十年前。秋山達が七歳の、小学一年生の頃である。当時の彼らは今よりも遠慮がなく、度々互いの家に行っては遊び過ごしていた。しかし幼心にも秋山は、家の大きさや間取りの余裕、家電の質の違いや、調度品という謎めいた文化などに、どこか隔たった、そして高く望むような差異を感じていた。
それでも、秋山はその感覚を表に出すことはなく、親に言うこともなかった。流石に、家や家具が欲しいと言って与えられるものではないことは幼児の頭にも理解できて、寧ろ口に出すことがより己を見窄らしくさせるのだと、それぞれの家の風景を比較する度に思っていた。
彼の親は、この傍目にも釣り合わぬ交流を遠慮するようには言わなかったし、是非とも仲良くするようにとも言わなかった。ただ、黒木と相沢が家に来るときは、やはりそれなりに気を遣って、母親は、普段は出さないような菓子、料理を披露するくらいの見栄はあり、父親もまた、どこか息子の友達にかけるような言葉遣いではなく、少しばかり遠慮した物言いをするのが常だった。
秋山は、これを理由に幼馴染み二人を恨んだことはなかったが、その遠さを思う萌芽にはなった。幸福とは比較的なものであって、より富んだものが近くにあろうとも決して失われるわけではない。ただ少し色褪せて見えるだけである。それが決定的な何かを引き起こすこともあるだろうが、少なくとも彼にとって家庭とは今に至るまで幸福だった。だが、それは子供の万能感を育てるような全てを許された幸福ではなく、実に平凡な、ありふれた幸福だと思って育った。
そうは思えども、時々の消費欲、流行り物へ向ける熱意は収まらないもので、ある日、黒木の家に彼らが遊んだとき、彼女が取り出したゲームを見て、秋山はとてもそれを羨ましがった。最新作のゲームで、子供向け雑誌に特集として取り上げられ、クラスメイトの中にも話題として上がっており、彼は常々、その話を聞いてはゲームの内容を夢想していた。彼はそれを所持しておらず、買うだけの小遣いもなかった。
別に、常日頃から金銭が不足していたわけではないし、それこそ先月、新しいゲームを買ったばかりだった。しかし、それがために話題についていけないのは悔しかった。第一、先月に買ったゲームはとても酷い出来だったのだ。秋山の両親は、ゲームが欲しいと言ってくれるような親ではなかった。それが許される家庭が近くにあるが故に、それが許されるべきではないと思っていた。だが、そのために悩み、選び取ったものが酷い出来だったのは、流石に嘆きたくなるほどで、同時に、自分とは違って許されている幼馴染みを見ると、意識すまいと思っていた嫉妬や羨望が、どうしようもなく膨れ上がってくるのだった。
一方で、相沢は当然のようにそれを所持していて、彼女らは一頻り、その話題で盛り上がった。その会話は寧ろ、二人が率先して秋山に内容を教え合い、競うようなもので、黒木などは実際に体験させ、事あるごとに『私のゲームなのよ』と口にしていた。
『東治くんがやっているのは、私のゲームなの』
それは相沢へと向けた、実に子供らしい自慢だったが、その言葉を聞くと、どうしてか、秋山は嫌になった。あれほどやりたかったゲームを操作しながらも、秋山の内心は、不思議な惨めさ、心苦しさが募るばかりで、二人の言葉にも口数少なく、寧ろ、口を開く度に二人を嫌いになっていくようだった。しかし、その嫌いになっていく自分が一番嫌いだった。自分はつまらない事で苦しんでいると思った。このために友情をなくしては、全く馬鹿らしい、それこそ本当に惨めなものと思い、あくまで笑みを繕って、それでも全く楽しくないまま、その日を過ごした。
だが、その翌日。放課後になると、秋山は一人、黒木の家に呼ばれ、そこで先程のゲームを渡された。封の切られていない新品だった。どうしたのか。彼がそう聞くと、彼女は実に喜ばしいような笑みを見せて、言った。
『東治くんが欲しそうだったから、あげる』
その手を振り払うことは簡単で、実際、秋山はすんでの所で声を荒げ、『馬鹿にするな』と叫びそうだった。しかし、彼女の目を見ると、それが本当に自分を慮った行為に思え、そして酷く高く思った。彼はこの、遠慮のない施しに、家庭環境という距離を思い知ったのだ。そして、遂には激情さえ、こういった高さの前には無意味なものだと思い、ただ一言、静かに『いいよ』と呟いた。『いらない』と首を振った。それが精一杯の抵抗だった。
しかし、黒木は意外そうな顔を浮かべなかった。『いいから』と無理にゲームを押し付けて、『お願い』と、どうしてか乞うように言った。そして、この奇妙な熱意、息の荒い、過剰な施しに怯え始めた秋山へ、とても嬉しそうに言った。
『私、東治くんが欲しいもの、全部あげたいの。私が、あげたいの。だからこれはね、ごめんなさいなのよ。私があげたくて、ごめんなさい』
秋山は、その言葉がよく分からず、ただ、その時に見た黒色の瞳が、嫌に輝いていたのを恐ろしく思い、押し付けられるまま、ゲームを家に持ち帰った。恐ろしく、封を切ることさえできず、机の引き出しに仕舞った。
だが、子供の隠し事、後ろめたさなど、親にとっては手に取るように分かるもので、その日の夕食を済ませた後、妙に落ち着かぬ息子を訝しんだ母親が問い質すと、彼は白状して、『どうしよう』と泣きそうになりながら言った。しかし困ったのは両親の方もだった。自分の息子が、あちらの教育に悪いかもしれないとは常々思ってきたが、こうなると、あちらの娘の方が息子の教育に悪いのかもしれない。
結局、その翌日に、秋山はゲームの代金である五千円を持たされて、黒木の家へと向かった。そして、何時ものように黒木が自室に手を引くのを断って、彼女の母親に五千円を渡し、母親からの言伝を語った。息子がゲームを貰ったというので、申し訳なく、代金をお支払いしますと。
秋山はその日、自分の母親へと書かれた手紙と、贈答用のメロンを二個、そしてにこやかな笑みと共に家に帰された。その笑みを逆に不安に思いながら、朝を迎え、登校のために訪れた玄関口。ランドセルを背負って現れた黒木は、物凄く泣き腫らした顔をして、『もうしません』と、自分の母親の前で宣言させられたのである。
そういったことを思い出せば、随分とまあ、子供っぽい思い出話で、だからこそ秋山は、今し方目の前に翻された五千円札を不思議に思った。だからなんだというのだ。あれは惨めさと遠さ、そして黒木の母親の意外な恐ろしさを思い知っただけの話であり、あの泣き腫らした顔を思えば、今となっては笑い話にもできそうな思い出である。
しかし黒木は、燻り、焦がれるような胸内から、熱っぽい息を長く吐いて、言った。
「あの時は、ごめんなさいね。いいえ、ずっとごめんなさい。ああいったことがあっての、貴方なんでしょう。それは、とても残酷で、許されるべきではないと思う」
「ああ、それは別に、もういいことなんだ。家庭環境の違いにとやかく言ったって、どうしようもない」
「それが貴方の感じる、遠さというものを育んだというのなら、どうしようもないと思わせたのだって私」
「だから、そこはいいんだよ。俺が嫌なのは、俺自身が滑稽に思えることだ。……そうだな。やっぱり昨日は、口が悪かった」
秋山は掌で唇を覆い、少し思案して言った。
「お前達は、俺と比較して遠くある。高くある。立派なわけだ。それ自体は、寧ろ誇らしいくらいなんだ。だから、俺を付き合わせて、事あるごとに巻き込んだり、ましてや、愛だの恋だのと言われると、俺自身、みっともないと思ってしまう。釣り合いが取れていなくて、滑稽なんだ。俺には、お前達と並ぶだけの価値もないし、やる気もない。やろうと思ったことも、なかったよ」
「それで、トロフィー?」
「意地の悪い考え方かもしれないが、そう思った。何せ、俺がお前達の立場なら、こんなのに価値を感じる理由なんて、そうとしか思えないからな。それが積み重なって、勘違いしてしまった。そういう意味では、可愛げがあるのかもしれないな、お前達は。そういう、滑稽な失敗をするんだって、安心するくらいだ」
「なるほどね」
「安心したいんだよ。安心させてくれ」
黒木はまた、熱っぽい、長い息を吐いた。その息は笑いを噛み殺すようで、咳き込むような乾いた音が最後に聞こえた。秋山は訝しげに黒木を見た。彼女の口端には堪えがたい微笑みが、歪な形に上がった口角として現れており、何が楽しいのか、瞳はぬめり、細められている。
「私ね、優しさって、全てを解決するわけじゃないと思うの」
「徒競走のように?」
「この場合、順位の問題じゃないのよ。単純な、幸福の話。何も、人に優しくするだけが、その人を本当に幸福にするわけじゃない」
「まあ、お前は鬱病の人に頑張れと言いそうなものだからな」
「そうかもね。でも、何もかも放っておくことだって正解じゃないでしょ。病気には、正しい薬を処方するのが一番。そして、貴方は病気じゃないわ」
「お前も医者じゃないけどな」
「ええ、貴方の幼馴染みよ。そして、貴方と同じくらい可哀想なのよ。十七年をかけて積み上げていた思いを、たった一日でぐちゃぐちゃにされた、可哀想な女の子」
「それは悪かった。どうぞ残骸を埋め立てて、また別の思いを再建してくれないか」
「嫌」
黒木は紙幣を指先に挟み込み、見せ付けるように掲げた。秋山の口端に皺が寄った。加えて据えられた、睨むような半眼は、彼にとっては慣れぬ振る舞いだったが、それでも自然と遂げられた。
しかし彼女は、そのような見慣れぬ表情にも物怖じせず、寧ろ可憐に微笑んで、その胸板に紙幣を押し付けた。
「だって私、貴方にゲームをあげたとき、本当に嬉しかったのよ。本当に! 何せ、あんなに欲しがっていたもの。あんなに、熱中していたもの。私、それが嫌だった。たかが物が、貴方の関心を奪っている。それを、私が貴方にあげたのよ。私があれを手に入れて、貴方にあげた! 征服して、捧げたの。それが、それがね、本当に……嬉しくて、楽しかった。これからの人生、ずっとそうしたかったの」
「じゃあ、なんだこの五千円は」
「その時の感動を思い出したくて。そして感動したことを、貴方に伝えたくて」
「逆効果だ。ちょっと気持ち悪いと思ったぞ」
「あら、ちょっとで済んだのね。これからもっと気持ち悪くなるから覚悟しなさい」
「その分だと迷惑料として金を払いそうな勢いだな」
「よく分かったわね。流石は幼馴染み。子供の頃から色々と理由を付けて贈り物をしてきた甲斐があったわ」
「まあ、今となっては逆効果ね」と黒木は言って、少しいじけるように口を尖らせて、「もうこんな程度では、表情も変えなくなってしまったもの」と、秋山の首筋、その鎖骨から顎先にかかるまでを指先でなぞった。
「ああ、そりゃあ」
秋山は同じ事を言われたと思い出し、新城の名前を言いそうになって、唇を閉じた。その下にはぬめった、悋気をありありと滲ませた瞳が彼を捉えており、彼女の唇は素早く開かれた。
「誰」
「誰って、何が」
「遥はまだ良いの。幼馴染みだから。そもそも、私達が貴方を酷くしてしまったのなら、私達こそがその責任を取るべきじゃない。それを、知らない誰かが、今更、横から取っていくのは、絶対に許せないの」
「そうか。許してくれ」
「……貴方って、軽口を叩くことに関しては才能があるわね」
黒木は気を削がれたように鼻を鳴らし、大きく一歩離れた。紙幣だけが、学生服の襟元にねじ込まれている。
それを、困ったように取り出して、少し迷った後、秋山は懐に仕舞った。「やった」と黒木は言った。「仕方なくだ」と、秋山は弁解するように言った。
「お前に突き返しても、破いてしまいそうだからな。そうなると、なんだったか、犯罪になるんじゃなかったか」
「流石、よく分かっていると言いたいところだけど、生憎、私はお金を大事にしているからお財布に戻すだけだし、貨幣損傷等取締法は貨幣だけに適用されるのよ。紙幣は対象外」
「そうか。だったら返す」
「だったら、これからは常に突然五千円を渡されることに怯えなさい」
「五千円ってのが何だかな……」
埒が空かないと思い、結局、秋山は五千円札を仕舞ったままにした。騒ぎ立てるには微妙な額だし、何もせず受け取るには大きな額だった。それこそ、ゲームでも買うのに丁度良い程度の額である。