はらぺこヴァンパイア 作:棗の
三人ぐらいが入ると満室になりそうな狭い部屋だった。
入口のガラス扉の向こうから見えない位置に梓は座っていた。
部屋のテレビから、知らない曲をVTuberの人が紹介するムービーが流れている。
どうしてこうなったんだろう。
いや、わかってる。
私が、
私じゃなくて、ヴァンパイアが、だけど。
由佳から見れば私になるはず。
手元のスマホが振動した。
『あとすこしで着くよ 部屋はどこ?』
梓はため息をついて、文字を打つ。
『302の部屋にいるよ』
一瞬で既読がついて、白いうさぎのスタンプで了解と返ってくる。
見慣れたスタンプの笑顔と違って、梓は泣き出しそうだった。
さっきのことを思い出す。
由佳を突き飛ばしてしまって、慌てていたら、由佳が血を流す手を見せてきた。
その血を見た途端に――私の中のヴァンパイアが、私の体を乗っ取った。
肩を掴んで押し出されたみたいに、体が動かなくなって、体が勝手に動いていた。
きれいでおいしそうな赤い血しか見えていなかった。
「いいよ」なんて言って、由佳の腕をつかみあげた。
暖かい腕の感触と、手首の脈がやけにはっきりと感じられた。
ヴァンパイアは由佳を食べようとした。
絶対ダメだって叫んでたのに、口が動かなかった。
「違う……由佳は食べちゃダメ……」
その時の由佳は、怯えていた。
ずっとずっと昔の、忘れたい記憶の中の顔みたい。
まだヴァンパイアになってすぐの時に殺した、女の人みたいな顔。
舌を抑えて声を殺すこともわからなくて、ただ闇雲に噛んで殺したあと、遺体をひっくり返して見てしまった最期の顔によく似ていた。
「っ……」
目をつむって、自分の額を両手で押さえて押し込んだ。
皮膚を貫通して頭にめり込んだ指に、どろっとした液体の感覚がある。
こんなことしたって意味なんてない。
ヴァンパイアは死なない。制服が汚れちゃうだけ。
テーブルの上にあったおしぼりをとって、頬を拭いた。真っ黒な墨汁みたいな血がついている。
由佳の血と全然違う。
一瞬だけ由佳の血を見たけど、きれいな、おいしそうな赤色だった。
強い光の残像みたいに、由佳の血が目に焼き付いて離れない。
由佳の手から零れて、おいしそうで、舐めたかったけど、我慢した。
由佳は食べ物じゃない。
由佳の血を舐めちゃダメ。
由佳は恋人なんだ。ヴァンパイアと人間の関係になりたくない。
一口食べたら、きっと戻れなくなる。
ママを見る目が変わっちゃったみたいに。
「……別のこと考えないと」
梓は、途中まで辿った記憶を思い出すことに注力した。
ヴァンパイアは「わかった」と言って、体を返した。
私に……ヴァンパイアに腕を掴まれた由佳は、震えていた。
「あ、あの、ゆ、由佳……」
由佳はびっくりした顔で「あ、梓?」と呟いて、そのままぶつかるように私のほっぺたにキスをした。
痛そうにしていたけど、笑っていた。
「えっ、駅前のカラオケに来て! 準備するから!」
ヴァンパイアは私に体を返してくれたけど、そこから断ることなんてできなかった。
由佳は私がカラオケ苦手だって知ってるはずなのに、カラオケを指定した。
勝ち誇った笑顔の由佳と一緒に
そうして何も歌わず部屋で待ち、今に至る。
「はぁー……」
深い深いため息が漏れた。
学校で待ってくれているはずの
「だめ……絶対だめ……由佳を噛んじゃダメ……!」
梓はぎゅうっと両手を握って、体のどこかで食事を待つ怪物に言い聞かせた。
何の声も聞こえないし、何の衝動もない。
だけど
私が油断するとそれは出てきて、目の前の誰かを傷つけようとする。
なんとか断ろう。
由佳を噛んじゃダメ。
たったあれだけの血でもダメだったから、噛みついたら絶対に由佳を殺しちゃう。
ぐちゃぐちゃに噛みついて、引き千切って、全部全部食べちゃえる。
由佳の柔らかそうな首に噛みついて、頸動脈をむき出しにして――
「ダメ……っ!」
梓はぎゅうっと両手を握った。
痛みはないけれど、爪がめり込んでいる感覚はある。
なんとかフリータイムの終わり時間まで耐えるんだ。
今4時前で、フリータイムは6時まで。
関係ない話でできるだけ引き延ばそう。由佳はご機嫌になって忘れてくれるはず。
おなかが少し、すいてる気がする。
コーンポタージュを食べて一週間ぐらい経った気がする。
今食べたら、きっと気持ちいいと思う。
由佳はなんだろう? デザートって感じじゃない。前菜って感じでもない。
「シチュー……とか……」
梓は自分の下顎を噛んで、どろりとした黒い血を飲みこんだ。
絶対ダメ! 由佳は食べ物じゃない!
部屋の隅から黒い13個の影が出てきて、梓の周りを取り囲んでいた。
座った梓を周りから何も言わずに見下ろしていた。
血に飢えた獣を、物言わぬ
金属音を立てて、部屋の扉が開いた。
制服姿で少し汗をかいた由佳が入ってきた。近くのお店のレジ袋を手に持っていた。
「ただいま。梓」
由佳はにこりと笑って言って、梓の横に座った。
レジ袋をテーブルに置くと、からんからんとプラスチックの音が鳴った。
由佳が震える腕を、梓の腕に絡めた。
「お、おかえり……あのね由佳、昨日の夜見たVlogの話なんだけど――」
「ごめんね、こんなところで。わたしの家はちょっと散らかってて……梓、カラオケ苦手なのにごめんね」
由佳は梓の方を見ず、まるで用意した台詞を読み上げるように言った。
額に汗が浮いていて、呼吸が荒い。
さっき傷つけた手には分厚い包帯が巻かれていて、赤い模様が滲んでいた。
甘いにおいがする。
由佳の血のにおいが、密室に充満する。
おいしそう。
血のにおいって、こんなに甘くて、気持ちいいんだ。
くらくらしてきちゃう。
ずっと嗅いでいたい。
甘くて、ふわふわする。
おなかがすいてきた。
すぐ横に、由佳の首筋がある。
梓は思わず牙を舌で舐めていた。
このあと、ご飯が食べられる。
どんな味がするんだろう。
「っ……!」
梓は顔を逸らして、自分の下あごを牙で刺した。
どろっとしたものが口の中に広がって、喉の奥に流れていく。
由佳はレジ袋を膝の上にのせて、中身を手に取った。一つ一つ、テーブルの上へ並べていく。
緑色のゴムのチューブを取って、テーブルの上へ。
半透明の細長いプラスチック容器を取って、テーブルの上へ。
透明な袋に入った白い綿を取って、テーブルの上へ。
「ゴムバンドはある、採血管はある、ホルダーはある、アルコール綿、針……」
細い針に蝶のような器具とチューブがついたブリスターパックを取って、テーブルの上へ。
理科の授業の試験管みたいな形の封がされた容器を取って、テーブルの上へ。
由佳は一つ一つを、儀式の道具のように取り出していく。
梓がすぐ横にいるのに、視界に入っていなかった。
梓はその道具のいくつかに見覚えがあった。
献血の時に見た道具に似ている。
由佳は血を採ろうとしているんだ。
ママみたいに血を採って、私にくれるんだ。
……そっか。噛めないんだ。つまんないの。
梓はまた自分の口内を噛んで、心の中から湧いた恐ろしい感情から目を逸らすように目をつむった。
なんてひどいことを考えてるんだろう。
そんなの私じゃない。
由佳に噛みついちゃダメ。
由佳は恋人。食べ物じゃない。
――止めないと。
「左腕の上腕にバンドを巻いて締めて、血管を浮き出します……」
――止めないと。
由佳は記憶の中にあるYouTubeの動画の字幕をそのまま読み上げて、むき出しの左腕にゴムバンドを巻きつけ金具で固定した。
血管の色の薄い肘の内側に、薄っすらと青い静脈が浮き出ていく。
その上に、由佳の顎から流れた汗が零れ落ちた。
「刺しやすそうな場所の静脈を触って確認します。弾力があってまっすぐ走っているものを探します……」
――止め……。
由佳は震える指で、肘の内側の浮き出た血管をなぞった。
二本あって、どちらも似たような肌触り。
流れる汗で感覚が分からなくなって、由佳は小さく舌打ちして手の側面で汗を拭きとった。
「こっちかな……たぶんこっち……」
動画だとあっさり見つけてたのに、全然わからない。
まっすぐってどういうこと? 刺しやすそうって何?
梓の視線は、ぷっくりと膨れ上がった由佳の腕の静脈に釘付けになっていた。
どくどくと脈打つごとに、その中を甘い血が流れている。
そこに噛みつけば、内側の動脈ごと貫通して一気に味わえる。
「あっ、あのね由佳、もういいから。私一緒にいるから。だから」
恐怖と焦燥感に駆られた由佳に、梓の言葉は届いていなかった。
数回見ただけのYouTube動画を記憶の中から引っ張り出して、何度もリピートして、今の手元と合わせていく。
由佳は思う。
血をあげること。
確かにそれは梓に告白した時の約束だけど、梓はそんな気無いって言ってたし、やるつもりもなかった。
もしもの備えで、看護師の人用の練習動画を見た。採血器具も、もしものために買っただけだった。
Amazonで買ったこれは、
自分に刺すことも想定されてなかったし、練習動画でも本物そっくりの腕を使ってた。
献血なんてされたこともしたこともない。
記憶にある限り血を採られたことなんて一度もない。
どうしてそんなこと約束しちゃったんだろう。
でも、梓が……”ほんとうの梓”が、確かにわたしのほうに向いてくれた。
ぞっとするほど綺麗で、サディスティックな笑顔だった。
すごくきれいだとおもった。
世界でわたしだけを見てくれた。
それはあまりにも甘美で、抗いがたい誘惑だった。
血があれば梓は振り向いてくれる。
それは絶対に間違いないこと。
どんな無茶なことでも血を出せば梓はやってくれる。
奇跡だって起きる。
奇跡を起こすには血を流せばいいんだ。
どうして、気づかなかったんだろう?
「刺す場所を消毒します。円を描くように丁寧に……」
由佳は震える手でアルコール綿の封を破って、柔らかい肘の内側に着ける。
すごく冷たい。保健室のにおい。
本当は、梓に噛まれたかった。
だけど、梓に首を出してもきっと噛んでくれない。
そのまま親の所に行っちゃうし、さっきみたいに怒って、LINEブロックされちゃうかもしれない。
梓の怒った顔は二度と見たくない。
すごく怖いし、悲しくなった。
殺されちゃうんじゃないかと思ったぐらい。
最初から答えはわたしの中にあったんだ。
血を出せば、5分だけのロープウェイの中よりずっと、一緒にいてくれる。
インターネットで調べてもわからなかった答えをわたしは掴んだんだ。
リスカも考えた。
だけど、それじゃあ
梓がわたしを頼ってほしいのに、リスカだとそれが逆になっちゃう。
だから針が一番いいって考えた。
あんまりロマンチックじゃないけど。
「針を取り出して、ホルダーに接続します……」
由佳は透明なブリスターパックを取って、端のほうを開けた。
ばりばりとプラスチックパックが剥がれて、キャップのついた細い針に蝶のような形の器具を手に持った。
反対の手でプラスチックの筒を持って、蝶のような形の器具を、プラスチックの筒にネジのように回して繋いだ。
「呼吸を整えて、当たりをつけた静脈に針を刺します。浅い角度で……」
由佳は震える唇でふうっと息を吐いて、キャップのついた針を右手で持った。
まるで腕時計を見るように左腕を前に出して、テーブルの上に置いた。
その先も動画で色々言っていた気がするけど思い出せない。
血管の固定がどうとか、そういうことを言っていた気がする。
そこで由佳はようやく、梓の方を見た。
ぼろぼろにひび割れた作り笑いで笑って見せた。
「待っててね梓、血をあげるから。約束通り」
「い、いらないよ。危ないからやめて。お願い」
見るからに由佳が持っている針は玩具じゃない。
どこから手に入れたのか分からないけど、本物の病院で使っていそうなものだった。
間違いなく、素人が使えるようなものじゃない。
だけど由佳に触れて、無理やり止めさせたくは無かった。
ヴァンパイアの怪力が怖いから。
由佳の決意を止めたくないから。
おいしそうだから。
いや、えっと。そうじゃなくて。
「いらないなんて言わないで! いい!? わたししかできないの!
由佳は針を握りしめて、涙のにじんだ声で言った。
頬を伝うのが涙なのか汗なのかわからない。
「わたしはできるの。梓のためならなんだってできる。完璧に、できるからっ」
梓への愛情が勇気をくれる。
手順も合ってる。
あとは針を腕に刺すだけ。
右手で掴んだ針を見る。
キャップの内側に細い針がある。
ゆっくりとキャップを外した。
鈍く光る小さな針が露わになった。
こんな小さな針を刺すだけ。さっき調べたところに刺すだけ。
刺すだけ。
それだけ。
できるはず。
痛いのなんて慣れてる。
この痛みは大事な痛み。
梓を愛してるから痛いだけ。
梓のため。
「しなくていいよそんなこと。由佳、お願いだから落ち着いて」
「しないと梓が離れちゃうでしょ! 梓が浮気しちゃう! わたしだけの梓なのに!」
震える手元と、頭の中の動画に気を取られて、気持ちがそのまま口をついてしまう。
言いたくないことまで言ってしまう。
梓に嫌われちゃう。捨てられちゃう。
梓はヴァンパイアだから、血をあげれば大好きになってくれるはず。
「恋人らしくできたかな」なんて言わずに、心から愛してくれる。
わたしのからだを求めてくれる。きっとそう。
由佳は右手に握った針を左腕につけた。
冷たい感触。包丁の切っ先が触れたみたいな感覚。
心臓が痛いほど早く動いてる。
わたしがずっと梓の傍にいるって気持ちを伝えるんだ。
わたしは奪われる側じゃない。
わたしは奪う側になるんだ!
目をつむって、ぎゅっと右手を押し込んだ。
冷たい鋭利な金属が、腕の内側に捻じ込まれる感触がした。
「っ……!」
つねりあげられたような痛みが走って、食いしばった歯の間から押し殺した悲鳴が洩れた。
「由佳! やめて!」
梓の声が遠くに聞こえる。
これで管の中に血が入ってきたら成功で、その後容器を反対側に繋げば、血が採れるはず。
ぎゅっと握った右手に汗が滲んでいる。ふうっと息を吐いて、右手を緩めた。
針の後ろの蝶の形をした器具の後ろ、半透明のチューブには何も入ってきてない。
おかしい。
背筋が冷えていく。
動画と違う。動画では偽物の青い液体が流れていた。今は青も赤もない。
血管に刺さってないってこと? 間違えた? ちょっとずれた?
場所は外してないはず。
そうだ。
由佳は震える右手で針を持ち、少しだけ抜いて角度を変え、もう一度押し込んだ。
「いっ……っ!」
腕から指先まで、刃物で浅く切ったような痛みが走った。
左腕が由佳の意思と関係なく、びくびくと震え出す。
スマホのバイブレーションみたいにガタガタ腕が震え始めた。
ほんの僅かだけ、暗赤色の液体が針の後ろのチューブに流れていく。
腕の中が痛い。
まさか、中で針が折れた……?
背筋が氷を入れたみたいに寒くなって、由佳は金切り声を出して針を引き抜いた。
細い針と、プラスチックチューブと、赤い小さな塊がいくつか宙へ舞う。
くるくると回って、針とチューブは誰も座っていないソファの上に落ちた。
梓の動体視力が、宙を舞う針と、そこから洩れ出る血を捉えていた。
キラキラ輝く赤い液体。
目の前の恋人よりも、ヴァンパイアはそれを捉えていた。
「血、血をとめないと――」
由佳は動く方の手でテーブルの上を見た。
止血用の絆創膏を手に取った。右手でもって、左手ではがそうとして、左手が痙攣して指が動かなかった。
痛い。すごく痛い!
針が刺さっていた所を見た。
そこには、
赤黒い血がぽつぽつと白い肘周りに飛び散って、その真ん中に、怪物みたいに青い風船が貼り付いていた。
つやつやした小さな水風船みたいなものが、刺した所に乗っかっていた。
なに、これ?
こんなの、見たことない。
ぞくり、と背筋から首へ、頭の後ろへ、冷たいものが走る。
見たことのない異物が、腕の上にいる。
こういう時の止血はどうすればいい?
動画には無かった。
わからない。
ティッシュは? ここにはない。
「っ……痛っ……」
さっきと痛みが変わってきていた。
青みがかった風船を中心に、中にトゲトゲのハリネズミがいるみたいな鈍い痛みへ。
風船はどんどん膨らんで、ピンポン玉ぐらいのサイズに膨れていく。
まるでホラーSF映画の寄生生物みたいだった。
「や、やだっ! なにこれっ! とって!」
由佳が青い風船に右手を押し当てようとした途端、まるで怒ったみたいに青が濃い紫色に変わった。
殴られた翌日の肌みたいな、青
左腕がズキズキ痛くて、不気味な寄生生物に操られてるみたいに動かなくて。
額の左右からすうっと何かが抜けていくような感覚。
「あ――」
身体の奥が冷えていく。
視界が暗くなっていく。
座っている感覚も、痛みも、全部遠のいていく。
目をつぶった覚えはないのに。
目の前に梓がいるのに。
もしかして、死ぬ?
「あ、あず、さ――」
由佳は右腕を伸ばした。
スマホを必死で操作している梓へ。
赤い目が潤んで綺麗だった。
どこまで梓に届いていたかわからなかった。
意識はそこで途絶えた。