手の甲のアイシャドウと血色の涙の上に、黒い炭のような血が重なった。

 

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