深淵より這い出した者 作:観測者A
ぴた、ぴた、ぴた、
辺りはそのような音が反響しており、濃厚な霧が岩肌を舐めるように包んでいた。
鍾乳石のような尖った構造物が洞窟の上から垂れ下がり、光るランプのような構造物が埋め込まれた橋。
橋のはるか下は何も見えない奈落。
今すぐにでも吸い込まれそうな奈落の闇に、暗い場所から1つの生物が這い出してきた。
「……」
とてつもない速度で軽快な音を立てながら登るのは、おおよそ生物としてありえない形状をした生き物である。
人型からは完全に乖離しており、その造形は機能美を感じざるを得ない。
上半身はあるものの下半身は存在しない。節を持った腹部は高い防御力を感じさせ、無数の太く短い脚が常時動いてカサカサと登る。
そして、ガシガシと2つの手を岩肌にグリップさせ、滑らぬように吸盤状の指を濡れた岩に触れさせる。
すると、その濡れた岩は突如として動き出し、手に噛み付こうとする。
目を持たず、耳を持たない、そんな岩。だがそれはただの岩ではなく擬態した『魔物』だった。
手が噛みちぎられたというのに、乱れた傷跡から血が出ることはない。天井から滴り落ちる液体、その全てがこの岩の同類たる『魔物』の粘液である。
「……」
黙ったまま、その『吸盤』だらけの両手を岩に突き刺した。大口を閉じて咀嚼していた岩は、怪力によって強制的に開き、周囲に強烈な音を立てる。
ギチギチ、ギチギチと硬い何かが鈍く唸るような音の正体は、『魔物』が変形する音だ。
欠けた右腕の傷跡からは新しく無数の棘が生え、それは真っ直ぐ伸びてからあらゆる方向に棘状の構造物が生えた円柱のようになっている。
左手は4つの親指でしっかりと体を支え、手のひらの中央から延びた2つの杭が岩肌でも豆腐に爪楊枝を刺すように無抵抗で刺さっている。
貫通した杭が壁の中から岩に向けて延び、ガリガリと回転しながら杭の先端は魔物を削っていく。
そして、毒性の霧となって消滅した岩の魔物の空洞に畳まれていた足を入れ、跳躍するような動きで一気に駆け上がる。
その動作をごくわずか、短い時間で繰り返しながら、橋に戻ろうとするような挙動でその生物はさらに上へ上へと蠢く。
その時だった。
橋の上に、『人間』が現れた。その人間は奈落の底に落ちぬようにと気をつけながら橋を渡っていく。
だがその人間は気づいていなかった。橋そのものが、『擬態した魔物』であるということに。
悲鳴を上げる暇もなく、強固な橋は瞬く間にたわんで振り落とす。風が吹いているが、風によって共振したのではなく、むしろ風とはこの橋の副産物である。
人間は振り落とされる最中、奇妙な生物を捉える。
その瞬間、網のような構造物に引っかかった人間は悟る。
ここが『魔物の巣窟』であるのだと。
霧が水滴として空中に留まっていたのは、小さな蜘蛛が何億回も細い糸を吐き、空中を移動した痕跡なのだと。
すぐに母蜘蛛がやってくると絶望しながら蜘蛛の巣に引っかかり、諦めたその時……本能的に体が弛緩した。
(うわああ!何だ、なんだあれは!)
そんなことを心の内で思っていても、口は開いていても、言葉として結ばれることがない。
麻痺性の霧が気付かぬ間に立ち込めていて、風によってそれを吸い込んでしまったのだ。
筋肉を硬くさせ、行動を阻害するその霧は……穴ぼこだらけになった岩肌から立ち上る。
幾重にも重なり合った糸は薄い灰色で、深淵の縦穴に縦横無尽に駆け巡っている。
糸は重みでたわみ、人間の手のひらほどの大きさの子蜘蛛が駆け寄る。
「キキシャ」「キキ」「キキ?」「キキシャ!」
言語を持った魔物は、意思疎通が可能になり、共食いをしなくなる。その結果としてこの蜘蛛は増えに増え、深淵の魔物の中で最多の魔物となった。
侵入者に喜び、揺れる周期を活用して広範囲に落下物と餌が発生していることを子蜘蛛は探知した。
彼らは語彙が豊富であり、目に見える言葉と目に見えない言葉の両方を活用して"文"を作ることができる。
しかし、その瞬間に這い寄る生物は音を鳴らす。
腹部は殻のようになっていて、それがぶつかることによって独特な音が鳴り響く。声の反響音からの探知により、地形は定期的に把握されていた。しかし、気まぐれのようなもので生物は蜘蛛の巣に近づいていく。
圧倒的脅威を確信した人間は、どうにか見つかっていませんようにと祈り、後悔の念と助かりたいという気持ちだけが内心にあった。
「助けてくれ」
か細く、極めて小さい、呟くような声。しかしそれは、全身で音を感知する生物にとって位置情報を示す決定打。
霧が弛緩した本能的脱力を抑制し、硬化させようとしたことが逆に通常の動きを可能とした奇跡の発声。
それを聞いた生物は、即座に向かった。
7対の短い足を折り畳み、伸ばした1対の長い足を霧の小さな洞にかけて一気に飛び出した。
「……」
(死んだ。終わった。ああ、どうか見逃してくれー!)
遥か下、奈落の底の岩壁から飛び出してきた生物は……巨大な母蜘蛛を既に仕留めていた。
奈落の底から這い出したのは、危機が迫ったからではない。むしろ、この生物こそが奈落の主にして危機の化身である。
(お願いだ……)
祈りを捧げて諦める。それは高度な社会性を持つ人間が行う動作でもありながら、本能的な動作でもある。
だが目の前の生物を前にして全ての信仰は崩れ、神を蹴落としてでも逃げ出したいとまで考えてしまう。いや、判断してしまう。
首にかけたペンダントを握った両手を、目の前の脅威に向かって投げるために解放したその時……生物は動いた。
4つの対向性を持ったその指で、杭を前腕に収納しながら人間に触れていく。
じわりじわりと高い体温が伝わり、肩を握られている人間は気絶しそうになっている。
明らかに右手が武器になっていて、殴られたら穴が開くことは確実な棘。
しかも手からは1つだけではなく、いくつも棘が伸び、少し見ただけでも10本は超えていると判断できる。
しかし、その圧倒的な武力を持った部位を人間に翳すことはなく、右手の前腕から飛び出した杭が棘を一掃して奈落の底に落とす。
肌は存在しない甲殻の手。その手の中央からは2本の杭が飛び出し、回転して右手の棘を解除した。
すると、膜が張られている目で人間を捉えた生物は驚きながら橋の上を見つめた。
右手の親指で人間の脇腹をむんずと掴むと、少し下の岩壁の洞穴に案内する。
その周囲は毒霧が発生して上部に登り続けていたが、この生物にとって毒は存在しないものと同じである。
発光するぶら下がった紐が照らされ、周辺の洞穴は一気に照らされてその全容が理解できる。
多数の肉々しい何かの断片が、洞穴の内部に落ちている。
それをひとつかみ取って人間に差し出したが、食べないのを見て生物は目の前で捕食して見せた。
パギャ、という音が出て、スライドしながら二等辺三角形の口が外部に出現する。
小さな口は一気に伸び、肉の一片を噛んだ。
そして、内部の顎が一気に戻りながら口が閉じ、食事過程を見せつけた。
人間は光る紐の束を見て、この生物も何かしらの魔物なのかと考えて怯えたが、これ以上何もしない方がダメだと判断して意を決して食べた。
それは非常に生肉に近い肉……というか調理がされていないがために生肉だが、とても筋張った肉であった。
筋肉の歯ごたえを感じながらも噛み切ると、次々と洞穴の奥から出される肉を見て驚いた。
これほどの食料を貯蔵できる社会性と知性、そしてその高度な戦闘力。
一体、何の魔物なのかさっぱり分からないけれども……圧倒的な強者であることだけは理解できる。
『岩食い』
局所脅威度 A+
主な生息域は淡水域だが、稀に汽水域に生息していることもある。
定期的な発見報告が寄せられており、4℃前後の湖の底にて大量に発生していることが判明している。また、水中だけでなく十分に湿度が高い場所ならば生息可能であることが判明している。
頑強な地盤も岩食いによって空洞化し、将来的な地滑りの可能性や崩落の発生が懸念される。また、生命活動が停止した時に筋肉を硬化させる霧を発生させる。
水分を取らせないことによって霧は放出されないが、特殊な場合として地下水位が高い場所では霧を常時発生させる行動が確認されている。
また、個体差も激しく、地域によって顕著な差が見受けられる。魔物の情報は、国立魔物研究所を情報源としている。また、この魔物についての情報は随時更新予定。続報を待たれよ。