アストリピュア 作:ミモザ
誤字、脱字などは教えていただけると幸いです。
黒─────。
それはすべての光を飲み込み、すべての感覚を奪い去る。もはや無と呼ぶに相応しい、絶対的な虚無に飲み込まれたと思った瞬間、視界は切り替わり、様々な情報が押し寄せる。
「始まったのか……本当に……」
呆然と呟く。疑っていたわけではない。一週間の地獄のような準備は、すべてこの瞬間のためにあったのだから。だが、それでも心のどこかで「これがすべて悪い夢なら」と願わずにはいられなかった。そんな幼い逃避を、無慈悲に、そして静かに打ち砕かれた。
目の前に広がるのは、途方もなく広がる海。透き通るような青い水、波間にゆらゆらと揺れる海藻。鼻腔を突く磯の匂いと、生温かい潮風が俺の肌を撫で、衣服を揺らす。音、匂い、風、光。そのすべての感覚が、ここが現実だ。と脳内で警報を鳴らしていた。
「っと……呆けてる場合じゃない。こんな視界が開けた場所で人に見つかったらおしまいだ……」
俺は慌てて姿勢を低くした。砂浜か、あるいは沿岸の岩場か。周囲を素早く見回すが、幸いにも近くに人の気配はない。100人が放り出されたとはいえ、そう簡単には鉢合わせないよう配慮されているのかもしれない。そう思うと、わずかに肩の力が抜けるのを感じた。
「とりあえず……高くて辺りを一望できる場所を探さなきゃな」
ゲームでも現実でも、高所を確保するのは定石のはずだ。相手より高い位置にいれば、それだけで圧倒的な情報のアドバンテージを得られる。逆に言えば、今のように平地で立ち尽くしているのは、どこから狙われてもおかしくない死地を意味する。
「とりあえず……あそこを目指すか」
海とは真逆の方角。そこには、空を突くような巨大な山がそびえ立っていた。山との間には鬱蒼とした森が広がり、かなりの距離があるように見える。だが、迷っている暇はない。俺は一歩、砂を蹴って歩き出した。
しかし、しばらく歩いたところ、奇妙なものが視界の端に引っかかった。
「なんだあれ……。鳥……にしては、変な動きだな。いや、まさか他の参加者か?」
それは、空中に浮かぶ不規則な何かだった。重力を無視するように、山なりに大きく跳る、また跳ねる。ここから肉眼で見れば、ほぼ黒い点にしか見えない。だが、確かに何かがそこに存在し、尋常ではない速度で移動している。
「そうだ、双眼鏡!」
俺は慌てて、首から提げた《高倍率双眼鏡》を構え、レンズを覗き込んだ。あの四十時間の集大成。遠くの敵をいち早く見つけるための、俺の「瞳」——。
だが、目に飛び込んできたのは、予想とは全く異なる風景だった。
「…………は?」
見える。確かによく見える。俺を中心とした一定範囲が、まるで俯瞰カメラで撮影しているかのように、360度すべて死角なしで脳内に展開される。背後の岩陰も、前方の森も、全方位が一画面に映る圧倒的な情報量。だが、その代わり。
【遠くのものを拡大する】という、双眼鏡本来の機能が完全に死んでいた。
「嘘だろ!? 普通に使えないのかよこれ!?」
あーでもない、こうでもないと、焦りながらレンズのピントや鏡胴を弄り回す。しかし、いくら弄ろうとも、この魔導具は全方位の俯瞰視点という一点にのみ特化し、それ以外の機能を放棄していた。
俺の込めた「死角を無くしたい」という切実な想いが、望遠機能を完全に捨て、異質な知覚能力へと作り変えてしまったのだ。悪戦苦闘しているうちに、いつの間にか空の黒い点を見失っていた。
「…………まぁ、別に、こっちに向かってきてるわけでもなさそうだったし。こっちの視界の方が便利だしな。……うん」
誰もいない空間で、自分に言い訳をするように独り言をこぼす。心の中に残ったを
今すぐにでも全速力で走って、あの山を目指したい。だが、俺は自分の体を信じていない。一般中学生である俺のスタミナなど、知れている。サバイバルがある程度の長期戦になることを前提とするなら、まずは体力の温存が最優先だ。ここでバテて動けなくなれば、それこそただの餌でしかない。
「それにしても、さっきのは何だったんだ?」
歩きながら、先ほどの黒い点の動きを考える。あれが人なら、間違いなく能力を使用しているだろう。
飛行か? いや、あんな不自然にガクガクとした動きはおかしい。
跳躍か? しかし、空中を何度も蹴っているように見えた。
「空中を跳ねる能力……。だとしたら、機動力の差がありすぎるだろ…」
思考を巡らせるが、今の俺の情報量では答えに辿り着けるはずもない。
「……まぁ、仕方ないか。あんなに離れてる場所だと見つけるのも難しかっただろ。むしろ、あの距離の点に気付いた俺が凄いってことにしておくか。」
一種の思考放棄、あるいは現実逃避。そうでもしなければ、自分と他の参加者との圧倒的な格差に心が折れてしまいそうだった。
俺は砂浜を抜け、鬱蒼とした緑が待ち構える森の境界へと足を踏み入れた。
砂浜を抜けた先、森の境界線を超えた瞬間に世界の色が変わった。 鬱蒼と茂る樹々が日光を遮り、湿った土と腐葉土の匂いが鼻を突く。俺はなるべく音を立てないよう、細心の注意を払いながら一歩を踏み出した。
「くそっ……歩きづらいな……」
最初は少し歩きづらいだけの地面だった。しかし、しばらく歩くと、足元には無数の枯れ枝が地雷のように散らばっている。それらを完全に避けようとすれば、足の上げ下げに不自然な負荷がかかり、無駄な体力を削られていく。かと言って、無造作に踏み抜けばその音で居場所が他の参加者にバレる恐れがある。なるべく余計な心配を無くしたい俺は、ある程度の音を許容しつつも、なるべく乾いた枝を避け、柔らかい土の上を選んで進むことにした。
慎重に、慎重に。 ある程度の距離を進むたびに足を止め、双眼鏡を覗いて360度の周囲を確認する。視界をクリアにした後、バックパックから水を取り出し、唇を湿らす程度に喉を潤す。
飲料が機能するか心配だったが、しっかりと飲み物の役割を果たしていることに安堵する。この調子ならこの携帯食も問題なく俺のお腹を満たしてくれるだろう。
そうして歩くこと三十分。たかが三十分だが、それは確かに俺から想像以上の体力を奪っていた。 舗装されていない悪路、常に狙われているという極度の緊張感、そして双眼鏡で脳内に直接流れ込む全方位の視覚情報の処理。 中学生の肉体には、そのすべてが重すぎた。
「今日はひとまず、安全そうな場所を見つけて休みたい……」
当初の目標だった山への到着を、心の中で今日中に達成することを諦める。そもそも、この牛歩のようなペースで山を目指すことに意味があるのか……。そんな、疲労からくるだらけた思考が脳裏をかすめた。
だが、その直後。
パキッ……
乾いた、小さな破壊音。 それは、俺が枝を踏んだ音ではなかった。一瞬で全身の毛穴が開き、冷や汗が噴き出す。明確な殺意や気配を感じたわけではない。しかし、その音は確実に、俺以外の何かが至近距離に存在することを告げる死神のノックだった。
俺は反射的にその場にしゃがみ込み、息を殺した。 心臓が肋骨を突き破らんばかりに跳ねる。俺は震える手で首から提げた双眼鏡を掴み、レンズを覗き込んだ。
一瞬にして視界が拡張される。 俺を中心とした半径数十メートルの全方位。木々の隙間、茂みの奥、巨大な幹の背後。肉眼では捉えきれない、わずかな違和感を探して瞳を走らせる。
(どこだ……どこにいる……!)
そして、見つけた。 俺から見て右後方、約十五メートル。大きな木の影から、ゆっくりと姿を現した影。
それは、一人の男だった。 年齢は二十代後半くらいだろうか。小奇麗なアウトドアウェアに身を包んでいる。一見すれば、どこにでもいる登山客に見えたかもしれない。
だが、違った。 決定的に、俺が知っている人間とは何かが違っていた。
男の右手には、赤黒い液体が滴る無骨なサバイバルナイフが握られていた。 そして男は、その刃に付着した血を、まるで極上のスイーツでも味わうかのように、うっとりとした表情で、ゆっくりと舐めとっていたのだ。
「あはっ……」
男の口から、小さく、悦びに満ちた吐息が漏れる。 その瞳には、先程、殺したであろう参加者への慈しみも、命を奪ったことへの躊躇も、一欠片の罪悪感も存在しなかった。 あるのはただ、社会という
あれは………ただの人間か?
──────否、否、否。否否否否否否否否否否否否否否否否否
あんなものは、俺と同じ参加者なんかじゃない。 あいつは、この狂ったゲームの歯車に自らなり果てた、本物の化物。 運営が望む通りの、理想的な………………………
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【現在の所持品】
《真っ黒な短剣》
《銀の指輪》
《大型バックパック》(少量の保存食・水入り)
《高倍率双眼鏡》
【現在のゲーム】
《100人サバイバル》
【現在地】
《森5394687》