「先輩は嘘つきですね。口下手どころか、嘘つきですよ。全く上手くいっていない」
嘲笑にも似た軽やかな笑みを浮かべ、新城は学生鞄を片手に秋山へ近付いた。靴紐を結ぶために屈んでいた彼の頭越し、見下すようにして彼女は言う。
「折角、黒木さんが勧誘されるところ、相沢さんが勧誘されるところを眺め、喜ばしく両者の手を取ろうと思ったのに、一向に現れず。聞けば美術部の部室で何事か、いかがわしい事をなさっていたようじゃないですか」
「なさっていないし、お前の趣味は悪いな」
「待機していたカメラ小僧に小娘よりはマシでしょう」
「新聞部は新学期から頑張っているんだな」
「新聞部ってそんなに数がいるんですか?」
そう言って笑い、一歩引いて、新城は立ち上がった秋山を見つめた。「で、どうでした?」と、試すように言う。
「少しばかり、機嫌が悪そうで。そういう顔をする時、先輩は何時も下らない事を考えていますね。どんな下らない事がありました?」
「薫から五千円を貰った。それを返した」
「まあ先輩のお値段なんてそんなものですが、相沢さんは?」
「一区切りしたところで、薫に入らされた。あいつは口下手なところがあるから、中に入りづらかったんだろう。案の定、薫との口喧嘩にも負けたよ」
「純文学作家を捕まえて口下手とは、随分思い上がったことを言いますね」
「口が下手だからこそ文章を書くんだろう。少なくともあいつはそういう奴だよ。知らなかったのか?」
「すかさずのマウントをありがとうございますが、勿論知っていましたとも。その上で思い上がりと言うんですよ、口下手な先輩」
愉快そうに笑って、新城は「しかし、どうしますか」と先を歩いた。明るい髪色が橙の中に溶けていくのを追って、秋山は隣に歩く。時計を見ればそれなりに時間は経っており、「部活なんか気にしている場合ですか」と新城は言った。
「新入生勧誘なんて、どうせ一日で決まるものではないでしょう。それよりも喫緊の問題を気にした方が良いですよ」
「その問題は片付いたはずだったんだが」
「片付いていないから喫緊なんですよ。ある意味予想通りとも言えますがね。何せ、先輩の頭とお二人の頭では、立場以上に開きがありますから」
「その開明的な頭で、もっと分かってくれないものかな」
「分かっているからこそのあれこれなんですが、まあ良いです。それは私にとって有益なので」
「お前もあいつらが、愛だの恋だのを真剣にやっていると思うのか?」
「はい。その上で先輩は勘違いしたままにしておいて下さい。分かった上で拒絶するのが一番良いんですがね」
「全て芸術のため!」と新城は言って、「それにしても情けない」と秋山の脇腹を小突いた。
「分かってくれないものかなどと、そんな態度でいるから駄目なんですよ。頼むから駄目なんです。大体にして、そいつは身勝手なエゴじゃないですか。だというのに、そのエゴを先輩は、押し通そうとするのではなく拝み倒そうとしている。それは保身でもありますよ! 先輩は、この期に及んで、まだあのお二方に嫌われたくないと思っているんじゃないですか?」
「思っているが。穏便に関係を改めるために、俺はお前にも相談したし、あれこれと悩みもしたんだよ」
「その悩みがまるでなっていないと言っているんですよ。ねえ先輩、貴方が本当に悩んでいるというのなら、もっと覚悟を決めるべきなんですよ。貴方の態度は、苦悩と呼ぶには軽妙です。言葉遣いがそうなんですよ。貴方とお二方の会話を聞いて、これが真剣に決別を望んでいると誰が思うでしょうか? 傍目にはいちゃついているようにしか見えませんよ」
「そうか?」
意外とばかりに秋山は新城を見つめたが、彼女は呆れたように溜息を吐くばかりであった。「その顔ですよ。間抜け面」と全く遠慮なしに彼女は言った。
「眉間に皺を寄せる。睨むような目を浮かべる。それは確かに不機嫌さを表すでしょうが、やっぱり真剣味が足りていない。態度が悪いんです。不快感を与えるという意味ではなく、貴方がなすべきものになっていない。それではどうしたって、今までの延長線上にしかならないんですよ」
「言っている意味がよく分からない。本当に文芸部だったのか?」
「じゃあ率直に馬鹿と言ってあげましょうか? つまりですね、先輩は穏便にと言いますが、それでも今までの関係を断ち切って、お二人から離れようというのに、まだ幼馴染みとして接しているんです。だからお二人も今までを続けようとする。だって他ならぬ先輩が続けているんですから」
「そりゃあ……幼馴染みだから、まあ、長年の癖というか」
「それがいけないんですよ。つまり、甘いんです。先輩はまず、お二人に嫌われようとするべきです。お二人がこれまでを続けようとすることが嫌だと言うのなら、まず先輩が、これまでを断ち切って、幼馴染みではない、他人の顔を浮かべるべきなんです。エゴを通すためには、傷付く覚悟が必要ですよ。大体、慈悲をくれだなんて、全く傲慢な、身勝手な物言いではないですか。それは愛情を、全く別の何かと取り違えられていたと、そう突き付ける呪いのようなものだったんですから、受け入れられないのは当然のことでしょう」
「呪い?」
「ええ。言葉のナイフとか刃とか言うよりも、それは呪いですよ。過去と現在と未来、その三つへ同時に苦悶を生み出し、縛り付ける言葉は、呪いという言葉が相応しいでしょう」
呪いと聞いて、秋山はまず藁人形と釘を思った。それは誰かを殺すために御神木に打ち付けられる。しかし彼は、自分の言葉がそこまでの効力を発揮するとは思わなかった。呪いという言葉にしても、この人波でごった返す登校口の風景を前にしては、どうにも馬鹿馬鹿しい、いっそ陳腐なものと感じ、「俺は、そこまでとは思わない」と言った。
「大体、俺はそう思わなかったから慈悲と言ったんだ。受け入れられなかったが」
「そう、受け入れられなかった。なら今度は、こちらから押し通すべきなんですよ。先輩が本当に苦しんでいるというのなら、そして愛情を勘違いだと思い続けるのなら、これまでの情とか、関係とか、そういったものに心乱されず、あくまで迷惑だと、それはもう嫌な顔をして、何もかも拒絶するべきなんですよ」
「そういうものか」
「そういうものです」
一理ある、と秋山は思った。確かに新城が言う通り、自分は嫌われようとはしていなかった。それはやはり、格好付けなのだ。どうにか穏便に事を運ぶことで、誰も彼も傷付かず、そして何より自分が傷付かず、全て終えられるものと夢想していた。
だが、それは思ったよりも強い反発に邪魔されて、今となっては荒れ狂った、澱んだ関係を生み出している。そして遂にはあの態度だ。あの、自分が二人に頭を下げられているという居心地の悪さ。そうまでして縋ろうとする己に、一体、何の価値があるというのか。それが分からないのなら、そして二人を慮って心を殺すこともできないのなら、やはり自分は新城の言う通り、エゴイスティックに事を進めるしかないだろう。
『それにしても』と彼は弁解するように思った。『真剣味が足りていないとは、そうなのだろうか? 俺はそう思われているのか。泣いたり、声を荒げたりしないから、本気じゃないと思われてしまうのか』ならば今度からはそうすれば良いのか。泣いて懇願し、声を荒げ、暴力だって振るう。しかしそれは、『本当に格好悪いだろう』と、彼は内心に苦笑した。自らの愚かさを恐れて逃げ込んだ先、自分を守るために愚かさを曝け出すのは、本末転倒でしかない。
「先輩は、趣味とかないんですか?」
知らずの内に校門を通り過ぎ、部活にも出ずに帰路に就こうとしていたと気付いた時、新城はそう言って校舎前の喧噪を指差した。そこには新入生勧誘の、幟や看板やチラシといったものが目に付いて、受け渡す側の熱気、受け取る側の期待が渦巻き、目に見えぬ高揚感が全体から立ち上っている。
「部活だって、このように。熱心とは言えませんし、お二人とは関係ない、自分だけの何かはないんですか?」
「自分だけの何か」
「あるのなら、暫くそれに熱中してみれば良いでしょう。距離と時間は感情を穏やかにしてくれますよ。何だかんだ言っても大抵、遠距離恋愛は自然解消で終わるものです」
「そうか。そうだな」
秋山は校舎前の風景を横目にし、暫く考えた後、言った。
「思い付かないな。何時もあの二人のやることに付き合っていたから。趣味と言われても、ちょっと困ってしまう」
「困ってしまうのはこっちの方ですよ? こっちは親身に相談に乗ってあげているというのに、先輩はそうやって本気じゃないんですから」
「じゃあお前の趣味は何だ」
「それはもう。小説と絵画。そして黒木さんと相沢さんの追っかけです」
「気力が溢れているようで何よりだ」
「老人のようなことを!」
そう言って、二人は校門から離れ、陽が薄々と暗闇に飲まれていく中、あれこれと秋山の新しい趣味を考え続けた。しかしその何れも彼にとってはしっくり来ないもので、新城が色々と提案するものの、それに熱中する自分というものが上手くイメージできず、うんうん唸ってばかりいた。
それに業を煮やして、遂に新城は「別に良いじゃないですか」と言った。
「取りあえず、試してみれば良いじゃないですか。あれこれ好きなように。まずは何事もやってみなければ分かりませんよ」
「それはそうだが、そうなると何をやるって話になってくる。釣りやサイクリングには道具が必要だし、読書や映画は見るだけだ。散歩なんて陸上と変わらん」
「ああもう面倒臭いですね。じゃあボウリングにしましょう。駅前にあるじゃないですか。それにしましょう。はい決定です」
「ボウリングねえ」
「今度の土曜日に一緒に行きましょうね。午前十時に駅前集合ということで」
「お前も?」
思わず秋山は新城の顔を見た。彼女は「そりゃそうでしょう」とごく当然のように言った。
「私には、先輩をお二人から離す責任と義務がありますからね。ちゃんと離れつつあるかの監視です。それに、私が一緒にいると嬉しいでしょう? 私って可愛いですから」
「そう言われると嬉しくなくなってくるから、俺はあまのじゃくなのかもしれないな」
「そんな事はお二人を拒絶している時点で自明です。しかし何でしたら、私に惚れて下さっても構いませんよ。そうなれば楽ですから」
「そうか、検討しておく」
「検討!」
新城は立ち止まった。にやにやと笑みを浮かべる。
「良いですね。それも良いかもしれませんよ。どうぞ勝手に恋い焦がれて下さい。私はお二人とは違って優しいので、慈悲の一つも与えますよ」
「馬鹿にする」
「馬鹿になってしまえば良いのです。小賢しくあれこれ考えるよりはね」
「ではまた明日」と、いつの間にか十字路に辿り着いていて、新城は左に去って行った。その後ろ姿は妙に上機嫌で、鞄を片手に、ふらふらと左右に揺れている。酔っているかのようだ。秋山はこの後輩の胡乱な様子を少し心配に思って、「薬とかに手を出していないだろうな」と呟いた。中学時代に出会ってから今まで、何時も浮かれているように見えるのである。
思えば彼女との出会いは、文芸部と美術部の部室の前で、うろうろとあちこちを歩き、扉に手を掛けては引き返すという奇怪な振る舞いをしていたところに声を掛けたところが始まりで、それからは黒木と相沢の後を常に追いかけていたため、自然とよく話すようになったのだ。秋山自身、自分よりも黒木と相沢の方が新城と親しいだろうとは思うが、しかし彼女が言うに、本人を前にしては話せぬ賞賛などを吐き出すには打って付けだったという。
しかし新城も、当初は上級生、そして二人の幼馴染みという立場に遠慮はあった。それでも言葉を重ねるごとに段々と消えて、いつの間にか、辛うじての敬語を使うだけになっている。そして秋山もまた自分の愚痴を言い始めて、結果として今の形容しがたい、友人のような共犯関係のような、そんなものになった。
「いや、友達か」と、すっかり暮れた夜空の下、秋山は思い付いて呟いた。なるほどと手を叩く。小賢しく考える必要はなく、それだろう。
陸上部の友人達と同じく、あれこれ言って笑う仲である。そう考えれば土曜日に遊びに行くという提案も、何ら不思議なところのない、寧ろ親愛に満ちた提案だっただろう。秋山は今更ながらに反省して、そしてふと思った。
「趣味とかじゃなく、友達を優先するようになるだけで良いんじゃないのか」
二人と距離を置くならば、何も新しい場所を見つける必要はなく、今ある別の場所に向かっていけば良いだけの事である。それは言い訳でもあるが同時に好機でもあり、改まった生活の新鮮さを楽しもうと思うことさえできた。
そんな、口にしてしまえば呆気ない、ただ今まで以上に友達と仲良くするという、いっそ子供じみた解決策を思えば、新城の言った呪いだの覚悟だのが急に馬鹿馬鹿しく思えて、「真剣でなくたっていいだろう」と言い訳染みた思いも吐き出された。そう見えるというのなら、それが己なのだ。平凡な人間が抱く一風変わった思いは、その対象が変わっていたというだけで、思いの質そのものは平凡である。これに人生を賭けるつもりもなく、そうあって欲しいと思い続けていただけのこと。新城には悪いが、このまま何となくでうやむやにしてしまおう。
『そもそも、どうして可苗は、そのように提案しなかったのだろうか。拒絶だの何だのを言う前に、環境を変える方が簡単だろう』思い当たらなかったのは自分もだが、秋山はその様に考えて、『きっとあいつは友達が少ないからだ』と思った。一緒に行こうと言ったのもそのためだろう。思えば、黒木と相沢以外に、誰かと話している姿を見かけたことがない。
今日にしても、部活動の新入生勧誘は友達同士で歩くには絶好の機会だったろうに、自分などを優先して一人で下駄箱に立っていた。思っているよりも寂しい奴なのかもしれない。今度からは優しくしてやろう。夜道、そんな風に考えた秋山であった。