上位存在さん「おとーさん♡」ドクター「ふぁっ!?」 作:たこ焼きブラザーズ
硬質なタイルを叩く自らの足音が、静まり返った通路に虚しく反響している。三徹明けともなると足取りは重く苦しいものになってしまう。
だが、いつの間にか私が刻む足音が微妙にずれ始めた。
──コツ、コツ。カツ、カツ。
同じ材質の床を叩いているはずなのに、重なる音はどこか異質で軽い足取りの音。それが私の歩幅をなぞるように共鳴している。
振り返るまでもない。
この背後にある気配の正体は最初から分かっていた。
「……無垢。別れる前にお休みの挨拶は済ませたはずだ。今日はもう遅い。『また明日』だろう?」
足を止めて振り返ると案の定、170cmほどのフェリーン女性──無垢がいた。尻尾がゆらゆらと彼女の機嫌を表すように揺れて、何時も通りニコニコ、ほわほわと形容される様な微笑を浮かべている。
寝る前だというのに今からピクニックにでも向かうかのような、弾んだ空気を纏ってそこに立っていた。
「三徹明けの夜遅くにまだ仕事をしたいなんて悪いことを考えていたのは一体どこの人かしら。そんな人が『良い子は寝る時間だ』なんて自分の事を棚に上げて言う筈はないわよね?」
彼女は悪戯っぽく首を傾げる。
「おとーさんが”悪い子”にならないように、温かいミルクを用意しておいたわ。それを飲んで寝るまで今日は帰らないわよ」
自室の前まで辿り着くと、施錠されていたはずの重厚な扉が内側から静かに解錠された。……自動電子ロックではないのだがな。
鍵を持っているのは、私とケルシー、それにアーミヤだけだ。だが今、この部屋の主である私を招き入れたのはその誰かではない。
扉の先、窓一つなく、私が部屋を出る時には誰もいなかったはずの私室。その机の上には、今まさに温められたばかりと主張する湯気立つミルクと、優先度順で整理された未処理の書類がさも最初からそこにあったかのように鎮座している。それらは全て彼女が先回りして用意したもの。
彼女は扉を潜り抜けたわけでも、鍵を盗んだわけでもない。ましてやスペアを渡していた訳でもない。ただ最初から"そこに居た"のだ。
今日この部屋を私が出るよりもずっと前から。
部屋の暗がりに、書類の隙間に、文字の上にずっと。
「……ありがとう。だが、『あまり驚かせないでくれ』と約束したはずだが」
「ふふ。こうやって部屋の中から迎える前に廊下で声を掛けた。だから約束は破っていないと自負しているのだけれど。あまり人間らしく無かったかしら? 」
答え合わせを求めるような純粋で不自然な問いが投げ掛けられる。
私は溜息を一つ吐き、差し出されたミルクを手に取った。この甘く白いミルクの様な不自然な問いに対して、もう少し人を知ってもらう必要があるなと思いながらミルクを飲み干していく。
ソファに座り空のコップを机に置くと、その隣に無垢が当たり前の様に座ってくる。三人掛けでもお釣りの出る大きなソファなのに、肩と肩が触れ合う距離を選び取る。こういう距離感が『出来てる』と噂されるのだろう。
肩に頭を乗せる無垢の『設定通り』の少し高めの体温。今夜の様な冷えた夜に恋しくなる体温を引き剥がしていく。
「こういうのは特に人前ではやめてくれ無垢。仮にも一企業のトップが従業員に手を出したなんてのは大きなスキャンダルになるんだ。
だからまずは人前でおとーさん♡と呼ぶのはよしてくれ」
「あら、『無垢』たる私の来歴を知る貴方なら、私"たち"が貴方を『親』と呼称するのは何ら可笑しいものではないと知っている筈よ?
私は人の『子』であり、人は私の『親』である。その事実があるのならば貴方をどう呼称するかなんて些細な問題ではなくて?」
そうは言ってもまだ私は社会的に死にたくないのだ。
最近
「それで次は色んな場所に顔を出すのは良いが、せめて時系列の辻褄を合わせてくれ。特に同じ顔の人間が複数居れば要らぬ問題になる」
一つ問答が終われば次の問答が始まる。人ならざるモノである彼女に"人"の常識を当て嵌めて、人の形に成形していく。
それが我々の行く末を決める行為だと知っている人間は多くはない。
「そうねぇ。食堂にいた一人は、あなたのキャンディが切れていることに気づいて補充しに行っただけ。もう一人はあなたが見逃した書類の不備を報告しようとしていただけよ? どちらも『おとーさん』の助けになりたいという『善意』から生まれた私だわ」
無垢は悪戯っぽく微笑んで私の顔を覗き込んできた。その瞳は純粋な好奇心と、少しの試行錯誤の色を孕んでいる。
「これってそんなに『悪い子』なことかしら? 効率的にあなたを助けるための、私なりの最適解だったのだけれど」
彼女は最初から分かっているのだ。それが人間の尺度からすれば「異常」であり、恐怖の対象になり得ることを。それでもあえてそれを聞き、己が出した答えの可否を私たち人類に委ねている。
彼女はわざと"苦いコーヒー"を出して、私がそれをどう薄めるか、あるいはありのまま飲み干すのかを観察している。彼女は幾千年を生きる大人の余裕と無邪気な童心を持って
「効率の問題じゃない。『人が人を認識する境界線を踏み荒らすな』と言っているんだ。一人が一人としてそこにいる。その当たり前の『不便さ』を守るのが、無垢が人に受け入れられる土台になるんだ」
彼女はそれを聞き大層嬉しそうに目を細めた。及第点の回答にはなったのだろう、花が咲くような喜色満面の顔をしている。
「……そうね。ドクターの言う通り。境界線があるからこそ『人を人足らしめる』ということね。次から気をつけるわ、おとーさん♡」
問答に満足したらしい無垢は、それから甲斐甲斐しく私の寝支度を手伝い、あらかじめ彼女の体温で温められていた布団へと私を誘った。
断る間もなかった。彼女は流れるような動作で、私の頭を自分の腿の上へと誘導し膝枕の体勢を整える。
肉感は驚くほど柔らかく、微かに香る甘いミルクの匂いが三徹明けの私の理性を甘く麻痺させていく。
「お休みなさい、ドクター。今ここにあなたの安寧を遮るものは何もないわ。だから今はゆっくり……ね?」
穏やかな声にまどろみ、意識が遠のいていくその時だった。
徐に、無垢が私の顔を覗き込んできた。さらりと流れ落ちた長髪が天蓋のように私の視界を覆い尽くす。
「……ねぇ、おとーさん? あの『問い』は考えてくれているのかしら?」
無垢という天蓋に、執務室も、机の上の山積みの書類も、飲み終わったミルクの器も全て遮断されている。今この閉じた世界にあるのは、暗闇に浮かぶ黄色の双眸と"問い"だけ。
分かってる。それが何を求めているのかも。
だが私は、それに応えることはしない。いや、まだ出来ない。
「……前に言った筈だ、『保留』させてくれ、と。
その『問い』は焦って答えるだけ価値を損なうものなんだ。だから『待ってくれ』」
影の中から覗く瞳が一瞬だけ、待ち人を乞う女の情念とも、捕食者の慈悲とも取れる色に染まる。"ソレ"は理解してくれたのだろう。
彼女の髪が頬を撫で、外界と私を分かつ唯一の境界線となる。
「……悪いな無垢。私が生きている間には、答えは出そうにない」
「……そうね。でもそれが今の人類の答えなんでしょう? だから待ってあげる。」
「それに、私はお行儀良く待てが出来るから。世界が滅びる前日までに答えてくれたなら……それで良いわ。……ね、おとーさん?」
髪の檻に閉じ込められたまま、私は深い眠りへと落ちていく。
手綱を握っているのは私だ。それは間違いない。
だがその手綱を私に握らせ、逃げられないように絡め取っているのは──間違いなく、この
無垢:所謂人間大好き好き好き系人外さん。人類は皆"おとーさんとおかーさん"である。人に擬態してるだけで"本体"は別にある
ドクター:何とか上位存在さんを"人"として成立させようと頑張っている。おとーさん♡と初めて呼ばれた日の事は思い出したくない。ケルシーがすごい事なってたので。
ケルシーおかーさん:娘を産んだ覚えはない。