明久が奇跡的に、いや狂気的に、麻婆という名の赤い奈落を完食した瞬間。刀夜、雄二、秀吉、ムッツリーニ。四人の手が、示し合わせたかのように震え始めた。
(終わった……)
誰かが先に食べたら、次は様子見しよう。そんな甘い考えは、最初から存在しなかった。ここは戦場であり、逃げ場はない。
「「「「いただきます!」」」」
四人は同時に割り箸を構え、麻婆の海を掘り返す。底の方から、申し訳なさそうに顔を出す黄色い物体――麺を、ほんの数本だけ引きずり出した。
その量、希望と呼ぶにはあまりにも少ない。全員が、ほぼ同時に口へ運ぶ。
数秒後。
「ぎゃあああああ!!」
ラーメン屋に、地獄の悲鳴が響き渡った。
「辛いぃーー!!」
「痛いィィィ!!」
「く、苦しいのじゃ……!!」
「……これが……ラーメン……?」
もはや誰の叫びか分からない。咳、涙、汗。人体から排出可能な水分が、すべて同時に噴き出す。
舌が燃える。
喉が刺される。
胃が「なぜ入れた」と抗議してくる。
この麻婆の味を一言で表現するなら、ラー油と唐辛子を百年間ぐらい煮込んで合体事故のあげく、『オレ外道マーボー今後トモヨロシク』みたいな味であり、とても常人に食べさせていい代物ではない。
(い、痛い……!)
刀夜の脳裏に、なぜか一人の青年の顔がよぎる。
(イザークが顔面に傷を負った時より……絶対痛い!アスランがモウヤメルンダッ!!って言うレベル!)
イザークの名誉のために言っておくと、彼が負ったのは物理的な傷である。一方こちらは、精神・味覚・存在意義を同時に破壊される系のダメージだ。ベクトルが違うが――痛いものは、痛い。
「な、なんて辛さじゃ……!」
秀吉は額から滝のように流れる汗を拭いながら、必死に呼吸を整える。その姿は、蒸し上がる団子に近い。雄二は椅子にしがみつき、ムッツリーニは言葉すら失い、刀夜は「これは警察案件では?」と真剣に考え始めていた。
一方、カウンターの向こうで、店主は腕を組んだまま満足げに頷く。
「良い顔だ」
誰も褒められて嬉しくない。
(人の不幸で飯が美味いみたいな顔しやがって.....!愉悦か、愉悦ってやつなのか!)
こうして少年たちは知る。辛さには、越えてはいけない一線が存在するということを。
それでも刀夜たちは、箸を止めなかった。止めた瞬間、負けだと本能が告げていた。いや、正確には、止めたら二度と再開できないと、舌と胃が必死に警告していた。一気食いなど論外である。それをやったが最後、口腔内が焼失し、喉が裏切り、胃が反乱を起こす未来しか見えない。
一口、舌が悲鳴を上げる。
もう一口、喉が「聞いてない」と拒否反応を示す。
さらに一口、胃が「人生について考え直そう」と嘆願してくる。
そしてまた、一口、未来の自分が「おい、その先は地獄だぞ」と警告してくる。
それでも――それでもだ。
少しずつ、確実に、どんぶりの中の“麻婆という赤い地獄”は減っていった。赤い。とにかく赤い。光を反射するその色は、もはや警告表示である。だが、全員が理解していた。限界は近い。
「……明久」
刀夜は、カウンターの向こう側で床と一体化している明久に声をかけた。
「よく、こんなモン……食えたな……」
それは尊敬でも称賛でもなく、もはや人間観察に近い疑問だった。
返事はない。代わりに聞こえるのは、かすかな寝息。そして、魂が半分くらい別次元に引っ越してしまったような、危うい気配だけだ。このままでは、自分たちもこうなる。全員が、はっきりとそう感じていた。意識が辛味に持っていかれ、精神が唐辛子に支配される未来が、すぐそこまで来ている。
その時だった。刀夜と雄二の2人だけがある異変に気づいた。
((何故だ……))
2人の脳裏に浮かぶ疑問。
(……この殺人的な辛さで、どう考えても人に出す食い物じゃねぇのに……)
雄二の思考も、同じ方向へと収束していく。
((なんで……『美味い』なんて感情が生まれてるんだぁぁ!!))
そう、この麻婆ラーメンはただ辛いだけではない。唐辛子の暴力の奥。山椒の電撃の向こう。店主自家製の辛いようで辛くない。むしろ脳が辛かったことを認識してくれないラー油を超え。
舌が壊れかけ、感覚が曖昧になり、「もう味とかどうでもいいんじゃないかな」と思い始めた、そのさらに先に――確かに、旨味が存在している。
豆腐のほのかな甘みと肉味噌の深いコク。そして、油に溶け込んだ香味野菜の香ばしさ。それらが、地獄の底で手を振っている。問題はただ一つ。そこへ辿り着くまでに、常人なら12回くらい死ぬという点だけだ。
だが刀夜と雄二は、なぜか、そこへ辿り着いてしまったのだ。
二人は無言だった。会話をする余裕などない。だが、箸は止まらない。震えながらも、確実に前へ進んでいる。やがて、どんぶりの底が見え始めた。その光景を目の当たりにして――秀吉とムッツリーニは、思わず目を見開いた。
目の前では、刀夜と雄二が――決して余裕の表情ではない。むしろ顔色は悪く、汗は滝のように流れ、手もわずかに震えている。それでも、箸だけは止まらない。
「なぜ……食べ続けられるのじゃ……?」
秀吉の声は、震えていた。辛さに、ではない。理解不能な現象を目撃していることへの恐怖にだ。秀吉の頭の中で、疑問が渦を巻く。一口ごとに辛さが増す。二口目で痛みが跳ね上がる。三口目で「死」という単語が現実味を帯びる。
指数関数的に、確実に、人体を破壊しにくるこの料理を――なぜ、この二人は平然……いや、平然ではない。断じて平然ではない。
それでもなお、確実に前進している。それはまるで、火山の火口に向かって、「熱いな」「溶けるな」「死ぬな」と言いながらも、一歩ずつ歩みを止めない人間のようだった。そのときだった。ムッツリーニが、秀吉の耳元に顔を寄せる。声量は最低限だが、その声音は異様なほど慎重だった。
まるで、禁忌の知識を語る学者のように。
「……おそらく」
一拍置く。その“間”が、無駄に重い。
「刀夜と雄二は……耐性が出来ている」
「耐性.....じゃと?」
秀吉は、反射的に眉をひそめた。
『耐性』
それは普通、毒や病原菌につくものであって、断じてラーメンで聞く単語ではない。
「そんな都合のいい能力、聞いたことがないのじゃが……それに、そんな耐性などをつける事など」
秀吉がそこまで言いかけたところで、ムッツリーニは、淡々と、だが異様な重みを込めて言った。
「……1度だけあった」
「?」
その短い言葉に、秀吉の背筋を、嫌な予感が駆け上がる。
「姫路さんの……手料理」
記憶が弾けた。秀吉の脳裏に蘇る、悪夢のワンシーン。かつて、姫路が作った弁当。それを口にした者たち。
主に、明久。そして刀夜と雄二。
一口で、全員が人生を振り返り始めたあの日。次々と戦闘不能になり、屋上が阿鼻叫喚と化した、あの惨劇。そして――明久はあろうことか、刀夜と雄二に、その弁当を半分ずつ無理やり食わせた。
友情なのか、道連れなのか、今となっては判断がつかない暴挙である。その結果、復讐に燃えた二人は明久にヨーグルトを口に流し込んだ。冷却か、拷問か、もはやどちらでもよかった。地獄には、前日譚がある。そして往々にして前日譚の方が地獄だ。
「……なるほどのう」
秀吉は、目の前の麻婆を見つめながら、震える声で呟いた。この料理は、確かに殺人的な辛さを持つ。人体に対する配慮はない。むしろ「人間が食べる」という前提を、途中で放棄している節すらある。
だが――それでもなお。その奥には、確実な旨味が存在していた。
ただ辛いだけではない。舌を焼き、神経を破壊し、思考を白く飛ばしながらも、どこかで「次の一口」を欲しがってしまう。
狂っている。
だが、完成している。豆腐は崩れず、肉は主張しすぎず、香味油は暴力的でありながら、全体をまとめ上げている。舌は拒絶しているのに、脳が「これは美味い」と判断してしまう。
言ってしまえば、これは――間違いなく「料理」だ。危険ではあり常人向けではない。だが、少なくとも「美味しくしよう」という意思が、この赤い地獄の底には、はっきりと存在している。
一方で、姫路の料理は――料理の延長線上に存在する、ナニカ別の概念である。それは辛いとか、苦いとか、そういう次元の話ではない。味覚の問題ですらない。存在の問題だ。
「これは何を目指したのか」
「なぜこの組み合わせなのか」
「そもそも、なぜ生まれてきたのか」
食べるたびに、人は自分の人生と向き合うことになる。料理という言葉で括ること自体が、料理に対する冒涜になりかねない存在。それはもはや、調理という行為を経由した自然災害だ。秀吉は、静かに悟った。この麻婆は、地獄ではある。
だが、地獄の中にも秩序はある。一方で、姫路の料理は――無秩序だ。
だからこそ。刀夜と雄二は、進めている。明久は、倒れた。そして自分とムッツリーニは、今まさに岐路に立っている。箸を持つ手が、再び震えた。秀吉は赤い海を前に、小さく息を吸い――
「……世の中には、踏み込んではならぬ領域というものが、確かに存在するのじゃな……」
その呟きは、麻婆の湯気に、静かに溶けて消えた。
秀吉はそれをゆっくりと理解したが、そこで終わらない。ふと、カウンターを見る。魂が抜けかけ、半透明になりつつある明久の姿。
「……じゃがムッツリーニ」
秀吉は、静かに問いを投げる。
「ならば、なぜ明久は倒れておるのじゃ?二人同様、姫路の料理を食べたはずじゃが?」
理屈が合わない。耐性があるなら、明久も耐えられるはずだ。ムッツリーニは、一瞬だけ視線を逸らした。その仕草には、ほんのわずかな同情が滲んでいた。そして、妙に現実的な声で答える。
「……明久は、金欠で普段の食事量も回数も少ない」
「?」
「……だから胃が退化していると言っていた」
「退化!?」
「......耐性はある。確かにある」
ムッツリーニは、冷静に続ける。
「.....けど、二人と違って――完全に順応する前に、胃が音を上げた。食べ切れたのはおそらく本当に空腹だったから.....普段からちゃんと食べていればこんな事には.....」
そして一言、
「そして、俺は少し食べただけで耐性は殆ど無い」
秀吉は黙った、理不尽だ。あまりにも理不尽だ。だが同時に恐ろしいほど筋が通っている気がした。そうして秀吉は理解した。この場で一番弱いのは、辛さに倒れた者ではない。食生活を疎かにした者なのだ、と。
麻婆は、容赦なく赤く。明久は、静かに眠り。刀夜と雄二は、地獄の先を見据えて、箸を進めていた。
シリアスムードでなに書いてんだろって思いましたね。