はらぺこヴァンパイア 作:棗の
時刻は一日遡る。
今日は日曜日だった。
日曜日は、梓が太陽の光への耐性を失う日。
梓は、日の出ている日中はカーテンを閉め切った部屋の中で眠って時間を過ごす。
日が沈んだらようやく起きて、日曜日が始まる。
そのはずなのに、今日の梓は21時まで部屋のベッドで眠っていた。
昨夜、みなとみらいから帰ってきた梓は、
そして下着姿のまま、部屋で眠りについていた。
荒れ狂う感情が収まるまで無理やり眠れることは、ヴァンパイアの数少ない長所だと思った。
そうして迎えた、日曜日の21時。
梓は自室のベッドで目を覚ました。
胸の奥でどろどろとうごめいていた悲しみは、少し収まったようだった。
起き上がると、閉めていたはずの部屋の扉が開いていた。
梓と一緒にベッドで眠っていた青いペンギンのぬいぐるみの手元に、メモが置いてあった。
『ごはんできてるからね』
それは母の字だった。
思わず、牙を舌でなめていた。
ごはんだ。コーンポタージュが飲める。
「ありがとう……ママ」
梓は起き上がって、部屋を見渡した。
脱ぎ散らかしたデート服は、洗濯されて部屋の隅に畳まれていた。いつも着ている寝間着がベッドの横にあった。
全部、ママとパパはわかってる。わかってて、そっとしておいてくれてる。
なんだかすごく恥ずかしくなった。
こんなこと今まで一度ぐらいしかなかった。人間だった頃に、彼氏に振られたときぐらい。
その時も、静かに気持ちが収まるのを待ってくれていた。
下着の紐を直して、寝間着を着て、日曜日を始める。
時刻は21時12分。間違いなく日が沈んでいる。
そっと廊下に行って、リビングの扉を開けた。
「おはよう。梓」
髪が濡れたままの一美が、ソファの上にいた。
テレビで録画したドラマを見ていたらしかった。
「おはようママ。昨日はごめんなさい」
梓がぺこりと頭を下げた。
一美は疲れた顔で笑って、立ち上がって冷蔵庫へ歩いていく。
梓はテレビを横目で見ながら、食卓の椅子に座った。
ママのコーンポタージュの日、今日だったんだ。
良かった。少しだけ元気になれそう。
ぞくぞくと、動いていない心臓の底から何かが湧き上がってくる。
食事を待つヴァンパイアが、梓の内側でうごめく。
梓は口を開けて、牙の先をそっと撫でた。
今日は噛まない。飲むだけ。
ママとパパと話したいから。
一美は冷蔵庫から血入りのジャム瓶を取り出して、お湯を張ったボウルの中に入れる。
ゆっくりと手で回しながら湯せんで温めていく。
十分に温まった鮮血を湯せんから取り出して、用意しておいたスープカップに注ぐ。
それを持って、食卓につく娘の前にことりと置いた。
娘の赤い目が、揺れる赤い液面を見た途端、嬉しそうに細められた。
悲しみに染まった顔が、無邪気な笑みを浮かべた。
白磁のような指がカップの縁を持って揺らし、赤い液面がゆらゆらと揺れた。
「ありがと。ママ」
一美が対面の席に座ると、梓は微笑を浮かべたまま言った。
「いただきます」
梓は焦らないよう、噛みつかないよう、鮮血のコーンポタージュを手に取って飲んだ。
暖かい。
喉から胸の奥まで温まる気持ち。いつもよりおいしい。
大丈夫。噛まなければおかしくならないから。
これはコーンポタージュ。
優しくておいしいコーンポタージュだから。
半分ぐらい飲んで、梓はゆっくりとカップを置いた。
ふうっと暖かい息を吐く。
牙がテーブルの上の照明を反射して、鈍く光っていた。
「おいしい?」
「うん。いつもよりおいしい気がする……ありがとう。ママ」
ルビーの瞳を細めて笑う梓を見ていると、一美の体を縛り付ける不調が和らいだ気がした。
いつもよりおいしい。
その言葉が真実なら、
これは今日の夕方に採った血だから。
娘についての新たな発見をそっと胸に留めて、一美は疲れた笑顔のまま言う。
「よかったわ。ちょうど準備ができた日で。本当は昨日の夜出そうと思ってたの」
「そうだったんだ……ありがとう。昨日はごめんなさい。色々、限界だったから」
梓は目を伏せた。
ゆらゆら揺れる真っ赤なコーンポタージュの液面を見ると、ちょっと安心する。
「いいのよ。お疲れ様のつもりで用意していたから、同じことよ」
梓はまた僅かにコーンポタージュを何度か飲んで、ぽつりと言う。
「……デートで由佳が調べてくれたロープウェイに乗ったの。いいムードだったのに、私が言っちゃいけないことを言ったせいで、由佳が怒ったの。
由佳が泣いて、私が謝って……お互い喋らずに、解散になった」
娘はゆっくりと昨日の出来事を語り始めた。
昨日の夜から大人たちがずっと聞きたかったことを。
「……私が、レズビアンの人たちのことを何にも知らなかったから」
一美は笑顔を崩さないまま、娘の発した言葉を飲み込み、分析した。
貧血で思考を拒否する頭を叩き起こし、控えめな娘の傷心のサインを見逃さないようにする。
星野由佳はレズビアンで、自他の境界が薄く、独占欲が強い。
そのうえで娘は言った。
レズビアンの人たちのことを知らない。言ってはいけないことを言った。
娘は少し前、クラスの女の子と
一美の中で答えが出る。
思わず眉をしかめた。自分の予想は当たっていた。あの少女は危険だと思って間違いなかった。
その危険人物と、娘はあろうことか恋人同士であり、娘もヴァンパイアであるがゆえに特別な感情を抱いているのだ。
自分の命よりも大事な娘が。
やはり止めておくべきだったかもしれない。出過ぎたことだと思っても。
一美は数十秒待った。
しかし娘は何も言わなかった。
一美は、そっと口を開いた。
「……星野さんから、他の子と遊びに行ったことが浮気だって言われたの?」
梓は驚いたように一美の方を向いて、また俯いて、こくりと頷いた。
梓は自分の無知を恥じていた。
由佳だって頑張ってデートプランを作ってくれたのに。
しかし同時に、梓自身も名前をつけられないトゲトゲした感情を抱いていた。
いくらそれでも、裏切りとか、ほんとの梓でいてとか言われるのは、さすがに、ひどい。
そんなことを言われる程のことだったのかな。
私はそんなにひどいことを、由佳にしたのかな。
でも私は、最低の人殺しだから。
そんなこと、思っちゃいけない。
一美は娘には見えない自分の膝の上で、そっと拳を握った。
それは怒りだった。
娘の心を幼稚な感情で攻撃した、幼稚な少女への怒り。
一美の中で、軽蔑と怒りが燃え上がる。
貧血でボロボロになった心は容易に炎に包まれ、火だるまになった。
「ママ……?」
気付くと娘が心配そうに自分を見ていた。
危ない。また感情が顔に出ている。
怒るべき相手は愛する娘じゃない。
愛する娘の前では、余裕のある母親でいたい。
一美はふうっと息をついて、微笑を浮かべようとした。出来ていたかはわからない。
「ごめんなさい。……梓は、星野さんとの関係は続けたいの?」
「え? う、うん。関係って、その……こ、恋人のことだよね。今回は私が悪いし、許してくれたらいいんだけど」
喧嘩別れはしたくなかった。
由佳には困ったことがたくさんあるけど、好きなところもある。
話していて、楽しい人。私と服の好みも似てるし、好きなアーティストも似てる。
私が困っているときに助けてくれる。
ヴァンパイアのことを理解して、きれいって言ってくれる変わった人。
もしかしたら、血をもらえるかもしれない人間。
梓の発した言葉が、テレビの音が遠く聞こえるリビングにぐるぐると渦巻いた。
数秒経って、一美は口を開いた。
「………………そう。わかったわ」
結果はまたも様子見。
娘は、あまりにも優しすぎる。
だから、正しいことだけ伝えるべきだと思った。
それは大人の女として少女に教える、恋愛のルールのつもり。
「梓は、
「ううん。
「梓は八坂さんのこと、友達って思ってるわよね」
「うん。そうだよ」
一美は優しく頷いた。
「それは、浮気とは言えないわ。ただ、友達と遊びに行っただけ」
はっきりとそう言った。
「で、でも。由佳ってレズビアンだから、女の子同士で二人きりだと浮気になるんじゃ」
「ママはレズビアンの人の友達はいないから、絶対にそうとは言えないけど……そうしたら、レズビアンの人にとってお付き合いって、女の子の友達全員と関係を断つって意味になるわよ。
ママやパパも、友達には男の人も女の人もいる。お友達として、ちょっと買い物に行ったりすることはあるわ」
一美はベテランとして、異性の後輩と一緒に職場で行動したり、食事して悩みを聞いたことは何度となくある。
それを浩平に話しても、浩平は笑って「一美さんは頼りになるからね」と言っていた。
浩平が仕事の付き合いで飲み会に行くことも、一美は社会人として普通のことだと考えていた。
大事なのはそこに気持ちや体のやりとりがあるかどうかだと、一美は思っていた。
「お付き合いするってことは、大切な人以外と仲良くしちゃダメって意味じゃない。ママはそう思ってるわ」
梓は赤い目を見開いていた。
まだ中身の少し残っているカップを置いて、じいっと自分の母を見ていた。
人生の中で何度となく相談してきた、尊敬する大人の発言が、梓の心を包んでいく。
「ママも星野さんと一言話した程度で、言うのは良くないかもしれないけど……それはレズビアンだからじゃなくて、
「由佳だから……?」
梓が首を傾げた。
「星野さんだからこそ、梓が他の女の子と話すと、浮気だって思っちゃうのかもね」
そこには一美自身の、由佳への敵対心が混ざっていた。
異常な存在だと断じる気持ちも混ざっていた。
しかし娘はそれに気づかず、「そうなのかな……」と悲しそうにつぶやいた。
「……梓は、どうしたい?」
そこに一美はまた言葉をぶつけた。
少なからず期待を込めて。
気づいてほしかった。
あの幼稚な少女の異常さに。
梓は数秒黙って、コーンポタージュを飲んで、微笑を浮かべて一息ついた。
気持ちを落ち着けて、そのうえで考えて、答えを出した。
「……友達と遊びたい。色んな人と仲良くなって、普通の高校生になりたい」
梓のその気持ちに揺らぎはなかった。
ヴァンパイアによって理不尽に奪われ、不器用に取り戻したそれを手放すつもりはなかった。
嘘つきでも、本当の自分じゃなくても。
いつかきっとできると思いたいから。
「…………そう」
一美の聞いた内容と、梓の答えは食い違っていた。
星野由佳との関係をどうするか聞いたつもりだったし、「もう一緒にいたくない」と言ってほしかった。
そうすれば自分は思うまま、幼稚な少女を娘から遠ざけ排除することができる。
だけど優しい娘は、独占欲の強い少女との関係を続けることを望んでいた。
再び、迷う。
ここで自分が、星野由佳がどれほど危険な考えを持っているか懇々と諭すこともできる。
きっとそれは娘の心に届くはず。
だが、それは親として、出過ぎた真似だと思っていた。
娘の人生を、自分が歪めることになる。
娘の交友関係を選別するなんてもってのほかだった。
それに……もし。
自分が命を削って用意している血を、ヴァンパイアだと知っている星野由佳が与えてくれる可能性があるならば。
その可能性があるのなら、手は出したくない。
親のエゴで、血は買えない。
血の一滴すらも、娘には必要だから。
「でも。由佳にもしまた言われたら、言ってみるよ。
ようやく梓は笑った。
楽観的に、なんとかなると思っているようだった。
梓は最後のコーンポタージュを口につけ、カップを傾けた。
温かい流れが喉を伝って、それが細まって、やがて流れてこなくなる。
この瞬間はいつも悲しい。
けれども、胸の奥の温かさが元気をくれる気がする。
由佳はまだまだ分からないこともたくさんあるけど、話せばきっとわかってくれる。
私だって、ちょっと受け身になりすぎてたのがよくないんだ。
話さないと分からないし、怖がってばかりはよくない。
由佳にちゃんと話せば、きっとわかってくれる。
由佳は恋人。ほかのひとは友達。
全然違うんだって言えば、きっとわかってくれる。
「ごちそうさまでした。ママのコーンポタージュ、おいしかったよ」
梓は手を合わせ、一美に向かって笑顔で言った。