はらぺこヴァンパイア 作:棗の
家族と過ごすなんて、正直、嘘っぽい。
…………もしかして。
「……
恐ろしい可能性が
毎週日曜日だけ。定期的に。
梓は真面目だしやりそう。
月曜から土曜日はお付き合いして、日曜日に秘密の関係。
映画でよくそんなのを見る。
土曜日まではわたしの彼女。
日曜日だけ、中村の――
梓はいきなり出た中村の名前に、体がびくりと震えた。
映画を見に行った話は全然してないし、聞かれない限りするつもりもなかった。
由佳はその動揺を見逃さなかった。
芽吹いた疑惑が梓への信頼と自制心を吹き飛ばし、燃え盛る嫉妬と焦燥感を肥料に、爆発的に成長する。疑惑の蔓が由佳の体を乗っ取った。
掴んだ梓の片手を引っ張って、梓の顔を怒りと悲しみで睨みつけた。
「やっぱり! 中村とデートしてるんでしょ!? お昼の間ずっと会ってるからLINEしても反応ないんでしょ! わたしとはお昼デートしてくれないのに!!」
「ゆ、ゆか、ちが」
「何が違うの!? 浮気がばれたから焦ってるんでしょ!? ねぇ! 男相手だから浮気にならないと思ったの!?」
信じられない。
本っ当に信じられない!
梓がそんな軽い女だったなんて。
男はセーフなんて絶対にあり得ないのに!
ネットで見たレズの浮気パターンと一緒。ストレートの人と付き合ったらすぐに男になびいて浮気される。
わたしはそんなことないって思ったのに、付き合って一か月でされた!
梓は特別な人だと思ってた。だけど普通の、男になびく女だった。
わたしはいつだって奪われる側。
由佳は衝動のままに梓の両肩を掴んだ。
ほんの数日前の失敗の時のように。
「あずさ! なんでっ! なんでそんなことするの!? わたしがイヤなの!? ねぇ!!」
由佳の金切り声みたいな叫び声があがる。
正門を出て学校の裏手に行く途中で、人影はまばら。
梓は周りから数人の視線を感じた。見た限り、知らない人ばかりだけど。
「由佳落ち着いて。ここは学校だよ。落ち着いて」
「知らない! 聞きたくない! 浮気者の言い訳なんて聞きたくないっ!」
梓は爆発した由佳を落ち着かせようと、目を逸らさずにちゃんと言おうとする。
話せばきっと、わかってくれるから。きっと。
「な、中村くんは友達だよ。お付き合いするつもりはない。
……誰かと会ってるわけじゃなくて、寝てるだけなの」
梓はまた一枚、自分の嘘を剥がしてその裏側を見せた。
しかし由佳には何も届いていなかった。
「梓寝なくていいはずでしょ!? そこまでして浮気したいの!?」
「だから中村くんはただの友達――」
「それは梓がそう思ってるだけでしょ!? あいつは梓に下品な事したいっていつも思ってる! 梓のためになんて絶対ならない!」
言葉をぶちまけるごとに、由佳の中の怒りが悲しみに変わっていく。
わたしはいつだって奪われる側。
一方の梓は、由佳の感情の爆発に焦っていた。
前と違ってここは学校だし、見てる人も何人かいる。
目立ちたくないし、由佳に恥ずかしい思いさせたくない。
それに、友達のことをそんなふうに言われると、気持ちがもやもやする。
中村くんと由佳はほとんど話したこともないはずなのに、そんなこと言ってほしくない。
ごめんと心の中で謝って、梓はぎゅっと由佳の腕を握った。
由佳の言葉が止んだ。
由佳が目を見開いて、自分を見ている。
それは、恐怖かもしれない。
「由佳。落ち着いて。ここは学校だよ」
それは梓なりの、この場を乱す人への非難と、友達に悪口を言うことへの嫌悪も含まれていた。
とりあえず落ち着けて、あとでちゃんと謝って説明しようと決意して言った。
しかしそれは、由佳からすれば、
「う……ふえぇ……」
由佳の顔がじわりとゆがんで、ぼろぼろと目から涙が零れ落ちていく。
子どもみたいに由佳が泣きだしたのはその数秒後だった。
梓の胸がきゅうっと痛む。
怖がらせたかもしれない。
だけどここは学校で、人目がある。
なんとかしないと。
「ごめんっ」
由佳の膝裏と肩裏に腕を入れて、抱きかかえるように持ち上げた。
ぐっと足元に力を入れて、跳びあがった。
学校の周りを取り巻く家々の一角、路地のように狭くなったところへ梓は走った。
突然抱きかかえられた由佳の泣き声が止んだ。
急な浮遊感と、すぐ近くにある恋人の顔。
そして腕に当たる梓の柔らかい感覚。
わたし、いま、
路地に跳ぶように入った梓は、由佳をそっと下ろした。
「ごめんね、けがはない?」と申し訳なさそうに言った。
「う、うん……あの、あずさ」
「痛くなかった?」
まずそれが何よりも梓にとって気になることだった。
「うん……」
由佳は惚けたまま答えた。
冷たい感覚が、体のあちこちに残ってる。
すごい。ほんとだったんだ。梓が力持ちだって。
リュック担いでるのにあんなに軽く持ち上げられちゃった。
それに梓、空飛んでた気がする。
ふわふわ動いてた。
すごい。やっぱりヴァンパイアなんだ。
かっこいい。
梓はふうっと息をついて、「よかった」と言った。
本当に心の底から安心したように。
「怖がらせてごめんなさい。でもあそこだと、人がたくさん見てたから。ちゃんと説明するから。ね?」
梓が由佳の目線に合わせてしゃがむと、由佳は涙を拭いてこくりと頷いた。
そして由佳はぎゅうっと梓の背中に手を回して抱きついた。
ふわりと甘い香りが漂う。梓の匂い。
荒れ狂う心の中の嵐が、梓への好きの気持ちと混ざって、ぐちゃぐちゃになっていく。
梓は抱き着いた由佳を、そっと抱きしめた。
強すぎない力で、由佳が寒いと思わないように、素肌に触らないように。
「あずさ……離れないよね?」
由佳はぐしゃぐしゃの気持ちで、梓を見上げて言う。
崩壊しそうな自我を、梓への気持ちで縫合していく。
「う、うん。離れないよ」
梓は、そう答えるしかなかった。
きっとわかってくれるから、と念じて、梓は言葉を紡いでいく。
「中村くんはただの友達だよ。日曜日に会っているんじゃなくて、私の体質で日曜日は動けない。
夜まで眠っているからなの。誰とも連絡取ってない。本当だよ」
本当はまず、友達の中村を悪く言った由佳を怒りたかった。
だけどそれは言えなかった。
人殺しの怪物が、他人に説教なんてする資格はないから。
「たい、しつ……?」
由佳にようやく、梓の言葉を聞く余裕が出ていた。
「確かに普段眠る必要はないけど、体を調整するために一週間に一度は休まないといけないの。
……言いたくなかったけど、言わないとわからないことだし」
「……どうして?」
「どうしてって……わからない。そういうふうになってるから」
「ずっと寝てるの?」
「寝てるよ。前の日の10時から、日曜日の日が沈むまで寝てる」
由佳は梓の冷たい体から伝わる気持ちを読み取ろうとした。
嘘を言っているようには聞こえない。
ここが誰とも知れない家の路地であることを忘れて、由佳は梓の香りを感じていた。
甘いボディソープの香り。梓の香り。
自分の顔の前には、ブレザー越しでもわかるほど柔らかくて大きい梓の胸がある。
心臓の鼓動がすごく早い。
このままキスできてしまいそう。
由佳は涙を拭いて、梓の頬に口づけした。
冷たくて柔らかい頬の感触で、胸の奥で暴れるトゲトゲした気持ちがおさまっていく。
孤独に震える心が、言葉を発していく。
「あずさ、おねがい。ぎゅってして」
由佳の言葉に、梓はおそるおそる、強めに由佳を抱きしめた。
「きゅぅ」と由佳が小さく声を出し、ますます強く梓を抱きしめた。
「痛くない?」
「うん……すき……あずさ、だいすき……」
由佳は熱に浮かされ陶酔した口調で呟く。
一方の梓は、ふうっと一息ついて、落ち着いた由佳をそっと離そうとした。
「……じゃあ、中村とはもう何もしてないの?」
しかし、由佳は離さなかった。
燃えていた嫉妬が混ざって、ぐるぐると渦巻いて、口を突いた。
油汚れみたいにどろどろで何度洗っても落ちない気持ちが、口に絡みついて言葉を作った。
由佳の心の中に渦巻く炎は消えていなかった。
今は確かに、梓は自分のものになっている。
でもこのあと離れるのが怖い。
冷静に考える暇なんてない。
とにかく寂しくて、悲しくて、離れたくなくて、自分だけのものにしたくて。
梓は数秒、悩んだ。
嘘をつくべきか、正直に言うべきか。
そうして、由佳を信じることにした。
由佳にはちゃんと、由佳だけが特別で、他の人は友達だって言ってる。
由佳は話せばわかってくれた。
大丈夫。きっと。
きっと、わかってくれるから。
「……な、中村くんと
梓からは、自分の胸に顔をうずめた由佳の表情は見えない。
遠くから運動部の声が聞こえる。
野球部がランニングしている声。
「…………誰が誘ったの?」
由佳の声はひどく冷たかった。梓は動いていない心臓が震える気がした。
「な、中村くんから。千夏ちゃんも一緒にいる時に、一緒に行こうって」
八坂の件はまあ友達同士と言えなくもないし、広い心で許すつもりだった。
許したくなんかないけど、そうするしかないと思ったから。
だけどそれは違う。
デートだ。
中村は千夏まで利用して梓とデートしようとした。
下品な男だし、どうせ女の子二人に囲まれて嬉しい程度しか思ってない。
それだけでも許せないのに、梓はそれを受けた。
そして昨日、デートに行った。
わたしがいるのに。
わたしとつきあってるのに!
梓はわたしのものなのに!!
由佳が振りほどくように梓から離れた。
まるで汚いものを見るような目で、梓を睨みつけていた。
両目からぼろぼろと涙を流していた。
梓の僅かなぬくもりは、もう手から消えていた。
「……なんでそんなことできるの? デートだよ。それ」
両手の拳をぎゅっと握って、由佳は梓に言葉を投げつけた。
梓は一瞬怯んで、けれども退かなかった。
赤い目で由佳をじっと見て、諭すように言う。
「友達同士で、遊びに行っただけだよ。手も繋いでないし、映画を見に行っただけ」
「そう思ってるのは梓だけ! 中村も……千夏も!
なんでっ……なんで……なんで千夏がそんなことするの! わたしの味方だと思ったのに!」
綺麗で大人っぽくて、いつも冷静で頭もいい千夏。
梓ほどじゃないけど、見てると胸がきゅんとしてしまう友達。
わたしにも優しくて、
わたしと違って友達もたくさんいる。
大人っぽくて、憧れてて、胸がきゅんきゅんする、大切な友達。
千夏なら、梓と一緒にいてもまあ仕方ないかって思えるぐらいの人なのに。
その千夏が、どうしてわたしを裏切ったの?
ありえない。
わたしのせいじゃない。
梓のせいでもない。
……
あいつが唆したんだ。
全部全部あいつが悪い。
千夏が梓を汚すはずなんてない。
千夏がわたしのこと嫌いだなんてありえない!
「……由佳、よく聞いて」
梓は動いていない心臓を捕まれた気持ちだった。
ぎゅっと拳を握って、爆発寸前の由佳をなだめようと言葉を紡ぐ。
「私は、中村くんと友達以上になる気はないよ。由佳が恋人だってことに変わりはないから」
梓の中で、由佳が中村を嫌っていることは、出来れば間違いであってほしかった。
誰かが誰かを嫌ってるなんて事実知りたくないし、認めたくもない。
みんなと仲良くしたかったから。
その原因がもし自分だったのなら、もっともっと自分のことを嫌いになってしまうから。
「言い訳しないで! 男なんかのところにいかないで! わたしを捨てないでっ!!」
「そんなことしないよ。由佳、お願いだから聞いて。中村くんはただの友達だよ」
梓は由佳に手を伸ばそうとしたが、由佳が自分の体を抱いて一歩下がった。
「やだっ! 梓はだめなの! 男でも女でもだめ! わたし以外だめなのっ!」
由佳の放った言葉は梓にしっかりと届いて、梓はそれをしっかりと噛みしめた。
それは梓がたくさん考えた言葉と気持ちへの、明確な否定だった。
譲歩しているのに、なんて思っているわけじゃない。
由佳は一番で、それ以外の人は友達。
そう伝えたいはずなのに、由佳はわかってくれてない。
由佳にだって友達はいるのに。
どうして私だけ?
梓の心の奥の昏い部分から、僅かに感情が漏れてくる。
「……じゃあ私は由佳としか遊んじゃいけないってこと? それはちょっと違うと思うけど」
いつもと違う梓の口調に、由佳の感情の奔流が止まる。
由佳は謝ろうとしたが、そこにいない中村の陰が、梓の横にちらついた。
昨日あんなに寂しかったのに、あの男は梓とデートしてたんだ。
下品な目で私服の梓を見て、自分のものにしたいとか思ってたんだ!
許さない!
「そっ、そうだよ! 梓はわたしのものなの! わたしが恋人なんだから!」
「……恋人だけど、全部由佳のものってわけじゃないよ。それは違うと思う」
「違わない! わたしはイヤなの! 梓と離れたくないの!」
ここで梓を引き留めないと、わたしのもとを離れちゃう。
中村の所に行っちゃう。
焦燥感が心を支配して、脳裏に暗黒の記憶がちらつく。
わたしのことを気持ち悪いと言った”あの子”は、わたしを捨てて男の所に行った。
わたしがレズビアンだから。
わたしの家庭に問題があるから。
わたしが親に愛されてないから。
梓も絶対そうなる。
わたしはいつだって奪われる側。
「離れないよ。由佳、いい加減に落ち着いて」
「離れちゃうでしょ!? あんなことあったのに一週間もしないで浮気するなんて! 梓はそんな子じゃないのに! そんな汚いことしないで!」
梓は、ぶつけられる言葉がまるで大雨のように感じた。
尖った言葉が体に刺さって、黒い血が自分から噴き出ている気がした。
降っていないはずの雨が降っている気がする。不愉快で、痛くて汚い雨。
――そんな汚いことしないで!
ひときわ大きな雨粒が傘のない梓の心に刺さって、黒くどろどろした血が噴出した。
どれだけ人間のフリをして、ちゃんとした高校生として生きようとしたって、みんなにはばれてる。
汚い人殺しのヴァンパイアだって。
梓の頬に、赤い涙の一筋が伝った。
気持ちが口を動かす。
「浮気じゃないって言ってるでしょ! 話を聞いて!」
梓は目の前で喚き散らす子どもに、いつもよりずっと大きな声で言葉をぶつけた。
牙をむき出しにして、吠えるように。
捕食者としての恐ろしい気配が由佳に叩きつけられ、頬を叩かれたような気持ちだった。
身体は止まったけれども、恐怖に震える心は止まらなかった。
梓が怒ってる。
離れちゃう。
捨てられちゃう。
「……落ち着いて。お願い。私は由佳の傍を離れたりしないよ」
梓は内心で自分を責めながら、怒りをにじませてそう呟く。
由佳は涙を流しながら、梓に近づいてぎゅうっと抱きしめた。
「やだ……やだ……どうせ男の所に行っちゃう……気持ち悪いって思ってる……」
「思ってない。お願い。信じて」
梓は由佳がなぜそんなことを言っているのか、よくわからなかった。
怒っていたと思ったら急に泣き出して、由佳の心が相変わらずわからなかった。
だけど、由佳が悲しんでいることはわかる。
どうしてかはわからないけれど。
由佳は涙にぬれた頬を、梓の頬に擦り付けた。
どろりとした何かが自分の頬について、思わず手で拭った。
黒い、オイルのようなどろどろした冷たい液体。
梓の頬の赤い一筋の線の横に、一直線の黒い線が入っていた。
墨汁のような、真っ黒い液体がついていた。
前にも見たことがある。
告白した後に梓の頬についてたもの。
なに、これ……?
「……あ、あずさ、これ」
由佳の震える手を梓は見た。
ヴァンパイアのどす黒い血が、由佳の指についていた。
梓の背筋がすうっと寒くなった。
思わず、由佳を振りほどいた。
「きゃっ!」
ふりほどかれた由佳はバランスを崩して転んだ。
固いコンクリートの地面に手をついて、両手に鈍い痛みが走る。
由佳は自分の手のひらを見た。
黒いアスファルトの汚れの中に、赤黒い小さな切り傷が無数についていた。
赤黒い傷。
血が出ている傷。
血。
痛みすら忘れ、由佳の中で可能性が組み立てられていく。
奇跡へ向けた道筋が出来あがっていく。
梓はヴァンパイア。ヴァンパイアが好きな物。
わたしがあげるって言ったもの。
わたししかできないこと。他の誰にもできないこと。
梓を絶対に引き止められる方法。
迷ったのは数秒だった。
由佳は自分の手の浅い擦り傷に爪を立て、ぐっと押し込んで引き裂いた。柔らかい肉が爪の間に入った感覚。
引き裂かれた傷痕から、深紅色の鮮血が噴き出した。
焼け付くような鮮烈な痛みに顔をしかめながらも、立ち上がった。
「あっ、ゆ、由佳、だいじょうぶ――」
「梓。これ」
梓に手のひらを見せた。
だらだらと血を流しているはずの手のひらを。
「あ…………」
梓の顔が、変わった。
悲しみに見開かれていた赤い目が細められて、口元が嗜虐的に笑う。
紫がかった舌が、牙を舐めた。
悲しみも怒りも一瞬で、ヴァンパイアが吹き飛ばした。
由佳は勝利の笑みを浮かべた。
やっぱり。梓はヴァンパイアだから。
わたしが奪う側になるんだ!
中村からも、八坂からも、梓の母親からも。誰からも!
「約束通り、血をあげるから。来て」
ヴァンパイアは、血を流す由佳の腕をつかみあげた。
「いいよ」
ヴァンパイアは笑って言った。
「どれくらいくれるの?」
ヴァンパイアは無邪気な口調で言う。
由佳は焼け付く手の傷の痛みも、つかみあげられた腕の痛みも忘れていた。
風が無いのに風が吹いたよう。
まるで夜の
目の前の恋人は、あまりにもきれいで、幻想的で。
赤く煌めく瞳と、鈍く光る牙が自分を照らしていて。
夜の世界全てを統べる女王で。
これがほんとうの梓なんだ。
いつもの梓と違う。
優しさも、遠慮も何も感じない、仮面のような笑顔。
この掴まれた腕が、今すぐ折られてしまうかもしれなくて。
腕を折るなんて、”あの人”から何度も言われたけど、実際されたことなんて一度もない。
だけど、ほんとうの梓はするかもしれない。
ありえないのに。
梓は優しくて、わたしのことを一番に考えてくれて、わたしより大事な物はないはずなのに。
「た、たくさん。たくさんあげます」
声が震えていた。きっと痛いからだ。
「ここでたべちゃだめ?」
ヴァンパイアの赤い目が、血を流す手のひらを見て言った。
食べる? 飲むの間違いじゃないの?
そんなことを言えない。今の梓には言えない。
言ったら、もしかしたら。
「だ、だめです。このあと来て、ください」
赤い目が宙を数秒見て、血を流す手のひらを見た。
「どうして、たべちゃだめ?」
だから、この後渡すからって。
そう言ったはずなのに、届いてない。
梓に――ううん――”このひと”に。
ヴァンパイアは、おそろしい力で血を流す腕をつまみ上げている。
紫がかった舌が、梓のきれいな唇から出ていた。
まるで、テレビで見た狼やハイエナみたいだった。
怖い。
「いっ、いま、た、たべたら、あとでたくさん食べられませんよ!」
上ずった声で言葉をぶつけた。
ヴァンパイアは宙に目を泳がせて、腕から手を離した。
「わかった」
嗜虐的な笑みを浮かべて。