ベルガモットと機械油   作:灯火011

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午前二時のメスティン

 眠れない夜というのは、泥の中に沈んでいくような感覚に似ている。シュラフの中で何度も寝返りを打つが、意識は冴える一方だ。テントの薄いナイロン一枚を隔てた外側からは、秋の虫の声と、遠くの国道を走る深夜便のトラックの走行音だけが、途切れ途切れに聞こえてくる。トラックのタイヤがアスファルトを噛む、あの「コーッ」という高い音。あれを聞いていると、自分が世界の流れから取り残された石ころのように思えてくる。

 

 私は溜息をつき、シュラフのジッパーを下ろした。どうやら今夜も、私の脳は休息を拒否しているらしい。ここ数日、ずっとこうだ。体は疲れを訴えているのに、神経だけが張り詰めた弦のように唸りを上げている。

 

 ヘッドランプを首に掛け、赤いモードで点灯させる。暗順応した目を刺激しないための配慮だが、誰もいない闇の中で赤い光を放つ自分は、まるで何かの警告灯みたいだ。私は道具箱――サイドケースとして使っている軍用の弾薬箱を開けた。出てきたのは、愛用のシングルバーナーと、使い込まれて底が煤けたアルミのメスティン。

 

 こんな午前二時に炭水化物を摂るなんて、美容や健康を気にする人間なら卒倒するような所業だ。けれど、乾パンやエナジーバーのような「餌」では、この胸に空いた空洞は埋まらない。私は日本人だ。米を食わなければ、力も出ないし、この粘着質な孤独にも勝てない。

 

「……付き合ってくれる?」

 

 テントの前室、結露防止のカバーを掛けたSR400のシルエットに向かって小声で呟く。当然、返事はない。冷え切ったエンジンは、今はただの沈黙した鉄の塊だ。だが、その沈黙が「好きにしろ」と言ってくれているようで心地よかった。

 

 私は無洗米を一合、メスティンに入れる。水場に行くのも面倒で、手持ちのミネラルウォーターを注ぐ。水の量は指を突っ込んで第一関節まで。計量カップなど使わない。長年の野営生活と、幾多の失敗の積み重ねが、最適な水加減を指先に記憶させている。

 

 バーナーに火を点ける。

 

 ボッ、という音と共に青い炎が揺れる。

 

 小さな燃焼音が、深夜の静寂に対するささやかな反逆のように響く。

 

 じきに、チリチリという音が聞こえ始め、甘く、どこか懐かしい湯気がテントの前室に充満する。この匂い。実家の台所、かつて誰かと囲んだ食卓、あるいは旅先の定食屋。様々な記憶が、湯気と共に立ち上っては、テントの天井で結露となって消えていく。

 

 私は蓋の上に重石代わりの缶詰を乗せ、じっと火を見つめた。バイクに乗っている時と、こうして火を見ている時だけは、余計な思考が止まる。過去の後悔も、未来の不安も、すべてが白米が炊き上がるまでの二十分の間だけ、猶予される。

 

 その時だった。ガサリ、と近くの枯れ草を踏む音がした。

 

 私は反射的に身体を強張らせ、バルブを絞って火を小さくした。右手は自然と、枕元に置いてあったシースナイフの柄へと伸びる。風の音ではない。重みのある足音だ。

 

 熊か、猪か。あるいは――もっと厄介な、人間か。

 

第二章:空腹な闖入者

 

「……いい匂いがする」

 

 聞こえてきたのは、心細そうな、今にも消え入りそうな男の声だった。私はナイフから手を離さずに、テントのフラップを数センチだけ開けた。月明かりの下、そこに立っていたのは、幽霊でも猛獣でもなく、青白い顔をした若い男だった。服装は軽装で、とてもこの季節の山で夜を明かす装備ではない。パーカーにジーンズ、足元はスニーカーだ。

 

「誰?」

 

 私が低く問いかけると、男はビクリと肩を震わせた。

 

「す、すみません。怪しいものじゃ……いや、怪しいですけど。あの、道に迷って」

「管理棟はあっちよ」

「人がいなくて……。それに、財布もスマホも、車に置いてきちゃって」

 

 男は情けなく眉を下げた。どうやら、ちょっとしたハイキングか散歩のつもりで入り込み、日が暮れて方向を見失ったクチらしい。典型的な「山を舐めている」タイプだ。

 

 普段なら、適当にあしらって追い払う。あるいは、警察に通報して終わりだ。だが、彼の視線は私ではなく、私の足元――蒸気を上げるメスティンに釘付けになっていた。その目にあるのは、純粋で動物的な「飢え」だ。腹が減っている人間に、悪党はいても、今は嘘をつけない。それは私の持論だった。

 

「……座れば」

 

 私は溜息交じりに顎で指示した。

 

「え?」

「食べるんでしょ。丁度、炊き上がるところだから」

 

 男は何度も頭を下げながら、前室の端に小さくなって座った。私は火を止め、メスティンをタオルで包んで蒸らしの工程に入る。この十分間が一番長い。

 

「バイク、なんですね」

 

 沈黙に耐えかねたのか、男がSR400を見て言った。

 

「そうよ」

「怖くないですか?こんな夜中に、女の人一人で」

 

 私はバーナーの上でシェラカップの湯を沸かしながら、鼻で笑った。

「何が怖いの?」

「いや、幽霊とか、襲われたりとか」

「生きてる人間の方がよっぽど怖いわよ。……あんたみたいに、いきなり現れる奴とかね」

 

 男は縮こまった。「すみません」と繰り返す。

 

 蒸らし時間が終わる。私はタオルを解き、蓋を開けた。

 

 ふわり、と真っ白な湯気が爆発するように広がる。一粒一粒が立ち、艶やかに光る銀シャリ。完璧だ。やはり私の指先は裏切らない。男がゴクリと喉を鳴らす音が聞こえた。

 

「器、ないから。蓋を使って」

 

 私はナイフでメスティンの中のご飯を半分に分け、半分を蓋によそう。そして、サイドバッグからとっておきの「おかず」を取り出した。

 

 ラップに包まれた、鮮やかな紅色の切り身。秋田の市場で手に入れた『ぼだっこ』――激辛の塩引き鮭だ。

 

 焼くのが一番だが、今は時間がない。バーナーで皮目を軽く炙り、脂を滲ませてから、熱々のご飯の上に乗せる。塩の結晶が浮くほどの強烈な塩分。それが白米の甘みを極限まで引き立てるのだ。

 

「食え」

 

 差し出すと、男は震える手で受け取った。箸もないので、予備のスポークを貸してやる。男は一口食べ、目を見開いた。

 

「……しょっぱ!でも、うまっ……え、何これ、すげえ美味い」

「秋田の塩鮭よ。高血圧の敵だけど、疲れた体にはこれ以上の薬はないわ」

 

 私も自分の分のメスティンを抱え、鮭を少し崩してご飯と共に口に運ぶ。

 

 強烈な塩気が舌を刺し、その直後に米の甘みが波のように押し寄せる。咀嚼するたびに、脳内の幸せ物質が分泌されていくのが分かる。パンでは駄目だ。パスタでも駄目だ。この、暴力的なまでの塩気を受け止められるのは、日本の白米だけだ。

 

 二人で黙々と食べた。会話はいらない。ただ「食べる」という行為が、奇妙な連帯感を生んでいた。

 

第三章:白い夢の残響

 

 食事を終え、熱いほうじ茶を啜ると、男はようやく人心地ついたようだった。

 

「助かりました……。本当に、地獄に仏っていうか」

「仏じゃないわよ。ただの通りすがりのライダー」

 

 私はカップを置き、男を見た。顔色が戻っている。

 

「朝になったら道まで送るわ。それまで、そこで寝てなさい」

 

 私は前室の空いたスペースに銀マットを放ってやった。テントの中には入れない。それが最低限の警戒線だ。

 

 男は礼を言い、横になると数分もしないうちに寝息を立て始めた。図太いというか、限界だったのだろう。満腹感と、温かい茶の効果か、私にもようやく眠気が訪れていた。

 

 

 その夜、私は奇妙な夢を見た。

 

 

 真っ白な空間に、私は立っていた。足元には、どこまでも続くアスファルトの道。その道の真ん中に、一匹の蛇がいた。

 

 ―――白く、美しい鱗を持ったマムシだ。

 

 蛇は鎌首をもたげ、私を見ている。恐怖はなかった。むしろ、神々しささえ感じた。蛇が口を開き、私の足首に噛みつこうとする。痛みの代わりに、強烈な熱さが身体を駆け巡る――。

 

「……っ!」

 

 目が覚めると、外は薄明るくなっていた。夢の余韻が、まだ肌に残っている。白いマムシ。不吉なのか、吉兆なのか。ただ、噛まれた場所――右足首が妙に熱い。私は寝袋から這い出し、足首を確認した。当然、傷跡などない。あるのは、キックペダルを何千回と踏み込んで鍛えられたアキレス腱だけだ。

 

「……変な夢」

 

 私は首を振り、テントの外に出た。朝霧が立ち込めるキャンプ場は、幽玄な雰囲気に包まれている。

 

 前室に男の姿はなかった。

 

 ただ、畳まれた銀マットの上に、メモ代わりのレシートの裏紙が置いてあった。

 

『ありがとうございました。おかげで生き返りました。この御恩は忘れません。東京に来ることがあったら、ぜひ』

 

 下には名前と連絡先らしきものが書いてある。

 

「……律儀なこと」

 

 私はその紙をくしゃりと丸めようとして、止めた。なんとなく、捨ててはいけない気がした。あの白い蛇の夢と、この男の出現が、どこかでリンクしているような気がしたからだ。私は紙を綺麗に折り直し、ジャケットの内ポケットに仕舞った。

 

第四章:始動の朝

 

 撤収作業は迅速に行う。

 

 来たときよりも美しく。それが野営の鉄則だ。焚き火の跡も、メスティンの吹きこぼれも、すべて痕跡を消す。私が去った後には、ただ草が少し寝ている跡だけが残る。

 

 SR400のカバーを外し、露を拭き取る。

 キーを差し込み、イグニッションをオンにする。

 デコンプレバーを引き、キックインジケーターを確認。

 昨夜の湿気を帯びた空気を吸い込んだエンジンは、少し気難しそうだ。

 

「起きなさい。今日は長いわよ」

 

 私は右足に力を込める。

 白い蛇に噛まれた右足だ。

 踏み抜く瞬間、足首に走った熱が、そのままエンジンへと伝播したような錯覚を覚えた。

 

 ズドドンッ!

 

 今までで一番と言っていいほど、力強い始動音だった。

 単気筒が爆発を繰り返し、朝の冷気を振動に変えていく。

 

 この音だ。

 

 この音が鳴っている限り、私はどこへでも行ける。

 

 ヘルメットを被り、シールドを下ろす。―――昨夜の男は、無事に帰れただろうか。まあ、どうでもいいことだ。袖振り合うも多生の縁と言うけれど、バイク乗りにとっては、すれ違う景色の一つに過ぎない。

 

 私はクラッチを握り、ローギアに入れた。「ガコン」という硬質な感触が、左足に伝わる。

 

 アクセルを開ける。

 

 背後で、燃え尽きなかった孤独が、排気ガスと共に白く煙った。

 

 さあ、西へ。

 

 まだ見ぬ道の向こうに、私を待っている何かがあるはずだ。例えば、最高の紅茶を出す喫茶店とか。あるいは、もう少しまともな寝心地の夜とか。

 

 私は走り出した。

 

 朝日はまだ見えない。けれど、ヘッドライトが照らす道の先は、確かに輝いていた。

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