ベルガモットと機械油   作:灯火011

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単気筒の独白

第一章:雨の境界線

 

 雨粒がヘルメットのシールドを叩く音が、世界との通信を断絶するノイズのように響いていた。

 視界の端で、灰色の海が鉛色の空と溶け合っている。ここは本州の背骨を越えた先、日本海側の国道だ。

 

 私はスロットルを戻し、濡れた路面にタイヤが食いつく感触を確かめながら、緩やかにカーブを抜けた。股下にある空冷単気筒エンジン――ヤマハSR400は、冷たい雨の中でも不平ひとつ言わず、一定のリズムでドッドッドッという鼓動を伝え続けている。

 

「……悪いね。もう少しだから」

 

 タンクを濡れたグローブで軽く叩く。返事はない。だが、エンジンの振動が少しだけ柔らかくなった気がした。これは私の独り言であり、同時に、この鉄の塊と呼吸を合わせるための儀式だ。

 

 旅の目的はない。強いて言えば、昨日よりも西へ行くこと。そして、旅先で美味い紅茶を飲むこと。ただそれだけだ。

 

 ―――定住しない生活を選んでから、もう三年になる。最初は逃避だったかもしれない。仕事からも、人間関係からも、そして何より、自分自身への期待からも。けれど今は、この「移動し続けること」こそが、私という人間の輪郭を保つ唯一の手段になっていた。

 

 峠を下りきると、錆びついた看板が見えた。『ドライブイン・スターダスト』。昭和の遺物のようなその店は、廃墟寸前の佇まいで雨の中に立っていた。私はウインカーを出し、誰もいない駐車場へと滑り込む。キルスイッチを押し、エンジンを止める。

 

 ………静寂。

 

 雨音だけが、急に大きくなったように耳に押し寄せる。チン、チン……とエンジンが冷める金属音が、私たちがここまで走ってきた熱量を物語っていた。ヘルメットを脱ぎ、バサリと濡れた髪をかき上げる。サイドミラーに映った自分は、少し疲れた目をしていたが、不思議と嫌いではなかった。

 

「さてと」

 

 私はサイドバッグから愛用の魔法瓶を取り出すわけでもなく、店へと視線を向けた。営業中という札が出ている。この雨の中でこれは、奇跡に近い出会いだ。

 

第二章:停滞する時間

 

 店に入ると、カウベルが間の抜けた音を立てた。店内は薄暗く、埃と古い揚げ油の匂いがした。客はいない。カウンターの奥で、白髪の老婆がテレビのバラエティ番組をぼんやりと眺めていた。

 

「いらっしゃい」

 

 老婆は私を見ても驚きもせず、ただ緩慢な動作で水を持ってきた。

 

「食事かい?」

「いえ、温かい飲み物を。紅茶はありますか?」

「紅茶……。ティーバッグでいいならあるよ」

「それで構いません。ミルクは付けないでください」

 

 私は窓際の席に座り、革のジャケットを脱いで椅子の背に掛けた。窓ガラスの向こうには、雨に濡れたSR400が佇んでいる。あの美しい造形を見ていると、濡れた服の不快感も少し和らぐ気がした。

 

「バイクかい。珍しいね、女の人で」

 

 運ばれてきたカップからは、安っぽいけれど温かい湯気が立っていた。

 

「ええ、まあ。足代わりです」

「足代わりにしては、随分と遠くから来た顔をしてるね」

 

 老婆の言葉に、私は少しだけ口角を上げた。

 

「そう見えますか?」

「ああ。ここに寄る人間は、二種類しかいない。ここから出られなくて腐ってる地元の若いのか、どこかへ行こうとして道に迷った余所者かだ」

 

 老婆はカウンターに戻り、またテレビに視線を戻した。私はカップに口をつける。渋みが強い。でも、冷え切った体にはそれが薬のように染み渡る。

 

「ばあちゃん、いつもの」

 

 その時、店のドアが乱暴に開いた。入ってきたのは、作業着姿の少女だった。歳は高校生くらいだろうか。濡れたカッパを床に落とし、苛立った様子でカウンターの椅子を引いた。

 

「あいよ。今日は早いね」

「原付が止まった。最悪。エンジン掛かんないし、雨は降るし」

 

 少女はドンとテーブルを叩いた。その手は黒い油で汚れていた。私は興味を失い、再び窓の外へ視線を戻そうとした。だが、少女の視線が私、そして窓の外のSR400に釘付けになっているのに気づく。

 

「……あれ、あんたの?」

 

 少女が不躾に指差す。

 

「そうよ」

「キックだろ、あれ。女なのに掛けられんの?」

 

 挑発的な口調。でも、その瞳の奥には、好奇心というよりは、もっと切実な「渇望」のようなものが見えた。私は紅茶を一口飲み、静かに答えた。

 

「コツさえ掴めば、力はいらないわ。……君の原付、どうしたの?」

「知らねーよ。急に止まったんだ。セルも回んない」

 

 私はため息をひとつ吐き、最後の紅茶を飲み干した。

 

「見てあげましょうか」

「は?」

「その代わり、この紅茶代、奢って」

 

第三章:機械仕掛けの対話

 

 店の軒下まで少女の原付――古いスーパーカブを押してきてもらった。私はジャケットの袖をまくり、車載工具を取り出す。

 

「プラグか、電気系統か……」

 

 少女は傘を差して、私の手元をじっと見つめている。

 

「あんた、整備士?」

「ただの旅人。でも、相棒の機嫌を取るために、最低限のことは覚えたわ」

 

 サイドカバーを外し、プラグキャップを確認する。緩んではいない。プラグを外し、火花が飛ぶか確認する。飛ばない。

 

「……ふん」

 

 私はさらに奥、配線の束を探る。古いカブだ。振動でどこかが断線している可能性が高い。数分後、イグニッションコイル近くの配線が、腐食してちぎれかけているのを見つけた。

 

「これね」

 

 私はニッパーで被膜を剥き、予備の配線コードを使ってバイパス手術を施す。手際よくビニールテープで巻き、元に戻す。指先は黒く汚れ、雨が横殴りに吹き付けて頬を濡らす。でも、嫌じゃない。

 

 機械は正直だ。原因があり、結果がある。人間関係よりもよほどシンプルで、美しい。

 

「さ、キックしてごらん」

 

 私が促すと、少女は半信半疑でペダルを踏み込んだ。一度、二度。トトトト……と、頼りないが確かな排気音が蘇った。

 

「うそ、掛かった」

 

 少女の顔がパッと輝く。その瞬間、彼女はただの不機嫌な子供から、年相応の少女に戻っていた。

 

「ありがとう!すげえ、魔法みたい」

「理屈が分かれば魔法じゃないわ。……大事に乗ってるのね、これ」

 

 錆だらけだが、オイルは綺麗だったし、チェーンも注油されていた。

 

「……これしか、ここから出る手段がないから」

 

 少女の声が少し沈む。

 

「私、高校出たら東京行くんだ。こんな何もない町、絶対出てやる」

 

 その言葉は、かつての私自身の言葉のようだった。私は工具をウエスで拭きながら、彼女を見る。

 

「行けるわよ」

「え?」

「そのカブなら、東京どころか、地球の裏側だって行ける。燃料と、少しの整備と、あとは『行こう』と思う意思があれば」

 

 少女は目を見開いて、自分のカブを見下ろした。ただのボロバイクが、急に翼を持った天馬に見えたのかもしれない。

 

「お姉さんは? どこへ行くの?」

「西へ」

「西のどこ?」

「さあね。風の吹くまま」

 

 キザな台詞だと思ったが、少女は目を輝かせて、

 

「かっけー……」

 

 と呟いた。私は苦笑し、汚れた手を雨水で洗い流した。

 

第四章:夜の帳と湯気

 

 雨は小降りになったが、日は暮れかけていた。

 

 私は少女に別れを告げ、近くの海岸にあるキャンプ場にテントを張ることにした。シーズンオフの平日のキャンプ場。他に客はいない。波の音だけが響く、完全な孤立空間だ。

 

 テントの前室で、小さなガスバーナーに火を灯す。 昼間はティーバッグだったが、夜はちゃんと茶葉から淹れる。アルミのコッヘルで湯を沸かし、持参したアールグレイの茶葉を躍らせる。ベルガモットの香りが、潮の匂いと混ざり合う。この瞬間が、一日の中で一番好きだ。

 

 シェラカップに注いだ紅茶を啜りながら、私はスマホを取り出した。圏外ではないが、誰からも連絡はない。

 

 ―――孤独だ。けれど、寂しくはない。

 

 少女の言葉を思い出す。『こんな何もない町、出てやる』。私は何かから逃げるために走り出し、彼女は何かを掴むために走り出そうとしている。方向は違えど、私たちは同じ「熱」を持っているのかもしれない。

 

 ふと、SR400を見る。月明かりに照らされたタンクが、鈍く光っていた。

 

「お前はいいな。悩みなんてなくて」

 

 私はカップを掲げて、無言の相棒に乾杯する。SR400は何も答えない。ただそこに在るだけで、私を肯定してくれている。誰かの所有物ではなく、誰かの妻でも母でもなく、ただの「個」としてここにいる私を。

 

 冷たい風が吹き抜け、私は身震いしてレザージャケットの前を合わせた。

 

 少し人肌が恋しいと思うこともある。誰かの体温に触れて、安心したい夜もある。

 でも、その温もりに溺れてしまったら―――私はもう走れなくなる気がした。この鋭利な孤独こそが、私の燃料なのだ。

 

 残りの紅茶を飲み干し、私は寝袋に潜り込んだ。

 明日は晴れるだろうか。

 

最終章:キックスタート

 

 翌朝、世界は蒼く澄み渡っていた。昨日の雨が嘘のように、空が高い。空気は凛と冷たく、吸い込むと肺が浄化されるようだ。

 

 手早く撤収を済ませ、荷物をバイクに積む。

 

 ―――儀式の時間だ。

 

 デコンプレバーを引き、キックインジケーターを覗き込む。ピストンの位置を調整し、上死点を出す。深呼吸ひとつ。

 

 右足に全体重を乗せ、一気に踏み抜く。

 

 ()()()()

 

 一発で目覚めたエンジンが、早朝の静寂を切り裂く。安定したアイドリング。今日の機嫌は良いらしい。オイルが循環し、温まっていくのを感じる。ヘルメットを被り、グローブをはめる。シールドを下ろした瞬間、私はまた「私だけの世界」の住人になる。

 

 国道に出ると、向こうから見覚えのあるスーパーカブが走ってきた。昨日の少女だ。通学途中だろうか。

 

 すれ違いざま、彼女は私に気づき、大きく手を振った。

 私も左手を軽く挙げて応える。彼女の表情は見えなかったが、きっと笑っている気がした。

 

 私はアクセルを開ける。

 SR400が唸りを上げ、加速する。

 

 バックミラーの中で、少女の姿が小さくなり、やがて消えた。もう二度と会うことはないだろう。それでも、あの一瞬の交差が、私の旅を少しだけ彩ってくれた。

 

「行こう、相棒」

 

 風がヘルメットを叩く。

 次の街まで、あと100キロ。

 私の旅はまだ終わらない。

 

 終わらせる理由が、まだ見つからないから。

 

 境界線の向こう側へ。

 私はギアをトップに入れ、光の中へと溶けていった。

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