その瞬間、世界から音が消え、色彩が反転した。
「……まこと? 久磨誠くん。ボーッとしてどうしたの、ほら、入学式が始まるわよ」
母親のどこか遠くから聞こえるような声で、俺は我に返った。視界に入ってきたのは、真新しい、そして少し丈の長い中学の制服。そして、まだあどけなさが残る自分の手だ。
脳内には、今さっき濁流のように流れ込んできた「もう一つの人生」の記憶が、熱を持って疼いていた。
前世の俺は、佐藤という名の、救いようのない男だった。
重度のオタクで、現実に絶望し、深夜アニメとジャンクフードの中に居場所を求めた。運動を憎み、己の肉体を甘やかした結果、三十路を前にして呆気なく不摂生で命を落とした。……情けなくて、惨めな、後悔ばかりの人生。
(……二度と、あんな無様な死に方はしたくない)
憑依なのか、それとも前世の記憶を思い出しただけなのかは分からない。だが、鏡を見ずとも確信できる。この『久磨誠』という少年は、前世の俺が喉から手が出るほど欲した「天賦の才」をその骨格に秘めている。
俺は、式典に向かう列の中で、静かに、しかし折れそうなほど強く拳を握りしめた。
「次は絶対に、後悔しない。この恵まれた『器』を、最強にまで鍛え上げてやる」
それからの俺の生活は、まさしく求道者のそれだった。
中学一年の間、俺は周囲の遊びの誘いを全て断り、肉体改造に心血を注いだ。
まずは前世の知識を総動員した徹底的な食事管理。そして、成長期を阻害しない範囲での自重トレーニングから始め、やがて本格的なジム通いと古流武術の道場への門を叩いた。
「久磨くん、最近すごく変わったよね。……ちょっと怖いくらい」
「あんなにガタイが良くなって、何を目指してるんだろう」
クラスメイトの囁きは、俺の耳には届かない。俺が目指しているのは、ただの「スポーツマン」ではない。いつか訪れるかもしれない「物語」のような理不尽に抗える、絶対的な筋肉と技術。Fateのオリオンを想起させるような、厚みのある胸板としなやかなバネ。服の上からでもわかるその威圧感は、中学二年に上がる頃には、もはや中学生の域を超え、大人でさえ一目置くほどのものになっていた。
だが、この時までは、俺はまだ自分の幸運を半分しか理解していなかった。
ここは単に「やり直しのきく現実」だと思っていたのだ。
運命が動いたのは、中学二年の春。聖地、秋葉原のアニメイトだった。
「……あった、最後の一冊……!」
棚の最上段、絶版寸前でプレミアがつき始めているファンタジー戦記『幻想の聖域』。設定の細かさに定評があり、前世の俺がバイブルとしていた一冊だ。
俺がその背表紙に指をかけたのと同時に、反対側からも白く細い手が伸びてきた。
「あ……」
手が重なる。相手は俺の巨体に驚いたように、肩を震わせて飛び退いた。
そこにいたのは、少し垂れ目の、お人好しが顔に出ているような少年だった。
「……あ、ご、ごめんなさい! 久磨くん……だよね? 同じ学校の……一組の……」
相手は俺の名前を知っていた。同じ中学の生徒らしい。
だが、そんなことよりも俺の意識を釘付けにしたのは、その「顔」だった。
(……え? 嘘だろ……?)
少し癖のある髪、優しげだが芯の強さを感じさせる瞳。
南雲ハジメ。
前世で、俺が何度読み返したか分からない物語、『ありふれた職業で世界最強』の主人公。
「……南雲、ハジメ、か?」
「えっ、僕の名前、知っててくれたの?」
ハジメは驚いたように目を丸くした。
その瞬間、俺の脳内で全てのピースがカチリと音を立てて繋がった。
ここはただの現実じゃない。俺が死ぬほど愛し、そしてそのあまりに理不尽な展開に涙した、あの異世界ファンタジーの前日譚なのだ。
目の前のこの少年は、数年後、クラスメイトの裏切りによって奈落の底に突き落とされる。
「……この本、お前も探してたのか」
「あ、うん。……でも、久磨くんが先に触ったから。いいよ、僕、また別の店を探してみるし」
そう言って、寂しそうに微笑んで手を引こうとするハジメ。
そのお人好しすぎる態度が、原作通りで、そして無性に俺の胸を焼いた。
俺は気づけば、その本をひっ掴んで、困惑するハジメの胸元に無理やり押し付けていた。
「バカ言え。二人で読めばいいだろ。俺の家、すぐ近くだ。読み終わるまで語り合おうぜ。……俺も、この本の『重装備と魔法を組み合わせる戦術』について、誰かと話したかったんだよ」
「えっ……? でも……」
「いいから来い。……あと、これからは『クマ』でいい。俺もお前のことは名前で呼ぶぞ、ハジメ」
ハジメは一瞬呆然とした後、堰を切ったように顔を輝かせた。
「……うん! ありがとう、クマくん!」
その笑顔を見た瞬間、俺の心の奥底で、前世から続く「オタクの矜持」が火を噴いた。
決めたぞ。
ハジメを、一人で地獄に行かせたりはしない。
奈落に落ちるなら、俺も一緒だ。
その時、こいつを嘲笑うクラスメイト全員を黙らせるだけの力を、この生命力あふれる肉体を才能に、全力で叩き込んでやる。
「よっしゃハジメ、帰りにポテチとコーラだ! 議論には燃料が必要だからな!」
「あはは、クマくん、あんなに体鍛えてるのに、食べ物は全然ストイックじゃないんだね」
秋葉原の雑踏の中、笑い合う二人の背中。
それは、後に世界を震撼させる最強のコンビが、最も「ありふれた」形で出会った瞬間だった。