秋山東治は比較する   作:生しょうゆ

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第4話

 

 

 

「それにしても」と黒木は言って、内鍵を開けて扉を開いた。秋山が目を丸くする。それは扉の向こう、やけに忙しない足取りで廊下を歩んでいた相沢も同じで、虚を突かれたような、ばつの悪い顔を浮かべた。

 

「さっきからうるさいのよ。行ったり来たり。何か言いたいのなら、わざわざ人を遠ざけるまでもなく扉を叩けば良かったでしょう」

 

 黒木が廊下の左右を見れば、様子を窺うような生徒が数人屯していて、彼女の視線にぎょっとした顔を浮かべる。それに相沢は「ああ、ありがとう。大丈夫」と手を振って、「ようやく終わったみたいだから」と、繕った笑みを、今度は皮肉っぽく作り替え、黒木に向けた。

 

「ねえ薫。僕は、こういうのは感心しないね。前から思っていたけれど、君は少し、しつこいところがあるよ」

「鍵は他の人も持っているから、別に密室だったわけじゃないのだけれどね」

「僕が言っているのは、二人きりで教室に閉じこもることにじゃない。僕が言いたいのは、学校が決めた不健全じゃなくて、君自身の不健全さだよ。人間としての、精神の、不健全さだ。昨日のことがあったのに、あれこれと理由を付けて、まだ東治に迷惑を掛けていることにだ」

「迷惑ねえ」

 

 黒木は扉から身体を離し、「どうぞ」と言った。相沢は鼻を鳴らして教室に入り、後ろ手で扉を閉めた。「部室に行きたいんだが」という秋山の声は黙殺され、代わりに苛立たしげな目が向けられる。

 

「東治だって悪いんだよ。君がああ言ったんだから、君は毅然とした態度を取るべきだ。そういった甘さが薫を付け上がらせている。僕はあくまで君の望むとおりにしようっていうのに、君がそうなんじゃ、いつまで経っても変わらないよ。分かっているのか?」

「分かっていたわよ。冷たいもの。折角お小遣いをあげたのに」

「お小遣い?」

 

 秋山は仏頂面をして懐から紙幣を取り出した。「昔、俺が薫から、ゲームを貰ったことがあっただろう」と、彼にしてみれば理解できぬ黒木の心情というものを、聞いたままに詳らかに語り、「埒が空かないから受け取った」と締めくくった。

 

 相沢はそれを聞き終えて「はあ」と首を捻り、その思うところを探るように黒木の顔を見つめたが、彼女は向けられる視線も気にせずにいて、にこにこと笑ってばかりいる。そのため相沢は「つまりは」と、自らの考えが及ぶ範囲に咀嚼して、その考えを見下すようにして言った。

 

「つまり、薫はその、自分の嬉しさ、快楽のために、東治を消費し続けようというんだ。なんだい、東治に言われた通りじゃないか。やっぱり、君こそが迷惑をかけ続けて、慈悲を乞わせるようにしたんだろう。気持ち悪いね」

「ええ、気持ち悪いわね。でも、私は他人に気持ち悪いと思われても良いのよ」

「はあ。なんでと聞いてあげるが?」

「だって、気持ち悪くない恋心なんて、嘘でしかないでしょう。誰かを自分の近くに置きたい。自分と共にあるようにしたい。そんな思いは、言ってしまえば身勝手な、欲望に過ぎないから、向けられる方にとっては、気持ち悪くもあるでしょう」

「君はそうやって開き直るわけだ」

「私は寧ろ、遥の格好付けの方が気持ち悪い、いえ、滑稽に思えるけどね」

 

 薄い笑みと共に発せられた言葉に、相沢は「滑稽!」と馬鹿にしたように言って、大きく笑った。それは見せ付けるようでもあった。黒木と、そして秋山へと向けて、自らの立場を明確にしようとするように、彼女は身振り手振りも大きくして、言った。

 

「滑稽さを語るのなら、片思いの執着なんて、これ以上ないほど滑稽だろう。ましてや、それが一度、明確な欠点を指摘されて突き返されたというのに、あくまでその欠点を改善せず、寧ろ欠点を押し付けようとする様は、滑稽を超えて醜悪だ。これは、恋愛とか愛情以前の問題だよ。人間として醜悪なんだ!」

「そうやって遥は格好ばかり気にする。人間の話なんかどうでも良いのよ。これは私と東治の話だから」

「その東治が持ち出したのが人間だろう! そういった、個人的体験と関係とが、道義や道徳を超えず、寧ろ互いを遠ざけたのが僕達だった。だから僕はね、東治。君の思う通りに、幼馴染みという関係を今ここに取り除いて、一人の人間として誠実に接しようというわけだ。正しいのはそれだろう!」

「正しさ。誠実。道義。道徳。笑ってしまう言葉ね。貴方がそれを大事にしている理由は、それこそ滑稽よ」

「なにを」

 

 段々と、互いに声に熱が入り始め、その目付きもまた険しくなり始めた。秋山は「どっちも言い過ぎじゃねえの」と、呆れたように言ったが、言われて止まるくらいなら、そもそもこんな事にはなっていない。

 

「そもそも、誰も正しさなんて言っていない」と黒木は言った。

 

「さっきから随分と酷いことを言ってくれるけど、遥が糾弾するところの正しさとか、誠実さとか、それに拘っているのは貴方だけじゃない。私はそんなものはどうでも良いのに、貴方だけがそれを持ち出して、それが欠けていると私を非難する。どうしてでしょう?」

「それがために苦しんでいるのが東治だからだろう! 関係性の正しさ、人間としての正しさだ。僕達はそういうものを振り返らなければならないと言っている!」

「いいえ、違います。それは、他ならない遥が、誰よりも自分を正しくないと思っているからでした」

 

 ふと、相沢は口を噤んだ。目だけが嫌に鋭くなって、黒木を見据えている。「図星?」煽るように黒木が言って、秋山を指差した。

 

「東治は正しさなんて一言でも言ったかしら。寧ろ東治は、正しくなかろうとも、幼馴染みだからって、競争などというものを応援すると言ったわ。それ自体は勘違いでしかないけれど、遥の言う、個人的体験と関係とは、そのように、道義と道徳を超えているでしょう」

「それは優しさというものだ。或いは、やっぱり断絶から来る遠い言葉だよ。遠いからこそ、そんな風に、応援などと、無遠慮な事が言える。遠くなってしまったからこその言葉だ!」

「遠いなら近付くべきでしょう。だから私は近付いた。なのに貴方は正しさと。それはさっきも言った通り、裏返しなのよ。きっとね。遥自身がそうじゃないから格好付けようとして、声高にそれを叫ぶのよ。そして私を否定してみせて、自分は違うと言いたいのでしょう」

「人の内心を分かったように! 僕はただ、自分がそう思われていたのなら、反省して、改善しなければならないと、そう思っただけだ。それの何が悪い」

「悪くはないわよ。悪くはないけど、でもそれは結局、私と同じじゃない。東治を肯定した振りをして、諦めたような顔をして、迂遠に近付こうとしている。人間の正しさとやらを、正しくするだけに持ち出すのではなく、正しさを利用してやり直そうと言うのでしょう。それは滑稽で、そして酷く言うなら醜悪ね。だから、何が悪いと言うのなら、気持ちが悪いと言ってあげるわ」

 

 その言葉を契機にして、相沢の足が進み出た。強く黒木との距離を詰め始める。対し、黒木はその歩みを待っていたかのように身構え、拳を握った。柔術も空手も二人の得意とするところであり、殴る蹴るの暴力は、言葉にしないまでも、互いに望むところの決着の一つでもあった。

 

 しかし、相沢の身体は持ち上げられ、両足は空を切った。「話が長い」と秋山は言って、抱えた相沢の身体をくるりと自らの後方に置くと、「そして、喧嘩は小学校までと決めただろう」と呆れて言った。

 

「だから、代わりに俺が決着を付けてやる。口喧嘩は薫の勝ちだ。こういうのは先に手を出そうとした方が負けだからな。良かったな」

「それは大変よろしかったわ」

「何を、おい! これは口喧嘩なんかじゃないし、第一負けてもない!」

「そうだ。薫は勝ったから、俺からの評価を下げてやる。残念だったな」

「あら」

 

 意地の悪い笑みを潜ませて、黒木は秋山の顔を見つめた。うんざりとしていた。その顔を見れば、それまでの熱気も互いに薄れ始め、黒木と相沢は互いの顔を見合わせた。

 

 一方で、秋山は気怠げに頭を掻きながら、うんうんと唸り声を吐きつつ、言った。

 

「お前達は、本当に、負けず嫌いなんだな。だが、まだ競争したいというのなら、そうやって、俺の目の前でうるさいことを言うな。評価が下がって、負けることになる。そして大人しくしていれば、何時かは勘違いもなくなって、五千円の思い出のように、後々笑い話として話せるようになるだろう」

「……まだ、それを言うのね」

「言うんだ。そしてお前達はまだ慈悲をくれないのか」

「慈悲って……やっぱり、何もかも遠くすることが?」

「元より遠かった。それを、遥の言葉を借りるのなら、正しくするだけのことだ」

 

「愛だの、恋だの」と、酷く嫌そうに秋山は言って、懐の五千円を改めてテーブルの上に置くと、二人の顔を見た。その唇は互いに引き締められ、その瞳は、黒木は真っ直ぐに、相沢は逸らされて、しかし共に、熱情と困惑とをない交ぜにした複雑な感情を湛えていた。

 

「ごめんね」と最初に言ったのは相沢だった。「ごめんなさい」と黒木が被せて言った。「だけど」と発したのは両者同時で、視線を絡ませた逡巡の後、相沢が言った。

 

「だけど、それはやっぱり勘違いなんだよ。君は、こう言ってはなんだけど、酷くおかしなことをしている。あるものをないと言って、ないものをあると言っているんだ。そんなことは納得できないし、怒りさえ出てくる。そう思わせたのが僕達だったのなら、それは悪かったけれど、でも、十七年間の全てをそれだけで終わらせるのは、やっぱり悲しすぎるよ。関係性って、人によっては呪いのようなものだけれど、僕達のこれは、そうじゃないと信じたいんだ。君の思いは、君だけのものだけれど、その思いが向けられる先が僕達なら、そこに互いの思いを重ねて、もっと豊かに広げることだってできる。どうか、自分だけで完結させないで欲しい」

 

 それは全く真摯な言葉で、そして言葉と共に、頭が下げられた。黒木は続けて口を開こうとして、閉じた。目を伏せた。

 

 秋山は一瞬、酷く心が揺さぶられて、『俺はとても馬鹿なことをしている』と、自分を恥ずかしく思った。だが、その馬鹿な己というものを自覚するごとに、『この状況はなんだ』と強く思った。

 

『この状況は、頭を下げられているのか。俺ごときが、この二人に』

 

 そう自覚してしまえば、これほどふざけた、あり得ぬ光景もなく、秋山は壮絶な居心地の悪さに身震いした。仮に彼女らの愛情が真実だとするのなら、自分がその中に飛び込み、その中に落ち着くことは、本当に滑稽な事だと思った。自分で自分を笑ってしまう。全く釣り合いの取れない、身の程知らず、馬鹿の振る舞いだった。

 

 しかし、その光景を馬鹿だと思うのは、秋山に残された自尊心が故に過ぎない。彼は愚かさを見せびらすことを恐れていた。それは世間といった形のないものに対してではなく、目の前の幼馴染み達に。『結局俺は、捨てられるのが怖いだけだ』と彼は思った。彼女達に対して、自分は本当に愚かで価値がないのだと、愛情を勘違いしてしまうことで証明することを恐れていた。そして何より、勘違いならば本当に耐え難かった。競われる愛情が、まやかしに過ぎなかったと思い知ることは、与えられるであろう愛情の空想を打ち消すほどに、彼を恐れ戦かせた。

 

『薫は遥を格好付けだと言ったが、本当に格好付けているのは俺だろう。自分が馬鹿だったと思い知ることを俺は恐れている。これは単なる自己保身の、醜い態度だろう』しかし、と秋山は思い、頭を上げた二人の顔を交互に見つめた。『これが俺を迎えてくれるなど、どうして思えるだろうか。この二人を見る度に、俺は自分が馬鹿だと思うんだ。だから、思い知る前に知っているようなものだ。自己保身だって、必死な防御と言い張ることもできるんだ』

 

 本当に、彼は自らの平凡さを呪った。自分がもっと賢かったのなら。或いはもっと馬鹿だったのなら。関係は澱むことなく、もっと良い、動きのある何かになったのではないか。しかしそれは夢想でしかないとも思った。そうなれないのに、なれた自分を思うことは、今この場にないものを、ない場所に求める無意味な行為に過ぎない。

 

 結局、彼は相応しい言葉など見つからず、「まあ、ほどほどにしてくれ」と、毒にも薬にもならない事を言って、教室を出た。相沢の頼みを律儀に守っていた、廊下を見張っていた生徒達に頭を下げ、「何があったの?」という質問に「誕生日プレゼントの相談」と返し、「嘘つけ」とからかうように言われながらも、さっさとその場を後にした。

 

 しかし、部室に向かう道すがら、下駄箱に靴を履き替えようとして、彼はふと、手を止めた。

 

「嘘つき」

 

 降り始めた太陽の、その橙色の光を逆光にして、新城は言った。

 

 

 

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