翌朝、刀夜は、いつも通り文月学園へと向かっていた。
いつも通りのつもりだった。
「……やっべ、寝坊した」
時計を見た瞬間、脳内でチャイムが鳴った気がした。全力で走るほどの元気はないが、遅刻確定ほどでもない。中途半端に焦りながら校舎へ滑り込み、いつもの場所へ向かう。
校舎の隅、日当たり最悪、設備最悪、空気最悪。もはや文化財レベルの老朽化を誇る教室である。ガタガタと今にも外れそうな扉を開け、刀夜は言った。
「うーす……って、なんだこの惨状……」
次の瞬間。
ドゴォッ!!
乾いた衝撃音と共に、明久という物体が宙を舞い、床に叩きつけられていた。原因は明白。島田の、見事すぎるアッパーカットである。
「……」
床に転がる明久は微動だにしない。
(これは……生ゴミ判定か?)
一応友人ではある。だが、今この瞬間ばかりは可燃か不燃かで悩む存在だった。
「アンタねぇ!!」
怒声と共に島田が振り返る。
「昨日はウチを見捨てただけじゃ飽き足らず!
消火器の悪戯と窓割った犯人にまで仕立て上げたわね……!!」
(あー……そういえば、そんなこともあったな)
?
「おかげで――」
島田が拳を握りしめ、叫ぶ。
「『彼女にしたくない女子ランキング』が上がっちゃったじゃない!!」
(そんなランキングあったのか……)
文月学園、恐るべし。そして島田には、まだ上がる余地があったらしい。
「コホン」
島田は一度咳払いをし、わざとらしく姿勢を正した。
「本来なら、今すぐ掴みかかってるところだけど」
(殴り飛ばしてる時点で十分だと思うのは俺だけか?)
「アンタにはもう十分、罰が与えられているようだから」
ニコッ。
その笑顔は、教科書に載せたいほどのいい笑顔だった。同時に、背筋が凍るタイプの笑顔でもある。
「今回は――許してあげる」
(あ、これ一番ヤバいやつだ)
一年間同じクラスで過ごした刀夜は知っている。島田が「許す」と言った時、大抵は後で倍返しが来る。
その時だった。
「……いや、そうじゃなくってね……」
床から、か細い声が聞こえた。見ると、明久が半死半生の状態で上体を起こしている。
「一時限目のテストの監督……船越先生だって……」
次の瞬間。
「……っ!!」
明久の顔色が一気に青ざめたかと思うと、
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!」
脱兎の如く教室を飛び出していった。島田の制裁よりも、船越先生の監督の方が恐ろしいらしい。教室に残されたのは、微妙な静寂と見てみぬふりを貫いた、その場に居る全員。
「……」
「……」
刀夜は晴れている空を見ながら小さく呟いた。
「今日も平和だな……」
Fクラス基準で。
午前のテストが終了した瞬間、教室には安堵と絶望が入り混じった空気が流れた。
「うあー……づがれだぁ……」
真っ先に机へ突っ伏したのは明久だった。もはや“人間”というより“答案用紙の亡骸”である。
「うむ。そうじゃのう」
「私も、少し疲れました……」
秀吉と姫路もそれぞれ息をつく。なお余談だが、明久は船越先生への対応として“近所のお兄さん(39歳・独身)”を紹介するという謎ムーブをかました結果、事なきを得たらしい。お兄さんとは何なのか。誰も突っ込まなかった。
一方、刀夜も疲れていた。最初の試験が数学。よりにもよって数学。脳内で数式が反乱を起こしている。
そんな中――
「よし!昼飯行くぞ!」
やたら元気な声が響いた。雄二である。
「今日はラーメンとカツ丼と炒飯とカレーにするかな」
「よく食えるな、その量」
刀夜のツッコミはごく自然なものだった。
「ん?吉井達は学食に行くの?だったら一緒に行ってもいい?」
「構わんぞ」
「右に同じく」
「それじゃ混ぜてもらうわね」
「……(コクコク)」
ムッツリーニも参加する。彼の参加理由は明白だった。島田に何か“ハプニング(意味深)”が起きないかという、極めて不純な動機である。
「何か、吉井がウチに失礼なこと考えてる気がするんだけど」
どうやら察知されたらしい。明久の想像力は、だいたい地雷を踏む。
「じゃあ僕は贅沢にソルトウォーターでも……」
「明久の贅沢の定義が分からなくなってきたぞ……」
その時だった。
「あ、あのぅ……」
背後から、控えめな声。振り向くと瑞希が風呂敷包みを抱えて立っていた。
「もしや、昨日言ってた弁当かの?」
「は、はい。ご迷惑じゃなかったら……」
風呂敷を差し出す瑞希。明久は両手を天に掲げた。
「神は……いた!!」
「大げさすぎだろ」
「では屋上に行くかの。こんなカビ臭い所では食事する気になれん」
「そうですね」
こうして一行は屋上へ向かうことになった。
(確かに、このオンボロ教室で食うより100倍マシだな)
途中、
「昨日の礼も兼ねて飲み物買ってくる」
「ウチも行く。一人じゃ大変でしょ?」
雄二と島田が自販機へ。残りの面々は先に屋上へ向かった。レジャーシートを広げ、天気も良く、気分はちょっとしたピクニック。
「あの……お口に合うか、自信はないんですけど……」
瑞希が重箱を開けた瞬間――
「「「「「おお!!」」」」」
唐揚げ、海老フライ、卵焼き、サラダ。
「……美味そうだ」
刀夜の口から、思わず本音が漏れる。
「じゃあ雄二には悪いけど――」
「……(ヒョイ)」
「あっ、ずるいぞムッツリーニ!」
ムッツリーニが唐揚げを一つ摘み、そのまま流れるように口へ――
「……(パク)」
バタンッ!!
次の瞬間、康太は正座のまま前のめりに倒れ、コンクリートへ豪快なヘディングを決めた。
ガタガタガタ。
陸に打ち上げられた魚のように痙攣を始めるムッツリーニ。
「「「……」」」
全員、無言で見守るしかなかった。
「わわっ、土屋君!?」
姫路が慌てて箸と紙皿を落とす。
「……(グッ)」
震える手で親指を立てるムッツリーニ。“美味しかった”という意思表示らしいが、足元はKO寸前のボクサーだった。
(文字通り、まな板の上の鯛みてぇにピクピクしてるぞ……)
しかし当の瑞希は、満面の笑み。
「あ、お口に合いましたか?良かったです」
誰も“命の危険がある”とは言い出せなかった。
「良かったら、どんどん食べてくださいね」
にこやかに微笑む瑞希。その一言に、
「う、うん。ありがたく頂くよ……」
明久は引きつった笑顔で応じた。だがその裏側で、命を賭けた緊急会議が水面下で展開されていた。
(……秀吉、刀夜。これ、どう思う?)
(どう見たって100パー姫路の弁当が原因だろ)
(じゃな。これ以外に理由が見当たらぬ)
(でもさ……見た目は普通に美味しそうだよ?)
(見た目は完璧。だが“味”はそれに伴っていない)
つまり導き出される結論は一つ。
姫路は料理が壊滅的に下手。
(お主ら、身体は頑丈か?)
(正直、自信ないよ。食事の回数が少なすぎて胃腸が退化してる気がする)
(ゾルディック家の生まれじゃないから無理だ)
(ならば、儂に任せよ)
秀吉が静かに胸を張る。
(こう見えても儂の胃袋は、ジャガイモの芽を食べても耐え抜いた実績がある)
(……それ毒じゃなかったか?)
刀夜の脳裏に、「身体は鉄で出来ている」というフレーズが浮かぶ。いや、もはや鉄どころか合金である。
(いいのか、秀吉?)
(安心せい。儂の“鉄の胃袋”を信じるがよい……)
その時だった。
「おう、待たせたな」
救世主か、それとも死神か。雄二が飲み物を手に屋上へ現れる。
「へー、こりゃ旨そうじゃないか。どれどれ?」
「「「あっ」」」
止める間もなく、雄二は重箱から卵焼きを一切れつまみ、何の躊躇もなく口へ放り込んだ。
パク。
バタンッ!!
ガシャガシャン!
ガタガタガタガタガタ!!
次の瞬間、ジュース缶を盛大にぶちまけながら、雄二は屋上に倒れ伏した。
「さ、坂本!?ちょっと、どうしたの!?」
遅れてきた島田が駆け寄る。そして一目で理解した。間違いない。こいつは“本物”だ。雄二は倒れたまま、明久と刀夜をじっと見つめ、目でこう訴えていた。
『毒を盛ったな』
それに対し、
明久は目で返す。『毒じゃないよ』
刀夜も続ける。『姫路の実力だ』
無言の会話が、完璧に成立していた。
「さ、坂本君までどうしたんですか!?」
「あ、足が……攣ってな……」
「あはは、階段ダッシュしたからじゃないかな」
「うむ、そうじゃな」
「全く、準備運動を怠るからだ」
「そうなの? 坂本って、これ以上ないくらい鍛えられてると思うけど」
「あ...あれだ、見た目だけってことだろ」
そんな雑なフォローに包まれながら、雄二はよろよろと立ち上がるが、その足取りは、生まれたての小鹿そのもの。
ガクガク、プルプル。
ムッツリーニと並んで、屋上に二頭の小鹿が誕生した瞬間だった。
(……次は誰が行く?)
(いや、待て。まずは――)
静かに、そして確実に、第三の犠牲者が選出されようとしていた。そんな惨状の中心にいながら、何が起きているのか一切理解していない人物が一人いた。
島田である。
「……?なんで坂本と土屋があんなことになってるの?」
首を傾げる島田を見て、明久は即座に判断した。
(これは一旦、戦線離脱させた方がいい)
「ところで島田さん。その手ついてる辺りにさ」
「ん?何?」
「さっきまで虫の死骸があったよ。結構リアルなやつ」
「えぇっ!?早く言ってよ!」
即座に立ち上がる島田。
「ちょっと手洗ってくる!」
そう言い残し、ものすごい勢いで屋上を後にした。
……やはり女の子である。虫耐性だけは低いようだ。
「島田は、なかなか食事にありつけずにおるのう」
秀吉がしみじみと言う。
「全くだね」
「せっかくの姫路手製の弁当なのにな」
はっはっは、と男4人が朗らかに笑った。なお、その裏側では、人道を完全に無視した作戦会議が、音もなく進行していた。次に犠牲になる人を決め、最後に笑うのは....「自分だ」という事である。
(明久!今度はお前が行け!)
(普段、固形物ほとんど食えてないんだろ!? 今がチャンスだ!)
(む、無理だよ!僕だったら死ぬ!確実に死ぬ!医療班呼ばれるやつだよこれ!)
(流石に儂も、さっきの惨状を見て決意が鈍る...)
(だが姫路は、どちらかというと明久に食べてほしそうだが)
(そんなことないよ!雄二は乙女心を分かってない!これは完全に勘違いだ!)
(いや、分かってないのはどちらかと言うとお前の命の価値観だ!)
(ええい!いつまでも揉めるでない!こうなったら....)
「あっ!姫路さん、あれはなんだ!?」
「えっ?なんですか?」
一瞬、瑞希の視線が逸れた、ほんの一瞬。
(今だぁぁっ!!)
「もごぁぁっ!?」
明久の手が、雄二の口の中へと一直線に突っ込まれた。
唐揚げ!
卵焼き!
エビフライ!
怒涛のフルコースがまるで「栄養を直接胃に叩き込む」かのような勢いで叩き込まれた。
「ぐっ……!?が……!」
雄二の目が白黒に切り替わる。膝が笑い、魂が半歩ほど浮き上がる。
(お、終わった……!)
刀夜はそう思った、明久が全弾装填・完全投下したと。だが、重箱の中身を見て、刀夜の顔色が変わる。まだ、半分残っていたのだ。嫌な予感が確信に変わる。
「……テメェ、明久――!」
その声が届く前に。
「ごぼぁぁっ!?」
刀夜の口に、残り半分の弁当が容赦なく突っ込まれた。視界が暗転し耳鳴りがする。遠くで鐘の音が聞こえた気がした。
(……三途の川が……見える……)
明久は、二人が完全に白目を剥いたのを確認すると、今度はやけに優しい手つきで顎を掴んだ。
「ほら、ちゃんと噛まないと」
モグモグを強制介助。上下に動かされる顎と尊厳が削られていく音。
「ご飯はよく噛みましょうだよ」
人格が、音を立てて消滅した。
「ふぅ、これでよし」
満足そうに手を離す明久は達成感に満ちた表情だった。
「……お主、案外鬼畜じゃな」
秀吉が一歩引きつつ、若干引き気味に呟く。明久はそれを聞き流した。
屋上には、
・倒れた雄二
・魂が抜けかけた刀夜
・痙攣が止まらないムッツリーニ
・満足げな明久
•引いてる秀吉
•天然の姫路
そして、何も知らずに戻ってくるであろう島田。
「ごめん、見間違いだったよ」
「あ、そうだったんですか」
あまりにも素直に引っかかってくれる姫路に、男達は心の底から感謝した。こんな古典的なフェイントに騙されてくれる存在は、もはや天然記念物である。
「お弁当美味しかったよ。ご馳走様」
「うむ、大変良い腕じゃ」
犠牲者たちの尊い屍によって弁当は無事に始末完了。青空はどこまでも澄み渡り、彼らの心も(数名を除いて)晴れやかだった。
「あ、早いですね。もう食べちゃったんですか?」
「刀夜と雄二がもりもり食べてたよ」
二人の尊厳と内臓を、都合の良い解釈で墓地送りにする鬼畜・明久。
「……」
刀夜と雄二は、何も言わなかった。言えば吐く魂ごと。
すると、姫路がぽん、と手を打った。
「ん?どうしたの?」
「実はですねー…」
ごそごそ、と鞄を探る音。その時点で、背筋に冷たいものが走る。
取り出されたのは――タッパー。
「デザートもあるんです」
「あぁっ!姫路さんアレはなんだ!?」
(やめろ馬鹿!二回目を喰らったら俺は完全に亡き者になる!)
(テメェ!二回目が通じると思うなよ!)
(仕方ないだろ!こんな任務、二人にしか出来なかったんだ!)
雄二と刀夜が明久の策に気づき、即座に反論。
そして――復讐を決意する。一方その頃、姫路はスプーンを忘れたことに気づき、
「あ、ちょっと取ってきますね」
と、階段へと消えていった。
最終ラウンド開始。
「……儂が行こう」
秀吉が静かに名乗りを上げた。
「秀吉!?無茶だよ、死んじゃうよ!秀吉が食べなくてもいいから!」
明久が必死に止める。さっきまでの雄二と刀夜との扱いの差が露骨だった。すると刀夜が立ち上がる。
「ああ、秀吉。明久の言う通りだ」
続いて雄二も立ち上がる。
「秀吉が食べなくても、策は一つだけある」
「なんじゃと?この状況でどんな策が?」
策が尽きたそう思った瞬間、人はとんでもない発想に行き着くものである。だが2人にとっては通常の発想である。
「簡単な事だ。雄二、やれ」
刀夜が淡々と言い放つと、その一言を待っていたかのように雄二が即座に動いた。
「ラジャー」
「うぎゃっ!?」
雄二が明久を羽交締めにする。
「ゆ、雄二なにすんのさ!離して!刀夜も止めさ...『無理だ』早いなチクショー!」
刀夜の“無理だ”の三文字は、もはや判決文だった。明久の希望は、判を押される前に粉砕された。
「明久、本当に簡単な事だったんだ」
刀夜はやけに優しい声でそう切り出した。その口調が逆に不穏さを増していることに、明久だけが気づいていた。
「お前の口にデザート全部流し込めば、全て綺麗に収まるからなぁ!」
「どこが綺麗なんだよそれぇ!?」
なお、ここで言う“デザート”とは、姫路が丹精込めて作ったアレである。見た目はヨーグルト、分類上もヨーグルト。ただし味と安全性は別問題。幸い?スプーンがなくても飲もうと思えば飲める粘度をしていた。
「と、刀夜!悪かった!僕が悪かったから……あががかがっ!」
明久が命乞いを始めた瞬間、刀夜は一切の躊躇なくその顎を掴んだ。
「暴れるなって」
低く、実に落ち着いた優しい声が通る。明久が必死に口を閉じると、刀夜は顔色一つ変えず、静かに言い添える。
「口を開けないなら――肝臓を殴ってから流し込む!」
「選択肢が選択肢になってないぃぃ!?」
明久は悟った。こいつにはやるといったらやる………『スゴ味』があるッ! と
雄二は背後でがっちり羽交締めを維持したまま、妙に爽やかな笑顔を浮かべる。
「心配すんな」
刀夜は完全に善意の人の顔だった。
「飲むヨーグルトってのが存在する以上、スプーン無しでも問題ない!な、雄二!」
「ああ!」
雄二は力強くうなずいた。
「スプーンがなくてもヨーグルトは食えるぞ!明久、ゆっくり味わって食べろよ!」
「誰もスプーンの話してないからね!?論点そこじゃないからね!?」
「ちょっとその口を開いたままにしよう」
刀夜は割り箸をパキリと折ると、有無を言わさず明久の口をこじ開け、上の歯と下の歯の間に縦向きで差し込んだ。
完全に、「口を閉じるという選択肢」を奪う配置である。
「ひゃ、ひゃめ……!」
明久は必死に抵抗しようとするが、口は開いたまま固定され、舌も自由を奪われている。
結果――
「や、やへへ! にひりょとひょも! ……はんはへなほひへ! ……ひゅへひ! たひゅへ……!」
訳:
「や、やめて二人とも!……考え直して!……秀吉!助け……!」
当然、誰にも通じなかった。明久は涙目で秀吉の方を見るが、秀吉は視線を逸らし、そっと胸の前で手を合わせていた。
「「
最後の希望に縋る叫びも、虚しく宙に消える。
「ゴぼばあああああっっ!!」
次の瞬間、謎のヨーグルト(仮)が、容赦なく明久の口へと流し込まれた。
こうして――デザートは無事に消費され、クラスの平和は2人の暴力と1人の犠牲によって守られたのである。
なお明久は、その後しばらく床に転がったまま、「ヨーグルト……ヨーグルトが……」と意味不明な寝言を呟いていたという。平和とは、かくも尊い犠牲の上に成り立つものなのだ。
最後に笑ったのは
「「スッキリした」」
「お主らも鬼畜じゃの....」
秀吉の声が屋上から虚しく響いた。