雄二と刀夜は、ついに――ついにこの地獄を乗り越えた。どんぶりの底を見つめ、箸を置き、二人はほぼ同時に口を開く。
「「ごちそうさま……!」」
その声には、達成感と疲労と、「もう麻婆豆腐はお預け」という強い決意が、等量ずつ含まれていた。
それから、さらに三十分。
戦場に残された二人――秀吉とムッツリーニも、ついに完食する。箸は震え、目は虚ろ、魂は半歩ほど抜けかけていたが、それでもどんぶりは、確かに空になっていた。
これで――首から下を土に埋められ、口から麻婆を流し込まれるという、人生で一度も想定したことのない最悪の未来は回避された。
誰もが安堵の息をついた、そのとき。カウンターの奥で腕を組んでいた店主が、満足そうに、そしてどこか偉そうに言い放った。
「喜べ、少年達よ」
全員の視線が集まる。
「君達はこれで、一日分のカロリーを摂取出来た」
「明久からすれば天国だろうな……味はともかく」
床に沈没したまま微動だにしない明久を見ながら、刀夜が呟くが次の一言で、空気が凍りついた。
「麻婆ラーメン五つで、8000円だ」
「……え?」
刀夜が、思わず聞き返した。
「……有料?」
店主は、当然だと言わんばかりに、ゆっくり頷く。
(つーか一杯1600円って高すぎだろ!!)
刀夜の心の叫びが、店内に反響した気がした。
「いやいやいや!あの雰囲気なら無料で振る舞ってくれる流れじゃないのか!しかも値段、強気すぎるだろ!」
雄二が即座にツッコミを入れる。反射神経だけで生きている男の叫びだった。
その瞬間。
「……まさか文無しじゃ、あるまいな?」
ドスの効いた低音が、店内を這うように広がった。全員の背筋が、条件反射でピンと伸びる。誰も「はい」とも「いいえ」とも言っていないのに、空気だけが「選択肢を間違えたら死ぬ」と主張してくる。
視線の先では、店主が腕を組んだまま微動だにしていない。だが、その背後には見えないはずの圧力が、確かに“立って”いた。
(あ、これ無理なやつだ)
(逆らったらラーメンじゃなくて人生が終わる)
(ここはおとなしく支払うのが吉じゃな)
(.....命は惜しい)
言葉にせずとも、四人の脳内結論は一致した。とりあえず四人は、『ラーメンとしてはだいぶ高いが、命よりは安い』という、あまりにも後ろ向きな理由で合意し、黙って財布を取り出した。カウンターに置かれる紙幣と硬貨、その音が、やけに重く響く。
――そして。
問題は、一人だけ残った。そこには、辛味に魂を焼かれ、もはや人類の尊厳を半分ほど置き忘れた明久が転がっている。
「……明久」
刀夜が肩を揺する。
「起きろ。ラーメン代、1600円払え」
「明久よ!現実に戻るのじゃ!」
しかし。
「……お金って、なに……?」
半目のまま、明久が呟いた。声はふわふわと空中を漂い、明らかにこの世の通貨制度と接続していない。
「……美味いの?」
「概念を味覚で判断するな!!」
雄二のツッコミが、店内に虚しく反響する。
完全にダメだった。辛味は舌だけでなく、常識と社会性まで破壊していた。その様子を、店主は一言も発さず、じっと見下ろしていた。
床板が、ぎしりと鳴る。
「……食い逃げとは舐められたものだな。だがちょうど、豚骨が切れていたところだ……」
その背後に、ドス黒いオーラが視認できそうな濃度で立ち上る。空気が重い。呼吸するたび、肺が抗議してくる。
次の瞬間。どこからともなく――本当に、どこからともなく。出刃庖丁が、その手に握られていた。刃が、店内の照明を反射し、嫌なほど鈍く光る。
「……文字通り体で、支払ってもらうとしよう……!」
「えっ!?」
その瞬間、明久が奇跡的な速度で跳ね起きた。
「ちょっ!?ラーメン屋が放っていい殺気のレベルじゃないって!!ここ戦場じゃないよね!?飲食店だよね!?!?」
裏返った悲鳴が、店内に響く。だが、店主は止まらない。むしろ、楽しそうですらあった。
「最後の晩餐が、私の麻婆だったことを光栄に思い、逝くがいい!!」
その直後。
「みんなぁぁぁ!!助けてぇぇぇ!!」
魂を削った叫びが炸裂し、結果として――四人は四百円ずつ追加で支払い、事態はなんとか金で解決されたのだった。なお、この日以降、明久は「麻婆」と「出刃庖丁」という単語を聞くと、条件反射で隠れるようになったという。そして4人に400円ずつの借金が出来た。
地獄の麻婆を食べ終え、翌日。ある者は人生の墓場へ。またある者は強制的な極貧生活へ。
それぞれがそれぞれに重い代償を背負いながら迎えた、試召戦争終結から数週間後――戦いの熱はすっかり冷め、代わりに文月学園を包み込んでいたのは、浮かれに浮かれた空気だった。学園中が一色に染まる、この時期恒例の大イベント。
清涼祭。
召喚獣だの試験だのと、普段から色々とおかしい文月学園だからか、この学園祭も例に漏れず、常識というものがほぼ存在しない規模で開催される。
試験召喚大会。模擬戦。クラスごとの出し物。本番を目前に控え、どのクラスも最後の追い込みに入り、校舎内は準備、準備、また準備で、どこもかしこも修羅場と化していた。
――そう。
普通のクラスは。
「プレイボール!!」
快晴の空の下、そんな掛け声が響いたのは、校庭。野球をしている者たちがいた。
もちろん――Fクラスの男共である。
投手は明久。マウンドを足で均し、ミットを構える捕手は雄二。この二人の即席バッテリーが、なぜか妙に噛み合っており、ボールはそれなりに捕手のミットへ吸い込まれていく。打球も、なぜか守備の正面。アウトが取れない。というか、全体的に無駄に試合が成立している。
なお、刀夜のポジションはショートだった。転がってきたゴロを無難に捌く。完全に放課後の草野球である。その時だった。
「貴様らぁぁぁぁ!!学園祭の準備をサボって、何をしているかぁぁぁ!!」
校舎の方角から、人間とは思えない肺活量の怒声が飛んできた。振り向いた瞬間、全員が悟る。
「あっ、ヤバい」
そこには――怒りを全身に纏い、地面を踏みしめながら突進してくる一人の男。
鉄人。Fクラス担任。人類悪。
「ヤバい!鉄人だ!!」
「逃げろぉぉぉ!!」
誰かが叫んだ次の瞬間、Fクラスの男共は見事なまでに四散した。ポジションもフォーメーションも何もあったものではない。全員が全員、己の生存本能のみを信じて走る。
「待てぇぇ!!」
鉄人の怒号が背中を追いかける。
「吉井ぃ!!貴様がサボりの主犯だな!!」
「ち、違います!!どうしていつも僕を目の仇にするんですか!?」
明久が必死に否定するが、鉄人は聞く耳を持たない。
(うへー……鉄人怖っ)
少し距離を取った位置から、刀夜は完全に他人事だった。
「とにかく即刻、全員教室へ戻れ!!この時期になっても、まだ出し物が決まっていないなんて――そんなクラスは、うちだけだぞ!!」
その一言が、Fクラスの胸に重く突き刺さった。
◆
教室。
床にござを敷き、その上にだらけきったFクラスの生徒たちが座り込む。まるで避難所である。その前に立つのは、黒板の前に腕を組んだ雄二。
「さて」
やる気の欠片も感じられない声で、雄二が切り出した。
「そろそろ、春の学園祭の出し物を決めなくちゃならない時期が来た」
誰も反応しない。
「取り敢えず、議事進行並びに実行委員として誰かを任命する」
ざわり、と空気が揺れる。
「そいつに全権を委ねる。あとは全部、そいつに任せる」
要約すると――丸投げである。
「てめぇも仕事しろよ」
思わず刀夜の口が悪くなる。
「学園祭に興味が無くてな」
即答だった。その態度に、Fクラス全員が確信する。ああ、このクラス今年はダメかもしれない。そんな予感だけが、やけにくっきりと漂っていた。
明日は投稿をお休みさせてもらいます