はらぺこヴァンパイア   作:棗の

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奇跡の道筋-6月14日14時58分

梓(あずさ)はどうして日曜日にいないんだろう?

家族と過ごすなんて、正直、嘘っぽい。

 

 

…………もしかして。

 

 

「……中村(なかむら)と会うから?」

 

 

恐ろしい可能性が由佳(ゆか)の心の底から首をもたげて、由佳の口をそのまま乗っ取った。

 

 

毎週日曜日だけ。定期的に。

梓は真面目だしやりそう。

 

月曜から土曜日はお付き合いして、日曜日に秘密の関係。

映画でよくそんなのを見る。

 

土曜日まではわたしの彼女。

日曜日だけ、中村の――

 

 

梓はいきなり出た中村の名前に、体がびくりと震えた。

映画を見に行った話は全然してないし、聞かれない限りするつもりもなかった。

 

 

由佳はその動揺を見逃さなかった。

芽吹いた疑惑が梓への信頼と自制心を吹き飛ばし、燃え盛る嫉妬と焦燥感を肥料に、爆発的に成長する。疑惑の蔓が由佳の体を乗っ取った。

 

 

掴んだ梓の片手を引っ張って、梓の顔を怒りと悲しみで睨みつけた。

 

 

「やっぱり! 中村とデートしてるんでしょ!? お昼の間ずっと会ってるからLINEしても反応ないんでしょ! わたしとはお昼デートしてくれないのに!!」

 

「ゆ、ゆか、ちが」

 

「何が違うの!? 浮気がばれたから焦ってるんでしょ!? ねぇ! 男相手だから浮気にならないと思ったの!?」

 

信じられない。

本っ当に信じられない!

 

梓がそんな軽い女だったなんて。

男はセーフなんて絶対にあり得ないのに!

 

ネットで見たレズの浮気パターンと一緒。ストレートの人と付き合ったらすぐに男になびいて浮気される。

わたしはそんなことないって思ったのに、付き合って一か月でされた!

梓は特別な人だと思ってた。だけど普通の、男になびく女だった。

 

 

 

わたしはいつだって奪われる側。

 

 

 

由佳は衝動のままに梓の両肩を掴んだ。

ほんの数日前の失敗の時のように。

 

「あずさ! なんでっ! なんでそんなことするの!? わたしがイヤなの!? ねぇ!!」

 

由佳の金切り声みたいな叫び声があがる。

正門を出て学校の裏手に行く途中で、人影はまばら。

 

梓は周りから数人の視線を感じた。見た限り、知らない人ばかりだけど。

 

「由佳落ち着いて。ここは学校だよ。落ち着いて」

 

「知らない! 聞きたくない! 浮気者の言い訳なんて聞きたくないっ!」

 

梓は爆発した由佳を落ち着かせようと、目を逸らさずにちゃんと言おうとする。

 

話せばきっと、わかってくれるから。きっと。

 

「な、中村くんは友達だよ。お付き合いするつもりはない。

 ……誰かと会ってるわけじゃなくて、寝てるだけなの」

 

梓はまた一枚、自分の嘘を剥がしてその裏側を見せた。

 

しかし由佳には何も届いていなかった。

 

「梓寝なくていいはずでしょ!? そこまでして浮気したいの!?」

 

「だから中村くんはただの友達――」

 

「それは梓がそう思ってるだけでしょ!? あいつは梓に下品な事したいっていつも思ってる! 梓のためになんて絶対ならない!」

 

 

言葉をぶちまけるごとに、由佳の中の怒りが悲しみに変わっていく。

 

 

 

わたしはいつだって奪われる側。

 

 

 

一方の梓は、由佳の感情の爆発に焦っていた。

 

前と違ってここは学校だし、見てる人も何人かいる。

目立ちたくないし、由佳に恥ずかしい思いさせたくない。

 

それに、友達のことをそんなふうに言われると、気持ちがもやもやする。

 

中村くんと由佳はほとんど話したこともないはずなのに、そんなこと言ってほしくない。

 

ごめんと心の中で謝って、梓はぎゅっと由佳の腕を握った。

 

 

由佳の言葉が止んだ。

 

由佳が目を見開いて、自分を見ている。

それは、恐怖かもしれない。

 

「由佳。落ち着いて。ここは学校だよ」

 

それは梓なりの、この場を乱す人への非難と、友達に悪口を言うことへの嫌悪も含まれていた。

とりあえず落ち着けて、あとでちゃんと謝って説明しようと決意して言った。

 

 

しかしそれは、由佳からすれば、梓(・)か(・)ら(・)の(・)明(・)確(・)な(・)否(・)定(・)だ(・)っ(・)た(・)。

 

 

「う……ふえぇ……」

 

由佳の顔がじわりとゆがんで、ぼろぼろと目から涙が零れ落ちていく。

子どもみたいに由佳が泣きだしたのはその数秒後だった。

 

 

梓の胸がきゅうっと痛む。

 

怖がらせたかもしれない。

だけどここは学校で、人目がある。

なんとかしないと。

 

「ごめんっ」

 

由佳の膝裏と肩裏に腕を入れて、抱きかかえるように持ち上げた。

ぐっと足元に力を入れて、跳びあがった。

学校の周りを取り巻く家々の一角、路地のように狭くなったところへ梓は走った。

 

 

突然抱きかかえられた由佳の泣き声が止んだ。

 

急な浮遊感と、すぐ近くにある恋人の顔。

そして腕に当たる梓の柔らかい感覚。

 

 

わたし、いま、梓(・)に(・)お(・)姫(・)様(・)抱(・)っ(・)こ(・)さ(・)れ(・)て(・)る(・)?

 

 

路地に跳ぶように入った梓は、由佳をそっと下ろした。

「ごめんね、けがはない?」と申し訳なさそうに言った。

 

 

「う、うん……あの、あずさ」

 

「痛くなかった?」

 

まずそれが何よりも梓にとって気になることだった。

 

「うん……」

 

由佳は惚けたまま答えた。

冷たい感覚が、体のあちこちに残ってる。

 

 

すごい。ほんとだったんだ。梓が力持ちだって。

リュック担いでるのにあんなに軽く持ち上げられちゃった。

 

それに梓、空飛んでた気がする。

ふわふわ動いてた。

すごい。やっぱりヴァンパイアなんだ。

 

かっこいい。

 

 

梓はふうっと息をついて、「よかった」と言った。

本当に心の底から安心したように。

 

 

「怖がらせてごめんなさい。でもあそこだと、人がたくさん見てたから。ちゃんと説明するから。ね?」

 

 

梓が由佳の目線に合わせてしゃがむと、由佳は涙を拭いてこくりと頷いた。

そして由佳はぎゅうっと梓の背中に手を回して抱きついた。

 

ふわりと甘い香りが漂う。梓の匂い。

荒れ狂う心の中の嵐が、梓への好きの気持ちと混ざって、ぐちゃぐちゃになっていく。

 

梓は抱き着いた由佳を、そっと抱きしめた。

強すぎない力で、由佳が寒いと思わないように、素肌に触らないように。

 

「あずさ……離れないよね?」

 

由佳はぐしゃぐしゃの気持ちで、梓を見上げて言う。

崩壊しそうな自我を、梓への気持ちで縫合していく。

 

「う、うん。離れないよ」

 

梓は、そう答えるしかなかった。

 

きっとわかってくれるから、と念じて、梓は言葉を紡いでいく。

 

「中村くんはただの友達だよ。日曜日に会っているんじゃなくて、私の体質で日曜日は動けない。

夜まで眠っているからなの。誰とも連絡取ってない。本当だよ」

 

本当はまず、友達の中村を悪く言った由佳を怒りたかった。

だけどそれは言えなかった。

人殺しの怪物が、他人に説教なんてする資格はないから。

 

「たい、しつ……?」

 

由佳にようやく、梓の言葉を聞く余裕が出ていた。

 

「確かに普段眠る必要はないけど、体を調整するために一週間に一度は休まないといけないの。

……言いたくなかったけど、言わないとわからないことだし」

 

「……どうして?」

 

「どうしてって……わからない。そういうふうになってるから」

 

「ずっと寝てるの?」

 

「寝てるよ。前の日の10時から、日曜日の日が沈むまで寝てる」

 

 

由佳は梓の冷たい体から伝わる気持ちを読み取ろうとした。

嘘を言っているようには聞こえない。

 

ここが誰とも知れない家の路地であることを忘れて、由佳は梓の香りを感じていた。

甘いボディソープの香り。梓の香り。

自分の顔の前には、ブレザー越しでもわかるほど柔らかくて大きい梓の胸がある。

 

 

心臓の鼓動がすごく早い。

このままキスできてしまいそう。

 

由佳は涙を拭いて、梓の頬に口づけした。

冷たくて柔らかい頬の感触で、胸の奥で暴れるトゲトゲした気持ちがおさまっていく。

孤独に震える心が、言葉を発していく。

 

 

「あずさ、おねがい。ぎゅってして」

 

由佳の言葉に、梓はおそるおそる、強めに由佳を抱きしめた。

「きゅぅ」と由佳が小さく声を出し、ますます強く梓を抱きしめた。

 

 

「痛くない?」

 

「うん……すき……あずさ、だいすき……」

 

由佳は熱に浮かされ陶酔した口調で呟く。

一方の梓は、ふうっと一息ついて、落ち着いた由佳をそっと離そうとした。

 

 

「……じゃあ、中村とはもう何もしてないの?」

 

 

しかし、由佳は離さなかった。

 

燃えていた嫉妬が混ざって、ぐるぐると渦巻いて、口を突いた。

油汚れみたいにどろどろで何度洗っても落ちない気持ちが、口に絡みついて言葉を作った。

 

 

由佳の心の中に渦巻く炎は消えていなかった。

今は確かに、梓は自分のものになっている。

でもこのあと離れるのが怖い。

冷静に考える暇なんてない。

とにかく寂しくて、悲しくて、離れたくなくて、自分だけのものにしたくて。

 

 

 

梓は数秒、悩んだ。

 

 

嘘をつくべきか、正直に言うべきか。

 

 

そうして、由佳を信じることにした。

 

 

由佳にはちゃんと、由佳だけが特別で、他の人は友達だって言ってる。

 

由佳は話せばわかってくれた。

大丈夫。きっと。

きっと、わかってくれるから。

 

 

 

「……な、中村くんと千夏(ちなつ)ちゃんと、昨日映画を見に行ったよ。友達同士で」

 

 

 

梓からは、自分の胸に顔をうずめた由佳の表情は見えない。

 

 

 

 

遠くから運動部の声が聞こえる。

野球部がランニングしている声。

 

 

 

 

 

「…………誰が誘ったの?」

 

 

 

 

 

由佳の声はひどく冷たかった。梓は動いていない心臓が震える気がした。

 

 

「な、中村くんから。千夏ちゃんも一緒にいる時に、一緒に行こうって」

 

 

そ(・)れ(・)は(・)決(・)定(・)的(・)な(・)背(・)信(・)行(・)為(・)だ(・)っ(・)た(・)。

 

 

八坂の件はまあ友達同士と言えなくもないし、広い心で許すつもりだった。

許したくなんかないけど、そうするしかないと思ったから。

 

 

だけどそれは違う。

 

 

デートだ。

 

中村は千夏まで利用して梓とデートしようとした。

 

下品な男だし、どうせ女の子二人に囲まれて嬉しい程度しか思ってない。

 

それだけでも許せないのに、梓はそれを受けた。

 

そして昨日、デートに行った。

 

 

わたしがいるのに。

 

わたしとつきあってるのに!

 

 

梓はわたしのものなのに!!

 

 

由佳が振りほどくように梓から離れた。

 

まるで汚いものを見るような目で、梓を睨みつけていた。

両目からぼろぼろと涙を流していた。

梓の僅かなぬくもりは、もう手から消えていた。

 

 

「……なんでそんなことできるの? デートだよ。それ」

 

両手の拳をぎゅっと握って、由佳は梓に言葉を投げつけた。

 

梓は一瞬怯んで、けれども退かなかった。

赤い目で由佳をじっと見て、諭すように言う。

 

「友達同士で、遊びに行っただけだよ。手も繋いでないし、映画を見に行っただけ」

 

「そう思ってるのは梓だけ! 中村も……千夏も!

 なんでっ……なんで……なんで千夏がそんなことするの! わたしの味方だと思ったのに!」

 

綺麗で大人っぽくて、いつも冷静で頭もいい千夏。

 

梓ほどじゃないけど、見てると胸がきゅんとしてしまう友達。

 

わたしにも優しくて、八坂(やさか)と喧嘩になった時も場を取り持ってくれた。

わたしと違って友達もたくさんいる。

 

大人っぽくて、憧れてて、胸がきゅんきゅんする、大切な友達。

 

 

千夏なら、梓と一緒にいてもまあ仕方ないかって思えるぐらいの人なのに。

 

 

その千夏が、どうしてわたしを裏切ったの?

 

 

ありえない。

わたしのせいじゃない。

梓のせいでもない。

 

 

……中村(おとこ)だ。

あいつが唆したんだ。

 

 

全部全部あいつが悪い。

千夏が梓を汚すはずなんてない。

 

 

千夏がわたしのこと嫌いだなんてありえない!

 

 

 

「……由佳、よく聞いて」

 

梓は動いていない心臓を捕まれた気持ちだった。

ぎゅっと拳を握って、爆発寸前の由佳をなだめようと言葉を紡ぐ。

 

「私は、中村くんと友達以上になる気はないよ。由佳が恋人だってことに変わりはないから」

 

 

梓の中で、由佳が中村を嫌っていることは、出来れば間違いであってほしかった。

誰かが誰かを嫌ってるなんて事実知りたくないし、認めたくもない。

みんなと仲良くしたかったから。

 

その原因がもし自分だったのなら、もっともっと自分のことを嫌いになってしまうから。

 

 

「言い訳しないで! 男なんかのところにいかないで! わたしを捨てないでっ!!」

 

「そんなことしないよ。由佳、お願いだから聞いて。中村くんはただの友達だよ」

 

梓は由佳に手を伸ばそうとしたが、由佳が自分の体を抱いて一歩下がった。

 

「やだっ! 梓はだめなの! 男でも女でもだめ! わたし以外だめなのっ!」

 

由佳の放った言葉は梓にしっかりと届いて、梓はそれをしっかりと噛みしめた。

 

 

それは梓がたくさん考えた言葉と気持ちへの、明確な否定だった。

 

 

譲歩しているのに、なんて思っているわけじゃない。

由佳は一番で、それ以外の人は友達。

そう伝えたいはずなのに、由佳はわかってくれてない。

 

 

由佳にだって友達はいるのに。

どうして私だけ?

 

 

梓の心の奥の昏い部分から、僅かに感情が漏れてくる。

 

 

「……じゃあ私は由佳としか遊んじゃいけないってこと? それはちょっと違うと思うけど」

 

 

いつもと違う梓の口調に、由佳の感情の奔流が止まる。

 

由佳は謝ろうとしたが、そこにいない中村の陰が、梓の横にちらついた。

 

 

昨日あんなに寂しかったのに、あの男は梓とデートしてたんだ。

下品な目で私服の梓を見て、自分のものにしたいとか思ってたんだ!

 

 

許さない!

 

 

「そっ、そうだよ! 梓はわたしのものなの! わたしが恋人なんだから!」

 

「……恋人だけど、全部由佳のものってわけじゃないよ。それは違うと思う」

 

「違わない! わたしはイヤなの! 梓と離れたくないの!」

 

 

ここで梓を引き留めないと、わたしのもとを離れちゃう。

中村の所に行っちゃう。

 

 

焦燥感が心を支配して、脳裏に暗黒の記憶がちらつく。

 

わたしのことを気持ち悪いと言った”あの子”は、わたしを捨てて男の所に行った。

わたしがレズビアンだから。

わたしの家庭に問題があるから。

わたしが親に愛されてないから。

 

梓も絶対そうなる。

 

 

 

わたしはいつだって奪われる側。

 

 

 

「離れないよ。由佳、いい加減に落ち着いて」

 

「離れちゃうでしょ!? あんなことあったのに一週間もしないで浮気するなんて! 梓はそんな子じゃないのに! そんな汚いことしないで!」

 

梓は、ぶつけられる言葉がまるで大雨のように感じた。

 

尖った言葉が体に刺さって、黒い血が自分から噴き出ている気がした。

降っていないはずの雨が降っている気がする。不愉快で、痛くて汚い雨。

 

 

――そんな汚いことしないで!

 

 

ひときわ大きな雨粒が傘のない梓の心に刺さって、黒くどろどろした血が噴出した。

 

 

 

どれだけ人間のフリをして、ちゃんとした高校生として生きようとしたって、みんなにはばれてる。

 

汚い人殺しのヴァンパイアだって。

 

 

梓の頬に、赤い涙の一筋が伝った。

気持ちが口を動かす。

 

 

怒(・)り(・)だ(・)っ(・)た(・)。

 

 

「浮気じゃないって言ってるでしょ! 話を聞いて!」

 

梓は目の前で喚き散らす子どもに、いつもよりずっと大きな声で言葉をぶつけた。

牙をむき出しにして、吠えるように。

 

捕食者としての恐ろしい気配が由佳に叩きつけられ、頬を叩かれたような気持ちだった。

身体は止まったけれども、恐怖に震える心は止まらなかった。

 

 

梓が怒ってる。

離れちゃう。

捨てられちゃう。

 

 

「……落ち着いて。お願い。私は由佳の傍を離れたりしないよ」

 

梓は内心で自分を責めながら、怒りをにじませてそう呟く。

 

 

由佳は涙を流しながら、梓に近づいてぎゅうっと抱きしめた。

 

「やだ……やだ……どうせ男の所に行っちゃう……気持ち悪いって思ってる……」

 

「思ってない。お願い。信じて」

 

 

梓は由佳がなぜそんなことを言っているのか、よくわからなかった。

 

怒っていたと思ったら急に泣き出して、由佳の心が相変わらずわからなかった。

 

だけど、由佳が悲しんでいることはわかる。

どうしてかはわからないけれど。

 

 

由佳は涙にぬれた頬を、梓の頬に擦り付けた。

どろりとした何かが自分の頬について、思わず手で拭った。

 

 

黒い、オイルのようなどろどろした冷たい液体。

 

梓の頬の赤い一筋の線の横に、一直線の黒い線が入っていた。

墨汁のような、真っ黒い液体がついていた。

 

 

前にも見たことがある。

告白した後に梓の頬についてたもの。

 

 

なに、これ……?

 

 

「……あ、あずさ、これ」

 

由佳の震える手を梓は見た。

ヴァンパイアのどす黒い血が、由佳の指についていた。

 

 

梓の背筋がすうっと寒くなった。

思わず、由佳を振りほどいた。

 

 

「きゃっ!」

 

ふりほどかれた由佳はバランスを崩して転んだ。

固いコンクリートの地面に手をついて、両手に鈍い痛みが走る。

 

 

由佳は自分の手のひらを見た。

黒いアスファルトの汚れの中に、赤黒い小さな切り傷が無数についていた。

 

 

赤黒い傷。

血が出ている傷。

 

血。

 

 

痛みすら忘れ、由佳の中で可能性が組み立てられていく。

 

奇跡へ向けた道筋が出来あがっていく。

 

 

梓はヴァンパイア。ヴァンパイアが好きな物。

 

わたしがあげるって言ったもの。

 

わたししかできないこと。他の誰にもできないこと。

 

梓を絶対に引き止められる方法。

 

 

迷ったのは数秒だった。

 

由佳は自分の手の浅い擦り傷に爪を立て、ぐっと押し込んで引き裂いた。柔らかい肉が爪の間に入った感覚。

引き裂かれた傷痕から、深紅色の鮮血が噴き出した。

焼け付くような鮮烈な痛みに顔をしかめながらも、立ち上がった。

 

「あっ、ゆ、由佳、だいじょうぶ――」

 

「梓。これ」

 

梓に手のひらを見せた。

だらだらと血を流しているはずの手のひらを。

 

 

「あ…………」

 

 

梓の顔が、変わった。

 

 

悲しみに見開かれていた赤い目が細められて、口元が嗜虐的に笑う。

 

紫がかった舌が、牙を舐めた。

 

悲しみも怒りも一瞬で、ヴァンパイアが吹き飛ばした。

 

 

由佳は勝利の笑みを浮かべた。

 

 

やっぱり。梓はヴァンパイアだから。

 

 

わたしが奪う側になるんだ!

 

 

中村からも、八坂からも、梓の母親からも。誰からも!

 

 

「約束通り、血をあげるから。来て」

 

 

ヴァンパイアは、血を流す由佳の腕をつかみあげた。

 

「いいよ」

 

ヴァンパイアは笑って言った。

 

「どれくらいくれるの?」

 

ヴァンパイアは無邪気な口調で言う。

 

 

由佳は焼け付く手の傷の痛みも、つかみあげられた腕の痛みも忘れていた。

 

 

風が無いのに風が吹いたよう。

まるで夜の鐘楼(しょうろう)の上に自分がいるよう。

 

目の前の恋人は、あまりにもきれいで、幻想的で。

赤く煌めく瞳と、鈍く光る牙が自分を照らしていて。

夜の世界全てを統べる女王で。

 

 

これがほんとうの梓なんだ。

 

 

いつもの梓と違う。

 

 

優しさも、遠慮も何も感じない、仮面のような笑顔。

 

 

この掴まれた腕が、今すぐ折られてしまうかもしれなくて。

 

 

腕を折るなんて、”あの人”から何度も言われたけど、実際されたことなんて一度もない。

 

 

だけど、ほんとうの梓はするかもしれない。

 

 

ありえないのに。

 

 

梓は優しくて、わたしのことを一番に考えてくれて、わたしより大事な物はないはずなのに。

 

 

「た、たくさん。たくさんあげます」

 

声が震えていた。きっと痛いからだ。

 

「ここでたべちゃだめ?」

 

ヴァンパイアの赤い目が、血を流す手のひらを見て言った。

 

 

食べる? 飲むの間違いじゃないの?

そんなことを言えない。今の梓には言えない。

 

 

言ったら、もしかしたら。

 

 

「だ、だめです。このあと来て、ください」

 

赤い目が宙を数秒見て、血を流す手のひらを見た。

 

「どうして、たべちゃだめ?」

 

 

だから、この後渡すからって。

 

そう言ったはずなのに、届いてない。

 

梓に――ううん――”このひと”に。

 

 

ヴァンパイアは、おそろしい力で血を流す腕をつまみ上げている。

紫がかった舌が、梓のきれいな唇から出ていた。

 

まるで、テレビで見た狼やハイエナみたいだった。

 

 

 

怖い。

 

殺(・)さ(・)れ(・)る(・)。

 

 

 

「いっ、いま、た、たべたら、あとでたくさん食べられませんよ!」

 

上ずった声で言葉をぶつけた。

 

 

ヴァンパイアは宙に目を泳がせて、腕から手を離した。

 

 

「わかった」

 

 

嗜虐的な笑みを浮かべて。

 

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