天使も悩み、自分を歪めるに決まっているだろう。
悲鳴と血の散る音の残響。
血痕と穢れた痕跡。
鉄の臭いと、淀んだ空気。
その中で一つ、息を切らしながら逃げる女性が一人。
「はぁ…はぁ…何よ、あの怪物…!」
それを追うのは、数多の医療器具が積み重なってできた怪物。
「心拍を確認させて頂きますね。はい。それと、次は喉を。」
「嫌だ…何なの…!」
寂れた病院のような空間を走っていくも、その先は行き止まり。
「あっ…!」
「お熱は測りましたか?測っていないのであれば、こちらの温度計を…」
優しい声が追い詰める。
「来ないで…」
気色の悪い液体を垂らしながら、怪物は向かっていく。
「それでは、本日のお薬はこちらと…」
その時、ロッカーの中に誰かいることに気づいた。
それは、怯えもせず、ただ観察するようにこちらを見ている。
少しの苛立ちが沸き上がった。
安全圏からこちらを観察しているようで。
「…ちょっと、そこのアンタ!見てないで助けてよ!」
怪物の視線がロッカーに移る。
「番号札#!"$番の方、待合室までお越しください。」
すると、ロッカーの中から青年が一人出てきた。
「全く…君は無駄な犠牲を増やす気かい?」
「うっ…」
今更になって、罪悪感に苛まれた。
「それでも、一回だけなら。仕方ないけど許してあげるよ。」
「症状的に、こちらの疾病が考えられ」
怪物の頭部と思しき、仮面が吹き飛ばされる。
「…これは、幼児期特有の症状ですね。特に心配する必要はないですが…」
怪物は大きくよろめき、その場で理解不能な言葉を発し続けた。
「今だ。あいつの横を通って逃げよう。あの液体には触れるなよ。」
「…うん、分かった。」
「恐らく、最近流行している感染症によるものだと考えられます。ワクチンの接種は…」
よろめいたままの怪物を尻目に、青年と女性はその場を離れた。
「…はぁ、はぁ…なんなのよ、ここは…」
「それに答える前に。」
青年は迫った。
「何故あの時僕を呼んだ?僕が普通の人間なら、無駄死にしていただろうに。」
「それは、ごめん…でも、妙に観察されてるみたいな視線だったから、ムカっとしちゃって…」
青年はため息を付いた。
「…まぁ、理解はしてやるよ。」
「で、ここが何なのか、って言ったか?」
「え、えぇ…」
「ここは『天使の籠』だ。」
「『天使の籠』…?」
「そ、籠だ、籠。あいつら天使の根城。」
「て、天使って、あれが天使なの?天使ってもっとこう、神聖で、清らかな感じじゃ…」
「伝承の天使はそうだな。だが、あいつらの発生源は違う。」
「矛盾だよ。」
「矛盾?」
「矛盾を孕んだ天使は、ああやって歪んでしまう。」
「へぇ…」
理解が及ばない。
沈黙が流れる。
「と言うか、自己紹介をしてなかったわね。私は蟻峰とうか。あなたは?」
「テンヤ、って呼んでくれ、取り敢えず。」
「そう、テンヤ…分かったわ。」
「それで、その籠とやらからは、どう抜け出せばいいの?」
「単純明快だ、あの天使を殺せばいい。」
「え…どうやって?」
「知らん。とにかく殺せばいい。」
「…はぁ、どうすれば…」
「一応分かってることだけ伝える。あいつの垂らす液は猛毒ってことだ。」
「分かったわ。」
「はぁ…あとは、あの天使の核さえ分かれば。一つ先に進むんだがな…」
「核?弱点みたいなもの?」
その時、つんざくような悲鳴が聞こえた。
「…!行くぞ。」
「え、ま、待ってよ!」
「怖いなら残ってろ。僕は行く。」
「え、あ、ちょっと…置いてかないでよ!」
現場に着くと、眼鏡をかけた女性が怪物に襲われていた。
「こちらに見えると思うのですが、この影、これが腫瘍でして。」
「何何、何よ!もう嫌ぁ!」
「薬によって小さくしていくのですが、投薬による副作用が多く…」
「あっ…!みなこ…」
テンヤがとうかの口を塞いだ。
「黙ってろ。それにあいつはもうダメだ。」
みなこと呼ばれた女性の四肢には、切り傷が付いている。
麻痺したかのようにもがいているが、滑稽と思える程全く動けていなかった。
「…つきましては、こちらの契約書をよくお読み頂き、それでこの治療方針で良いか判断いただければ。」
体が浮き上がっていく。
怪物の仮面の口部分が大きく開く。
「核は…あそこか。」
テンヤは淡々と言う。
「ちょっと、助けないと…!うぅ…!」
「…連れて来ない方が良かったな。」
「あ、あ、あぁ、嫌…嫌ぁ!」
「あああああぁぁぁぁぁ!!!」
絶叫が響いたと思うと、怪物はその女性の頭部を嚙み砕いた。
「なるほど、犠牲者の血液を喰らって…シリンジに血を…」
「あ、あぁ…みなこ…」
「まぁ、十分か。逃げるぞ。」
とうかは茫然とし、足が動かないようだった。
「…このまま観察を続けるのもいいが、まだ終わっていないからな…」
呆れた顔をしながら、テンヤはとうかを運んでその場を去る。
「…あの方針で行くか。」
「さて…みなこ、とやらの尊い犠牲のおかげで核の位置は特定できた訳だが。」
「アンタがみなこの名前を呼ばないでよ…!」
「みなこは、私の親友で…本当はさっきまで、一緒に図書室で話していただけだったのに…!」
「あの女は相当酷い最期を迎えたな。きっと苦痛もかなりのものだったろう。」
「…!」
「あぁ、可哀そうだ。きっと事切れるその瞬間まで、助けに来てくれるだろう友人を待ってたんだろう。」
「でもあの怪物にとっては、あの女も一つの資源にすぎなかったみたいだな。」
「残念だけど、もう忘れて次に移らないと…」
テンヤの頬を、とうかが打った。
「黙って…黙ってよ!」
「そんな事を言われても、全てはあいつを殺す為にすべき事をしたまでだしな。」
「そもそもあいつを殺さないと、僕たちはそもそも脱出できないだろう?」
「…なら、私が殺ってやるわよ…!」
「ふーん。武器もなしに、どうするつもりだい?」
「核ってのを攻撃すればいいんでしょう?アンタの言い方からして。」
「ここは病院の空間でしょう?それなら凶器になり得る物も沢山あるはずよ。」
「一番近い、手術室に行くわ。そこで手術器具を取って来る。」
「ふーん、じゃあ僕も…」
「アンタは来ないで。」
とうかはスタスタと歩いて行った。
「はは、怖いな、復讐に駆られた人間ってのは。」
「じゃ、僕もやりましょうかね、やるべきことを。」
道には、そこに誰かがいたであろう痕跡、そして殺されたのであろう痕跡が転がっている。
とうかはそれらには目もくれず、病院内の地図を見ながら進んでいく。
轟音が響く。
その前に現れたのは、あの怪物だった。
「来たわね、クソ野郎…!」
怪物は注射器をこちらに向けると、血液を噴射してきた。
とうかは走りながら避け、ある診断室へ駆け込む。
するととある装置と、その説明図が見えた。
「すみません、検査値にエラーが出たようなので、もう一度測らせて頂きます。」
「アンタの体は汚れたメスやハサミばっかりでできてるよね?」
「それなら…!」
とうかは装置のボタンをめちゃくちゃに弄る。
MRI装置、磁気で検査を行う機械だ。
「採血を行わせていただきますので、少しバチン、とさせて頂きますね。」
怪物は機械に大部分を吸われ、動きを止める。
しかし核らしきものは開いていない。
「クソッ…叩き割ろうとでも思ったのだけれど。」
とうかは動けない怪物を見ながら部屋を去る。
手術室に着き、清潔なメスを手に入れる。
そして検査室に戻るが。
「いない…?」
既に機械は停止し、怪物も姿を消していた。
「まぁ、いいわ。あの怪物、誰かを喰らおうとする時しか核を出さないみたいだし。」
「なら、誰かの悲鳴を聞きつければ…」
「うわぁぁぁぁ!!」
男性の悲鳴が聞こえた。
とうかは昂ぶりを抑えながら、悲鳴の元へと走っていく。
「ひぃ…やめてくれ…やめてくれよ!」
「消毒をしてから、待合室でお待ちくださいね。」
「何なんだよお前!それになんで足が動かねぇんだよ!」
男の足は穢れた血に塗れ、動かない。
とうかはテンヤがそうしていたように、ロッカーに隠れ、一部始終を見届けていた。
「クソッ、嫌だ、嫌だ!」
「クソがあああぁぁぁっ!!!」
怪物が捕食のような行動を開始した瞬間、とうかはロッカーを蹴り開けた。
「死ね!怪物野郎が!!!」
頭部を喰らい、持ち上げた仮面。
その中にある核。
とうかはメスを核に突き立てる。
「すみません、ただ今発熱患者の受け入れを停止しておりまして…」
怪物はゆっくりと倒れていく。
「やった…やったのよ…!」
「ざまぁみろ!でもこれは私の分…」
「みなこの分も、返してやるわ!!!」
ヒビの入った核に再びメスを突き立てる。
しかし。
「あれ…?」
核は壊れない。
何度も突き立てるが、ヒビが入るのみ。
「なんで…」
そうこうしている内に、怪物は再び起き上がった。
「はい、こちら今回分のお薬になります。&%$週間分ですね…」
「なんで、殺せないの…?」
「あー、悪い。言い忘れてた。」
その瞬間、テンヤが再び顔を出した。
「天使共は核を壊した上で、その産まれた原因を突きつけ、ある一種の解を導かないといけないんだよ。」
「なっ…なんでそれを言ってくれなかったのよ!」
「だって、お前は利用できそうだったからな。」
「現に時間稼ぎもしてくれて、僕はこの空間を調べて、こいつが産まれた原因を知る事ができた。」
「じゃ、じゃあ早くそれを突きつけてよ!そうすれば…」
「あー悪い、もう核が再生してしまってるみたいだ。」
「えっ…」
怪物はとうかを掴む。
「あ、あ、やだ、嫌だぁ!!!」
「あー、これは施術の必要はありませんね。経過観察という事で…」
仮面を近づける。
「嫌だ!殺さないで!ころさないで!!!」
「こちらのお薬は腹痛に効く効果がありまして。こちらの方はその副作用を…」
口を大きく開く。
「やだ!やだ!」
「…抑制する効果が…」
「嫌だあああああああぁぁぁぁぁ…」
とうかの頭が噛み砕かれ、核を曝け出す。
その瞬間をテンヤは見逃さず、椅子を持ち、思い切り振りかぶって、核にヒビを入れた。
「はっ、やっぱり脆いな。」
「さて…お前は医療器具で体を形成しながら、病気の症状のようなものを操っていた訳だが。」
「お前が産まれたのは、病を根絶しようと医療が発展すると、病も発展していくという矛盾から、だろ?」
「だが実際には、医療は混沌とした苦痛の坩堝を、定義に落とし込む重要な存在だ。その定義が広がっても、坩堝の肥大化を助けている訳ではない。」
「お前は存在意義を悩まなくていい。」
「お前は医療の天使だ。病の使いではない。」
そうすると怪物は、安堵しながらも、理解に苦しんでいるようだった。
「…あー、お前が定義を広げようが、大本の苦しみの肥大化を手伝ってる訳じゃない、って事だよ。」
…怪物は安心した様子で、消えていった。
空間が光に呑まれ、消えていく。
テンヤが軽く目を閉じ、再び開くと、そこは学校の屋上だった。
「天使共も大変だねぇ、こんな簡単な問いに答えられず存在意義を悩み、怪物へ姿を変えるんだから…」
「さて、今ある天使の籠は…うん、もう無いな。」
「今日の仕事は終わりだ。さて、退屈な授業をまた受けないと…」
そうしてテンヤは屋上から教室へと戻る。
「何やってたんだよ、テンヤ!」
「あぁ、風を浴びてただけだよ。」
クラスメイトにそう言って、着席する。
「…ここ最近で発生している行方不明事案は数百件に上り…」
「…次のニュースです。蟻峰とうか さん、後藤みなこ さん、他8名の死体が発見され…」
テンヤはその名を見るまで、とうかの事を忘れていた。