雄二が霧島とデートに行った直後、
「さて、Fクラスの諸君。お遊びの時間は終わりだ」
その声は、希望という名のシャボン玉を、鉄球で叩き割るように響いた。振り返った瞬間、そこに立っていたのは――この学園における筋肉の最終兵器。
鉄人。西村先生である。その場の空気が、一瞬で三度ほど冷えた。
「あれ?西村先生。僕らに何かようですか?」
能天気にもほどがある明久の問いに、西村は腕を組み、満足そうに鼻を鳴らした。
「ああ。今から我がFクラスの補習について説明しようと思ってな」
「『我がFクラス』?」
その言い回しに、刀夜の背筋に嫌な汗が伝った。脳内で警報が鳴り響く。
(……まさか)
「おめでとう」
その一言が、死刑宣告の前口上のように重く落ちる。
「お前らが戦争に負けたおかげで明日から福原先生に代わって、俺がFクラスの担任を引き受けることになった。これから一年、死に物狂いで勉強ができるぞ」
次の瞬間――
『『『な、何いーーーっ!?』』』
Fクラス全員の魂が、声帯を通じて空へと昇天した。悲鳴というより、もはや断末魔の合唱である。
「確かにお前らはこれまでよくやった」
鉄人は淡々と続ける。その声は、どこまでも冷静だった。
「だがな、『学力が全てではない』とは言え、人生を渡っていく中で重要な武器の一つである学力を蔑ろにしていい理由にはならん」
――正論だった。あまりにも正論すぎて、反論という名の盾が一瞬で粉砕される。
誰も文句が言えない。悔しいが、正しい。
「特に吉井と坂本」
その名前が呼ばれた瞬間、二人の肩が同時に跳ねた。
「徹底的に扱いてやる。何せ、我が学園始まって以来の観察処分者とA級戦犯だからな」
「そうはいきませんよ!」
明久が叫ぶ。無駄に熱血だが、方向性は常に間違っている。
「何としても監視の目を掻い潜って、今まで通りの学園生活をエンジョイしてみせる!」
「....お前には『悔い改める』や『受け入れる』という考えはないのか?」
冷静な指摘だった。
そして恐らく――ない。
「まあいい」
鉄人は興味なさそうに切り捨てる。
「取り敢えず、明日の放課後から補習の時間を二時間設ける。そのつもりでいろ」
「嘘だぁぁぁ!!」
今度は刀夜の悲鳴だった。Fクラスの良心が、音を立てて崩れ落ちる。
――と、その時。
「それじゃあアキ。今日は補習もないみたいだから、今からクレープを食べに行きましょう♪」
唐突に現れたのは島田。この空気を粉砕する笑顔だった。
「え?」
明久の思考が、完全に停止する。
「だ、ダメです!吉井君は今から私と映画に行くんです!」
追撃するように姫路瑞希。
「ええ!?」
展開が早すぎる。明久の脳は情報処理を放棄し、現実逃避モードに突入した。
「ええっ!?姫路さん、それ話題にすら上がってないよ!?」
嬉しい。確かに嬉しい。だが、このままだと彼の主食が公園の水道水に決定する未来が見えていた。
「に、西村先生!」
明久は鉄人に縋りつく。
「明日からと言わず、補習は今日からやりましょう!思い立ったが仏滅です!」
「『吉日』だ、バカ」
即訂正される。
「うーん……」
鉄人は顎に手を当て、考える素振りを見せる。
「お前にやる気が出たのは嬉しいが、無理することはない。今日は存分に遊ぶといい」
その言葉に、明久の希望が一瞬芽生え――鉄人はニヤニヤと、最高に嫌な笑顔を浮かべた。
「おのれ鉄人!僕が苦境にいると知った上での狼藉だな!こうなったら卒業式には伝説の木の下で釘バットを持って貴様を待つ!」
「斬新な告白だな、オイ」
刀夜が即座に突っ込んだ。
「アキ!」
島田が腕を組む。
「こんな時までやる気を見せて逃げようったって、そうはいかないからね!」
「ち、違うよ!本当にやる気が出てるんだってば!」
「吉井君!その前に私と映画ですっ!」
「いやぁぁぁ!!生活費が!僕の栄養源がぁぁ!!」
もはや修羅場である。
「頑張れよー、明久」
他人事のように言う刀夜。
「刀夜ぁ!助けてぇ!」
明久が泣きつくが刀夜は静かに親指を立てた。
「good luck」
それだけだった。明久の未来は、クレープと映画と補習と絶望に挟まれ、今日も元気に詰んでいた。
――Fクラスの日常は、今日も平和である。
放課後になり、下校する時間だが、刀夜は正直に言えば歩いているだけで奇跡だった。
ぶっつけ本番で宝具を使用した代償は、想像以上に重い。体は鉛のように重く、足の裏から脳天まで「やりすぎだバカ」という警告が突き抜けている。精神面に至っては、すでに限界を通り越して半分空っぽだった。
(帰ったら……倒れるな……これは……)
そんなことを考えながら、ほぼ幽霊のような足取りで帰り道を歩いていた、その時だった。
「待って!」
背後から声が飛んできた。
「……ん?」
振り返る動作すら億劫だったが、条件反射で首だけ動かす。視界に入ったのは――見覚えのありすぎる女子生徒だった。
「……木下?どうしたんだ?」
怪訝な視線を向ける刀夜。そこに立っていたのは、Aクラスとの戦争で召喚獣同士のタイマンを張り合った相手、木下優子だった。
(……よりによって今かよ)
正直なところ、彼女の召喚獣との戦いは人生で二度と経験したくない部類である。心身がボロ雑巾状態の今、遭遇イベントとしては最悪クラスだった。
「話があるんだけど……いい?」
その切り出しに、刀夜の脳内警報が鳴る。
(その言い方、断られる前提じゃないよね……?)
だが、ここで断る気力もなかった。
「……分かった」
そう答えると、二人は自然と近くの公園へ向かった。木下はベンチに腰を下ろす。一方、刀夜は――隣に座る勇気がなく、立ったままだった。
(座れよ、俺……)
内心でツッコミを入れるが、今さら動くのも気まずい。
「で……話ってのは?」
「今日の、召喚獣の一騎打ちの話なんだけど……」
木下の口調は歯切れが悪い。視線も、妙に泳いでいる。そして、数秒の沈黙の後。
「……ごめんなさい」
唐突な謝罪だった。
「私、あの時……あなたの召喚獣の“刀”のこと、貶したわ」
刀夜は一瞬、目を瞬かせる。
「だから……ちゃんと謝りたくて」
木下の説明によれば、あの時はわざと挑発し、判断力を鈍らせるつもりだったらしい。だが、刀夜の反応を見て――大切なものを踏みにじったと感じたのだという。
(やだ、木下さん。めっちゃいい子なんだけど……)
「いや、まあ……」
刀夜は頭をかきながら言葉を選ぶ。
「確かに貶されて腹立ったのは事実なんだが……」
そこは否定しない。あの瞬間、心の中でキレ散らかしていたのも事実だ。
「……?」
木下が不安そうに顔を上げる。
「でもな」
刀夜は続けた。
「そのおかげで、投影について理解できたこともあるんだ」
宝具を使った理由、踏み込めた理由。あの極限で、自分が何を掴んだのか。
「だから……あんまり気にしないでくれ」
そう言って、肩をすくめる。
「そう……」
木下は少しだけ、安堵したように息を吐いた。その沈黙の中、刀夜の膝がガクッと鳴った。
「……?」
木下が怪訝な顔をする。
「いや、何でもない」
「いや今、絶対何かあったでしょ」
「気のせいだ」
「立ったままフラついてる人の言葉じゃないわよそれ」
図星である。宝具の反動で、刀夜の体は限界を迎えていた。精神力だけで立っている状態である。
「……あんた、大丈夫なの?」
「大丈夫だ、問題無い」
全然大丈夫じゃない顔で言う。
「じゃあなんで顔色が死体なのよ」
「生きてる死体だ」
「自覚あるのが一番タチ悪いわね!」
木下は呆れたように立ち上がる。
「……ほら、座りなさいよ」
そう言って、ベンチの端を指差した。刀夜は一瞬迷い、そして――素直に座った。
その瞬間。
「……あ、これヤバい」
力が抜けた。
「ちょっ!?今倒れないでよ!?」
「無理だ…………」
「無理じゃないわよ!」
公園のベンチで、瀕死のFクラス男子とツッコミ役Aクラス女子という奇妙な光景が完成した。夕暮れの公園は、昼間の喧騒が嘘のように静かだった。ブランコが風に揺れ、錆びた鎖が小さく鳴る。刀夜はベンチに座り、背中を預けたまま空を仰いでいた。
(……動けねぇ、というより動きたくねぇ)
宝具の反動は、時間差で効いてくるタイプらしい。さっきまで気合で誤魔化していたが、今はもう体が言うことを聞かない。
「……ほんと、無茶しすぎ」
隣から聞こえた声に、刀夜は視線だけ動かす。木下は、さっきまでの“Aクラスの戦闘要員”の顔ではなかった。腕を組み、少し呆れたような、でもどこか心配そうな表情。
「Fクラスって、全員あんなの?」
「いや……全員バカなだけだ。もちろん俺も」
「自覚あるのね」
即答だった。木下は小さく息を吐き、ベンチに深く腰を下ろす。その距離は、ほんの少し近い。さっきまでなら、刀夜が無意識に一歩引いていた距離だ。
「……あのさ」
木下が口を開く。
「今日の戦い、正直言うと……」
一瞬、言葉に詰まる。
「……怖かった」
刀夜は目を瞬かせた。
「お前が?」
「そうよ」
木下は少しだけ唇を尖らせる。
「ランスで押し切るつもりだったのに、あんた、下がらないし。変な理屈ばっか言うし。挙げ句の果てに、あんな……」
言葉を探すように、宙を見る。
「……“世界ごと剣にする”みたいな戦い方、されて」
彼女は少しだけ、笑った。その笑顔は、戦場で見せたものとは違う。勝者の余裕でも、敗者の悔しさでもない、等身大の女子生徒の顔だった。
「……あんた、変よ」
「今さらか?」
「今さらよ、でも」
一拍置いて。
「ちゃんと、自分の武器を大事にしてるのは……嫌いじゃないわ」
刀夜は、返す言葉を探したが――思ったより胸の奥がむず痒くて、うまく言葉にならなかった。
「……それ、褒めてんのか?」
「半分は」
「残り半分は?」
「呆れよ」
「だろうな」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。だが、それは気まずいものではなかった。木下は立ち上がり、公園の自販機に向かう。
「ちょっと待ってなさい」
そう言って戻ってきた彼女の手には、スポーツドリンクが一本。
「はい」
「……いいのか?」
「倒れられる方が困るのよ」
そう言って、刀夜の手に押し付ける。指が、一瞬触れた。ほんの一瞬。それだけなのに、刀夜は無意識に背筋を伸ばしていた。
「……ありがとう、借りは返す」
「どういたしまして」
木下は再び隣に座る。さっきより、ほんの少し近い。
(敵じゃない、か)
少なくとも、もう“戦う相手”ではない。夕暮れの空が、ゆっくりと色を変えていく。その中で、二人の距離もまた――ほんの数センチ分、確かに縮まっていた。
公園の街灯が一つ、また一つと灯り始めていた。虫の声がやたら元気で、やけに空気が落ち着かない。刀夜はベンチに座ったまま、もらったスポーツドリンクをぼんやり眺めていた。
(……今日は色々ありすぎだろ)
宝具の反動、Aクラスとの戦争、木下との一騎打ち、そして今この状況。脳が整理を拒否している。
「……そろそろ帰る?」
不意に、木下が言った。
「ああ、そうだな」
立ち上がろうとして、刀夜は一瞬ふらつく。
「ちょっ……!」
木下の声は呆れ半分、心配半分。眉は寄っているのに、掴む手は離れない。
「助かった」
刀夜は素直に礼を言った。変に強がる余裕はない。
「無茶しすぎなのよ、本当に」
ようやく腕が離れ、二人は何事もなかったかのように少し距離を取る。だが空気だけは、さっきよりも確実に近かった。街灯の明かりが、二人の影を足元に重ねる。そして木下が、何かを言いかけて口を閉じた。視線が泳ぎ、指先がベンチの端をいじる。
(……なんだ、この間)
刀夜は気づかないふりをすることにした。
「じゃあ気をつけて帰れよ、木下」
その一言で、空気が少しだけ動く。
「ええ、さようなら……」
木下は一瞬ためらい、
「……刀夜……」
かすれたような声で言った。
「……鍔守君」
最後は、いつもの呼び方で締めたつもりなのだろう。だが――
(今、名前で呼んだよな……?)
ガッツリ聞こえていた。彼は表情に出さないようにしながら、内心で盛大に動揺していた。
「ああ」
返事は短く、それ以上の言葉は出てこなかった。二人は別方向に向かって、ゆっくりと歩き出す。
絶妙すぎる距離感だろう。一歩間違えれば気まずくなりそうで、でも今はそれが妙に心地いい。刀夜は、胸の奥がほんの少しだけくすぐったくなるのを感じながら、開けたスポーツドリンクのキャップをもう一度力も込めて捻り一口飲む。
(……味、よく分かんねぇ)
夜はまだ始まったばかりだ。だがこの日の余韻はしばらく消えそうになかった。
ラブコメは書いた事無いのでこんな出来です。