愚か者 作:鷺沢萌絵
最後に見た光景を、おれははっきりと目の前に描き出すことができた。
目の前という表現はおかしいのかもしれないが。
杖で地面を探りながら、昨日とは違う道を行く。
鍛錬場までの道は毎日歩いているのだけれど、小石がずれていたり、硬さが違ったり。日によって違う。眼が見えない分、そういった感覚が鋭くなった。
師匠の家の近くに住めれば楽なのだが、あの辺は全部師匠の所有で、資金を支払った弟子に優先的に貸し与えられていた。
魔王軍との戦いで活躍した英雄も、十年もたてば生きるためにお金を稼がなければならないらしい。
おれは働いていないけれど。
ゼーリエが楽器演奏や僧侶としての仕事を勧めてくれたが、剣を振るう時間が減るから断った。
意外とあれで、おれのことを心配してくれているらしい。
彼女にしては珍しく……というのも、おれ以外の相手への反応を見て想像しただけだが……饒舌に語ることもある。
なにか、魔法使いのための組織を作りたがっているみたいなことを言っていた。彼女からすれば、魔王が倒されて平和になった世界は、望ましくないのだろう。
「おれには魔法の才能はなかったからな……」
あれは確か、彼女に保護されて数か月後のこと。ちょっとした試験をした。
結果として、おれに魔法の才能はまったくと言っていいほどないらしい。ゼーリエは鼻で笑って、けれどおれに接する態度は変わらなかった。
木剣を振る音が聞こえる。
僅かにささくれ立つ木が空気を割く特有の音が分かる気がした。
練習場に近づくと、呆れと嘲笑の混じる吐息。
それらを無視して、途中で足をかけようと差し込まれた剣を杖で軽く払いつつ、師匠に挨拶に行く。
「おはようございます。今日もよろしくお願いします」
師匠はいつも練習場の決まった位置にいるため、迷うことはない。
ただ今日は、すぐ近くにもう一人誰かの気配があった。
おそらくは一番弟子のフント。
「おはよう。ちょうどいい、セシテ。そこで一度、その杖を振ってみてくれないか?」
師匠に言われれば、おれはそれに従うほか無い。
かの戦士アイゼンにも引けを取らない武勇。十年前に魔王が勇者ヒンメルによって倒されるまで、前線で戦い続けた英雄。
その師匠が謝礼金さえ払えば、特に分け隔てなく弟子を取っていることに不満を持つものは少なくない。
フントこそ、その一人である。
自分こそが最も優れた才能を持つと疑わず、事実、弟子の中で彼が最も才能豊かだ。師匠の付き人として、直接指導を受けているのがその証拠。
踏み固められた地面に、それでも油断するとふらつく。
「アカズ風情が……どうして」
そんな侮蔑の言葉が、フントの口から聞こえてくるのもいつも通り。
盲目になって十年。
生涯慣れることはないのかもしれない。
けれど、最後に見たあの煌めきを思い出せる。
母の首が数秒遅れて落ちた、武芸を極めし魔族の一閃。
いつかあの、月が地面に落ちたみたいな、輝かしい斬撃を再現する。
女神の言葉を語るほうが楽だろう。楽器を奏でておひねりをもらえば楽しく生きていけるだろう。そもそも、母の首を落とした斬撃を再現しようなど、人の道理から外れた行いだ。
それでも……
杖を構え、意識を集中させる。実際、本当に最後に見たのはおれを気まぐれで助けたゼーリエの姿だ。
あの村で……魔族に襲撃された村に偶然通りかかったゼーリエは、魔法で軽く魔族を消し飛ばした。
生き残ったおれの面倒をしばらくだけ見て、あとは自立を促してくれた……のだと思う。
さっさと僧侶に預け、ついでに演奏家を寄こしてくれたのを、捨てたと表現する人もいる。
しかし、おれが生きるのに必要なものを渡してくれただけではないか。
ゼーリエはおれが戦士のような生き方をするのを、望んでいなさそうだった。
おれには平穏な生活をしてほしい──これはさすがにおれがゼーリエを美化しすぎている自覚がある。魔法の才能がない人間は、分相応の生き方をすべきだと思っているだけだろうから。
おれは、剣に生きるのが相応だと思っている。
杖先が空気の粘度を手に伝えた。
隙間を見つけ、するりと通す。横薙ぎに杖を振るうと、遅れて風音。
「まだ、足りないか……」
あの日の、母の首を落としたあの斬撃にはまだ遠い。
「ありがとう。では、申し訳ないが薪を割ってくれるか?」
静まり返った練習場で、師匠に頭を下げて小屋のある森のほうへと行く。途中で足を掛けられることはなかった。
薪を割るのはおれの仕事だった。
おれに稽古をつけてくれるのは午後からだ。
金銭を払わず、むしろ食事を分けてもらっている立場のおれとしては、文句は言えない。
薪を置いて、杖を軽く振る。カン、と心地の良い音がして薪が二つに分かれる。
これが案外楽しいのだ。
気持ちよくなって、何個かそっと重ねて、けれど杖を振り下ろせない高さになるとどうしようもない。
「変わったことをしているな」
気配を感じず、突然真横で声がしたものだから慌てて仰け反りつつ杖を振った。
人を打つ感覚はなく、異様なまでに固い何かに阻まれる。
「ゼーリエか」
「ずいぶんな挨拶だ。しかし素直に驚いた。杖で薪が割れるのか」
聞きようによっては子供のようにも感じられる。しかし溢れる威圧感が声にまで滲んでいた。
膨大な魔力量。感覚で理解できるようになってきた。
「そこまで難しいものじゃない。ゼーリエ……あなたを斬ることに比べれば、綿毛を割くにもひとしいから」
「私を斬りたいのか?」
「無理だろう? ただ、ああ、ほら。高い山があれば登ってみたくなるらしいじゃないか。おれからしたら登る山の高さなんてわからないから理解できないが。きっとそれだ」
「そうか。お前に魔法の才能がないのが本当に残念だ」
ゼーリエについて、高々十年の付き合いで理解した気になるのもおこがましいけれど。
どうやらおれを少し気に入ってくれている理由に、ゼーリエの強さを理解しても未だにどうにか殺せないかと考えているこの姿勢があるらしい。
「魔法も、というか魔力の扱いくらい……できればよかったな」
「魔力制限なら十分にできるだろう。もとより少ないからな。どれだけ動き回っても漏れ出ないほどに魔力を完全に消せる」
そういうゼーリエの言葉にふと気になった。
「あなたも魔力を制限していたりするのか?」
「どうだろうな。魔力を制限すると、特有の揺らぎのようなものがあるが」
「揺らぎ……おれは明を失ったが故か、すこしだけ他人より音や感覚が鋭敏になった気がする。例えばそよ風に、空気中の小さな何かがうごめく感じがするんだ。あなたの魔力も感じられるようになった」
明を断たれた世界で生きているおれにとって、しかしそういった感覚の世界がすべて。
「さすがに、あなたもそんなことはしていないのか。何も不自然さがない」
「そうか」
「というか、今更だがどうしてこんなところにあなたがいるんだ?」
「少し近くに用があってな……そのついでだ。思った以上に面倒だったが、弟子を取りつつ組織を作ることにした。私もこれからしばらくは忙しくなる」
「ならちょうどいい。一つ聞きたいことがあったんだ」
言いながら、試しに杖で薪を細切れにしてみる。
おれも木で木が切れるはずがないという常識くらいはある。ゼーリエを斬ることに比べれば本当に簡単なことだと思うのは本当だが。
これができるようになったのは確かな自信だ。
故に、次だ。
あの日、おれの住んでいた村を完全に滅ぼしたあの魔族の。
母の首を断った。鋭く、明るく、鳴くように美しい一閃。
あれを再現するにはまだ、おれには足りないものが多すぎる。
「ゼーリエ。何もないところから剣を出すような魔法はある?」
「ある」
なら、出来るはずだ。
†
「初めまして。こんにちは」
「お前が目撃者か?」
ゼーリエは格子の向こうの青年を睨む。
青年──フントは、どこか興奮冷めやらぬ様子で、しかしどこかこの世界に絶望したような無気力さも兼ね備えた笑みで返す。
人間の感情はやはり複雑だと思う。
「俺から聞かずとも、俺の証言は看守が話すでしょうに」
「お前たちの師匠……名を何と言ったか……奴の死体を調べた」
「ああ、なるほど。なら、知ってますよね? 証言通りです。あのアカズのセシテが、師匠に決闘を挑み……アカズのくせに師匠を下した。だから、俺が師匠を殺したんです。もう、生きている価値もないと」
「なら、皮膚も肉も傷つけずに、心臓だけ切り裂く方法を教えてもらおう」
ゼーリエの言葉に、フントは初めて顔色を変えた。
「いくらお前が騙ろうと、外傷がなければ病死扱いだ。お前は自分が師を殺したと言い張っているだけ。もっとも、自供しているのだからその話が受け入れられるだろう。だが、死体を調べたら心臓が鋭く切り分けられていたことが分かる。それがお前にできるのか?」
「そう……か。ゼーリエ様は、確かセシテの育ての親だとか」
育ての親を名乗れるほど共にいたつもりはない。
魔法の才能があれば、可能な限り面倒を見たはずだ。
それこそ、最初にあんな願いを聞いたりしなかった。
「あなたならわかるはずだ。彼の、あの、凄まじい才能が」
「悪いが、魔法以外には敏くない……いや、セシテの戦士としての才能を認めたくないのかもしれないな」
自分を殺せる魔法使いを見たい気持ちはあるが、自分を殺せる戦士は、あまり見たくない。
そんな、歳不相応なプライドがないとは断言できなかった。
「数年前、俺は師匠にセシテみたいなアカズを特別扱いするなと言ったんです。目も見えないのに……型を見て学ぶことすらできない。歩いていてもふらふらと……しかし、彼が杖を軽く振って見せて確信した。俺は目が見えるのに、何があっても彼には勝てない。
だから、師匠とセシテの決闘の未届け人になれた奇跡を俺は喜んだんです。
数日前のこと。
セシテが急に、師匠に決闘を申し込みました。
いや、なんとなく師匠とセシテの雰囲気がピリピリしていた気はします。別に関係が悪くなったとかじゃなくて、両方ともそろそろ大事な日が近いといった感じで。
今思えば、セシテが決闘を申し込むと師匠は察していた。
その日の早朝。師匠とセシテが決闘すると言われて、俺だけがその勝敗を見届ける偉業を許されたんです。
もはやセシテの剣技が師匠を超えていたことは明白でした。
弟子のだれもがそれを感じていた。
師匠がそれを歓迎こそして、まったく妬まなかったことを、俺は誇りに思いたいです。
勝敗は思った以上に早く着きました。
何度かの打ち合いの末に、師匠は欲を出した。
いいえ。欲なんでしょうか、あれは? あるいは、俺の知らない、本当の戦いを知った人間だからこそのものなのだとも思います。
絶対に負けたくない。何があっても勝つ。
そんな思い。
師匠は、とっさにセシテの耳元で叫んだんです。
アカズの……盲目のセシテは俺たちよりもずっと耳がよかった。あんな風に叫ばれたらどうしたって隙ができる。
卑怯と詰られようとも、師匠の勝利で終わるはずでした。
セシテの剣を……ふふっ……すみません。ずっと杖を剣の代わりにしていたセシテが、細身とはいえ剣を持っていたのが今をもって違和感があって。
とにかく、師匠はセシテの剣を払いました。くるくると廻る刃が朝焼けに照らされて、太陽が地に落ちてきたみたいで、しっかりとその光景を覚えています。
あとは、師匠がセシテに剣を突き付けて決着のはずでした。
ですが」
フントはそこまで喋って、再び沈黙した。
あまりここで時間を使うと、街から出て行ったセシテに追いつけなくなる。
「ですが、なんだ? 私が尋ねているのはその部分だ」
「セシテは……何か、存在しないものを握りました。
俺の幻覚じゃない。師匠にもきっと見えていた。
師匠が、すっと目を見開いたのを見たから。
振り払われた剣を追うでもなく、セシテはただ、まだ剣があるように振舞った。
最初は悪あがきのようにも感じましたが、次の瞬間には確かに、セシテが剣を握っているような気になった。眼には、彼が剣を振り下ろしたフリをしたように見え、けれど脳が彼の持つ剣を見ている。
意味が分かりませんでした。
それでも師匠は、あのひと振りで死んだんです。
血を吐いて、服も体も傷がないのに」
「お前の証言が本当だとして。なら、なぜお前は自分が殺したと嘘をついた?」
ゼーリエの質問に、フントはこれまで可能な限り礼儀をもって接していた態度を捨てて、心の底から嘲笑った。
「一つ、師匠がセシテが存在しない剣を振り下ろした瞬間、本当に幸せそうな顔をしていたから。そして……ゼーリエ様。あなたは、あなたを超える魔法使いを見たらどう思いますか?」
急な質問にゼーリエは少し考えてみる。自らを超える魔法使い。それは想像を超えて……つまりは想像できない。
「なんだ、わかってるじゃないですか」
ゼーリエが何かを答えるより先に、フントは言った。
「ゼーリエ様。もしかしてお気づきになられてないのですか? あなたは今。うれしそうに笑っておられますよ。
極致を超えた、正真正銘の到達点なんて……想像するだけで笑えてくる。俺はそれを垣間見た。
もしも師匠が殺されたと知られれば、もちろん事故扱いになるかもしれない。それでも、万が一にでもセシテが拘束されるような未来は避けなければならなかった。
セシテが……ひとりの人間を殺した程度で捕まるなんて、そんなもったいないことは許されないからです。
ああ、本当に妬ましい、うらやましい、もったいない。
ゼーリエ様。
もしもあなたがセシテと会うことがあったらお伝えください。
あぁセシテがゼーリエ様や魔法使いフリーレンのような、永劫の時を生きるエルフであったならば、どれほどの高みに至るのか……彼が人間だなんて、本当にもったいない」
†
「ずいぶんな挨拶だな」
街を出たおれを追いかけてきたゼーリエに、剣で切りかかった。やはり得体のしれない何かに阻まれ、剣が分解されてしまう。
完全になくなる前に引き抜き、軽く振って刀身を把握する。
距離を詰め、素早く刃を返し、狙うは首。
気配や音だけで相手の位置はわかる。それでも人体の部位を正確に狙うなんてことは簡単じゃない。
師匠やゼーリエは、長く接してきたがゆえに感覚で分かる。声の位置。衣擦れ。足音と、その反響。
首に到達するまであと数秒といったところで剣は消し飛び、身体の平衡が保てなくなる。
その瞬間。何か揺らぎが見えた。
師匠を殺した時と同じように、手につかむ。
「っ!?」
生涯で初めて聞く、ゼーリエの動揺した息遣い。
ゼーリエは慌てておれから距離を取った。
「ゼーリエ。何しに来たんだ?」
「なに、ただの挨拶だ。その様子だと、魔法は解けていないらしいな」
「まだ、足りないということだな」
「もし気が付いていないのなら、教えてやる。お前はお前の故郷の村を滅ぼした魔族の、その武芸に達したいと思っていたんだろう?」
「ええ。そのために必要なことは何でもする」
おれは、ゼーリエに救われて、すぐに頼み込んだ。
母の首を断ったあの魔族の、芸術にまで至った剣技を会得しなければならない。これ以上、何かを見て、あの美しさを掠れさせてはならない。
故に、明を断つ。
おれの剣が極限に至るまで目を見えなくする魔法をかけてほしいと、お願いした。
「とうに越しているはずだ。お前は、見えなくなったことで、心の中の理想だけを見て、美化しすぎたんだろう。もはや存在しないものを追い求めている」
「そうだろうな。それでも、それが人間だろう? 理想を追うんだ」
「人間、か……お前を嫌っていた、フントとかいう奴が、お前がエルフじゃないのがもったいないと言ってた。長命であったならばと」
おれの希望かもしれないが、それはゼーリエも感じていることのようにも思えた。
少しだけ、寂しさがあったように、期待した。
「そうだな。だから、これでお別れだ。ゼーリエ」
木を探りつつ手刀で枝を切り落とし、それを杖代わりにする。
「まて。これをもっていくと良い」
ゼーリエが雑に何かを投げつけてきたのを、念のため枝で叩き落してから拾う。
剣だ。非常に細身だが、突くことに特化したのではなく。
試しに剣を振ると、その切れ味のすさまじさがよく分かった。
「いいのか? なかなか上等なものだろう?」
「私が持っていても意味がないからな。魔法を与える代わりだ」
†
非常に優れた感覚を持っているはずだが、セシテの歩みは不安定だ。ふらふらと、少し不安になるような歩き方。
セシテをずっと見送るようなことはせず、ゼーリエは踵を返した。少しだけ歩いて、立ち止まる。
「愚か者め」
一言だけつぶやいて、頬をぬぐった。手には、血が付着していた。