はらぺこヴァンパイア 作:棗の
平日の昼で、人影はまばら。
一美よりもずっと年上の有閑マダムといった様相の人々が、楽しそうに店内で談笑していた。
日の当たらない隅の席に、一美は座っていた。
最低限のおしゃれをして、傍らに通勤用に使っていたリュックを置いて。
「……お久しぶりです。三浦さん。暑い中ありがとうございます」
その一美の向かいには、一人の女性がいた。
20代後半ほどの女性。長い黒髪を肩口で結っており、ゆったりした服を着ている。
一美程ではないが、顔には疲労の色が濃い。
二人の間のテーブルにはコーヒーが二つ置かれていた。
若い女性の前には、チョコレートスコーンもあった。
「こちらこそどうも。
一美は一口、コーヒーを啜った。
体を蝕み続ける慢性の貧血で、カフェインを過剰に入れないと眠ってしまいそうだった。
今、惰眠を貪るわけにはいかない。これは大事な場だから。
「そういうわけにはいきませんよ。三浦さんにはすごくお世話になりましたから」
峰岸と呼ばれた女性は、一美の職場の後輩看護師だった。
まだ勤続5年ほどの若手で、今は消化器外科に勤務している。
「お世話にって……仕事の世話をしただけよ」
「そんなことないです! 産休申請、長めに通してくれたじゃないですか」
「通さない上が問題だっただけよ。
「おかげさまで! 保育園もやっと入れられたんですよ。
一美はその吉報に笑って、「これで一安心ね」と返した。
「ええ。本当に」と峰岸も笑い、そこから和やかな談笑の空気が流れる。
昼下がりの母同士の会話は弾んだ。
梓が小さかった頃より保育園は入りづらくなったこと。
ちょっとした熱で峰岸は保育園から呼び出され、仕事の中抜けを余儀なくされていること。
峰岸の話に、一美は同情的に接した。
心の中に何を思おうが、”優しい先輩”の仮面を被り続けた。
対面する峰岸は一美に対し、職場の先輩としても、尊敬する母親としても接していた。
”尊敬する三浦先輩”との久しぶりのランチの場で、心が躍った。
三浦一美は、職場でも有名なベテラン看護師だった。
循環器内科という高ストレスな職場にいながら弱音を吐かず、かといって同僚や、愛娘への気遣いも欠かさず、人当たりも良い人格者。
自分が看護師になるずっと前から病院におり、医師からの信頼も篤い。
一美の愛娘・
直接会ったことは梓が小さい頃しかないが、素朴で可愛い少女で、心優しく誰からも好かれるような子だった。
梓が高校に入学したときは、一美と同じ循環器内科に峰岸はいた。
その時は他のナースと一緒に、梓へのお祝いのメッセージカードを書いたりしていた。
それゆえに、梓が行方不明となった時の一美の取り乱しぶりも鮮明に覚えていた。
理知的で、落ち着いた一美が、峰岸に感情的な言葉を浴びせたと思えば次の瞬間に泣き崩れたり、手術中にすら泣き出し、医師に叱責される場面もあった。
峰岸自身、尊敬する先輩が崩れていく様子を見るのは、辛い毎日だった。
同僚から、子どものことばかり考えている一美への心ない陰口も聞こえた。
子持ちの誰もが子どもに関する話題を避け、ただ仕事することに徹していた暗黒の時期。
それはもう終わったのだと峰岸は知っていた。
今年の3月末に、一美の愛娘は家に帰ったようだから。
少なくともその連絡だけは、いち早く一美から得ていた。
多少疲れは見えるが、目の前の先輩はかつての優しい先輩に戻っている。
安心して、自分の子の話ができる。
一美に「久々に話したい」と言われたとき、峰岸もすぐに了承したのは、優しい先輩に戻ったからだった。
話題は転々とし、二人のコーヒーとスコーンが減っていく。
「……あの、三浦さんはお体とか、家計とかは大丈夫ですか。その、私が心配するのも、なんかよくないですけど」
「大丈夫よ。謹慎は全部私が悪いことだし、峰岸ちゃんが気を遣う事じゃないわ。貯えもあるし」
二か月前。循環器内科のベテラン看護師の三浦一美が、医薬品の窃盗で謹慎処分になった。
そのニュースは、循環器内科の看護師も、かつて一美に世話になった後輩たちも皆知っていた。
ただ、一美が他の後輩に探りを入れた限り、他の科では”重大な不祥事があった”というレベルでしか伝わっていないようだった。
幸いにも、
なぜ三浦一美のようなベテランがそんなことをしたのか?
医薬品を盗んだところで何をするつもりだったのか?
不審な点は無数にあった。
大方、「三浦一美は重大な
峰岸は恐らく、その全貌を知らない。
それゆえに、
”優しい先輩”の仮面を被りながら、一美は笑顔で話を続ける。
「その……LINEでも言ってましたけど、梓ちゃんは帰ってきたんですよね?」
「ええ。今年の三月にね。捜索願も取り下げたわ」
一美が笑って言うと、「良かった……」と峰岸は目を潤ませて笑った。
鞄からハンカチを取り出して、目元をぬぐった。
「本当に良かったです……勝手なことですけど、私も知り合いに聞いたりしたのに全く手がかりが無くて……瀬良がまだ保育に入ってないので、動きも取れなくて」
「いいのよ。母親が自分の子を一番優先するのは普通のこと。ね?」
一美が笑うと、涙にぬれた顔で峰岸も笑った。
「あなたが何度も励ましてくれただけでも、私は本当に救われたのよ。私がしっかりしなくてどうするって気持ちで頑張れた」
「そ、そんな……」
「瀬良くんの笑顔、本当に可愛かったわ。峰岸ちゃんも大変だったのに、警察に捜索願を出すときも一緒に来てくれたじゃない」
本当は違った。
可愛かった、なんて思うこともできはしなかった。
自分の子だけ、どうして理不尽に奪われたのか。
どす黒い怒りが渦巻いていた。
罪のない親子にそんな怒りを持つことが、最低なことだとわかっていても。
「いえ、できることをしただけです。三浦さんの受け売りですけど……」
一美が職場で度々後輩に言っていた言葉。
「自分はできることをしただけ」というのは三浦一美の口癖だった。
一美は静かに、心の中に用意した”台本”を一つめくった。
今回の会は、決してただのママ友会ではない。
まずは、一つ目の”選考”を始める。
「まだまだ私なんて母親素人ですよー。瀬良の保育園から熱出たって電話が来るたびに職場でも泣いちゃうぐらいで」
「そうよね。ちょっとした熱でも救急車呼ぶかって悩んじゃう。私もそうだったわ」
それは半分本当で半分嘘だった。
医療の知識のある自分であっても、我が子の危機の前では理性なんて吹き飛んでしまう。
「三浦さんでもそうだったんですね……なんか安心しました。三浦さん、すごく頭いいですし落ち着いてるじゃないですか」
「ありがとう。仕事だし、患者さんもどうしても危ない状態の人が多いし気が張ってたのよ。峰岸ちゃんも循環器いたときそうだったでしょ?」
「ええもちろん。ほとんど寝れませんでしたよ……三浦さんも?」
「若い頃はそうだったわ。……まあ、
一美は子育ての話題から、自分の書いた邪悪な台本の上へ、峰岸を誘い込んだ。
「今も……? あ、す、すみません。その、謹慎のショックとか」
「そんなのじゃないわ。……梓のことよ」
一美は笑顔を消した。
峰岸の顔からも、笑顔が消えた。
明らかに困惑し、悪い方向の可能性を考えている。それでいい。
この選考で試すべきは、その感情の振れ幅だ。
「……梓は帰ってきたけど、いま、家にいるの。家から出られない」
「い、いえから……?」
一美はコーヒーをわずかに飲み、一度、峰岸の目を見た。
「……私のことを、話してもいいかしら? 聞いていて決して気持ちのいい話ではないと思うけど」
先輩であり恩人という力をこめた言葉を、かつて世話した後輩へ投げつけた。
それは、ただの井戸端会議だと思い油断していた峰岸に深く刺さった。
峰岸は姿勢を正し、「は、はい……」と呟いた。
一美は心の中で、昏い笑みを浮かべた。
「あの子は……心も体もボロボロで帰ってきたのよ。逃げるように。警察にも相談したけれど、証拠がつかめなかった」
「け、けいさつ……?」
峰岸が唾を飲み込む。
もう手元のスコーンに手を付ける気分にもならなかった。
「…………名前は分からないけど、深い山の中で暮らす自然回帰派のコミュニティに梓はいたの。電気やガスを使わずに自給自足で暮らす、独裁者が作ったコミュニティにいたの」
それは警察を騙す時に使った嘘だった。
「きっかけは受験のストレス……だったらしいわ。私がちょっと、強く言いすぎちゃって……家出して、たまたま誘われて、最初は優しくしてもらえたらしいけど……急にひどい扱いをされて、そこからはずっと」
「食べ物も素人の薬膳料理ばかりで、畑の開拓や森の開墾をさせられたらしいわ。寝る時間も決められて、草を敷いただけの寝床だった、って」
一美は顔を伏せて、用意していたハンカチで顔を覆った。
本当に梓がそんなところにいたら、という想像だけで、一美の体はいくらでも涙を作ってくれた。
「一年経って、外界との交流日に、命がけで脱走して、大けがをして帰ってきたのよ。心にも、体にも」
ハンカチをずらし、僅かに眼前の後輩の顔を見た。
峰岸の頬にも涙が伝っていた。目を見開いて、しかし声は出さず。
敬愛する先輩の子に降りかかった悲劇に、その心は既に捕らわれていた。
一美は悲痛な顔のまま、続ける。
「……スマホは取り上げられていたし、梓も何日も走って逃げたから、山のどこに拠点があるのかはわからない。私だってそこを潰したいわけではないの。梓が帰ってきたから、もういいのよ」
峰岸の夫が警察関係者でないことも調査済みだった。
間違いなく、素人が調べたところでそんなものは出てこない。
存在しないのだから。
「あっ……梓ちゃんは生きてるんですよね!?」
峰岸が堪えきれずに身を乗り出して聞いた。
「生きているわよ。なんとかね」と一美は呟いた。
それはあながち間違ってはいない。
少なくとも峰岸の子のように、心臓が動いてはいないが。
「……ごめんなさいね、いきなり場を乱すようなことを」
「い、いえ! そんなことないです! その、教えてください。梓ちゃんは今……」
一美の中の選考項目の一つにマルがついた。
一美は用意した台本を読み上げていく。
「……正直……分からないことが多いわ。見たことが無い病気にかかっている、という状況。所見としては、長期にわたる重度の栄養失調、特殊な生活とストレスを発症因子の一つとする複合疾患よ。
免疫系や骨髄機能、神経系に異常があって、皮膚や網膜組織に変性が見られる。
皮膚ポルフィリン症は、日光への過敏反応や結膜炎を主な症状とする疾患である。
「原因は分からないけど……カルトが素人知識で調合した薬物や、異常な生活様式で発生したものかもしれない」
一美はすらすらと嘘の台本を読み上げていく。
「そのカルトは病院のような部屋で、梓や他の信者に色々な薬物……薬物と呼べるのかもわからない物を大量に投与したらしいわ。どんなものをどれくらいの期間投与されていたか、追跡も出来ない。
重金属の蓄積も有り得る。太陽の光を遮断して、昼も夜もわからない薄暗い中で暮らしていたって」
峰岸は唇を噛んでいた。
面白半分に弱者を弄ぶ外道への怒りを募らせていた。
「だから、梓は病院に対して強いトラウマを持ってる。検査で詳しく調べることはできないのよ」
一美はふうっと深い息をついて、うなだれた。
ここで一度止めることも想定済み。
明らかに無理な説明をしているのだから、必ず疑問を抱くはず。
「……あっ、あの……三浦さんを疑うわけじゃないんですけど、その……検査とかせずに、免疫疾患だってどうやって」
食いついた。
一美は顔を上げて、「一度だけ調べたの」と呟く。
「梓が帰ってきて、怪我の手当ても兼ねて……昔お世話になった大学病院の元先生に診てもらったのよ。検体も採ってもらって。公的診療じゃないから、あまり大きな声では言えないけど」
もちろんそんな人は実在しないし、仮にそんなことを院外で無許可で行えば処罰されるだろう。
峰岸も違法性は理解しているはずなので、言葉をさらに続ける。
「『梓のPTSDが深刻で、通常の医療機関の受診は危険すぎるから、それ以降の診察はやめたほうがいい。治療法を調べてみるから、それまでは自宅で経過観察しなさい』って言われたのよ。
私だって無理は言えないわ。それに……梓を
実態として、希少疾患と疑われるものが発見されたとき、患者の同意なく研究対象とされることは無い。
一美も当然それを知りながらも、峰岸の知識や論理ではなく、感情に訴えていた。
ここで与えるべきは”国の疾病管理プロセス”という見えない魔物への恐怖心だ。
「梓は……免疫疾患で普通のものはもう食べられないの。
「ポルフィリン症の合併症で、眼球のブドウ膜に慢性の炎症が起きてる。
ずっと目が赤くて泣き腫らしたようになってる……ずっと泣いているのよ。梓は」
一美は台本のページから偽りに満ちた言葉を切り取り、それを峰岸へ投げつける。
知識がある者だからこそわかる刃となって、峰岸の心を切り裂いていく。
「ある意味、謹慎中でよかったのよ。ずっと梓の様子を見ていられるから。私にもしばらく口をきいてくれなかったけど、最近ようやく、少しだけ心を開いてくれた」
目的のためなら、愛する娘を存在しない病気に罹患させ、医療従事者としての誇りを踏みにじることすらする。
一美は自分の人間性を切り取って、峰岸の心を斬っていた。
切り取られた人間性はあまりに鋭利で、痛みに引き裂かれた母親の心から同情を引き出すには、十分すぎる威力だった。
一美は峰岸の反応を伺った。
峰岸は涙目で、きゅっと唇を引き結んで俯いている。
「……聞いてくれてありがとう。峰岸ちゃん。ちょっとだけ気持ちが楽になったわ」
一美は意図的に纏った負の気配を霧散させ、ふうっと息をついてコーヒーを飲んだ。
峰岸は「はい……」と小さく呟き、一度コーヒーを口に含んだ。
数秒沈黙し、涙を拭いて顔を上げた。
眼前の先輩の話の中に、無数の違和感はあった。
おかしなところはたくさんある。
本当かもわからないことがたくさんある。
しかし、峰岸の中の感情が、論理的な懸念を押し込めた。
「……三浦さん、私にできることって、ありますか?」
峰岸の”第一選考”合格が内定した。
一美は笑みを浮かべたい気持ちを抑え、悲痛な顔で応じる。
「……話を聞いてもらえるだけでいいのよ。私がやってることは間違ってる。その先生にも迷惑をかけているし、旦那にも」
「ま、間違ってないですっ。三浦さんは梓ちゃんを助けたいだけですよ!」
峰岸が思わず大声をあげていた。
周りの視線が刺さったことに気付き、「す、すみません」と頭を下げた。
「……ごめんなさいね。ちょっと、私も精神的に疲れてて。峰岸ちゃん、私のためにありがとう」
「い、いいえ。いいんです」
一美は手元のスマホを確認した。1時間ほど経っている。
確かな手ごたえがあった。
峰岸は次の選考に進ませるべき人材だ。
「……もし峰岸ちゃんが良ければだけど、また、話を聞いてもらえるかしら」
「もちろんですっ。梓ちゃんのことも心配ですし」
峰岸はぐっと拳を握って頷いた。
それから一美は二人分のカフェの代金を支払い、歩いて帰宅の途に着いた。
真上に輝く太陽が眩しい。今日の気温は32度らしい。
そろそろ梅雨が明けて、娘にとって厳しい季節がやってくる。
夏が来れば太陽が一日のほとんどを支配し、娘が好きな格好で外出できる時間も減る。
そう考えると、ただ暑い以上に真上の太陽が恨めしくなってくる。
自分がもし神なら、あの太陽を地上から消し去ってしまうかもしれない。
そうすれば娘も、もっとのびのび暮らせるはずだから。
永遠に闇が訪れてもいい。その闇こそが、娘の心地よい場所なのだから。
この”選考”は、4月に謹慎になってすぐに計画を立てた。
血液製剤の窃盗がバレることも想定済みだったし、梓がまたおなかがすくことも想定済みだった。
だからより永続的に、血液を得る方法を探さなければならない。
理論上はできることだが、現実はうまくはいかなかった。
不祥事で謹慎になった自分に、休みの日を使ってまで会う後輩なんてそう多くは無かった。
そこから第一選考をパスできる人格の持ち主となると、さらに減っていた。
これで一次選考の突破者は二人目になる。
願わくばこの二人が、次の選考もパスしてほしい。
そうしないと、娘がおなかをすかせてしまう。
そろそろ娘が帰ってくる。娘にこんな姿は見せられない。
家に帰ってシャワーを浴びて、リビングでくつろいでおこう。ただ静かに休んでいるママの姿に戻ろう。
積み重なる罪は、この体の中に全て閉じ込める。
娘はただ、笑って学校生活を謳歌してほしい。
理不尽に奪われた人間としての生の続きを、楽しんでほしい。
私の全ては、娘のために。