アストリピュア 作:ミモザ
誤字、脱字などは教えていただけると幸いです。
俺は、茂みの陰で凍りついたまま、その狂気に打ち震えていた。
指一本動かせない。指先から熱が奪われ、代わりに得体の知れない冷気がじわじわと全身を侵食していく。
呼吸の音すら、獲物を見つけた猛獣の耳に届いてしまうのではないか、そんな恐怖が、俺の思考を真っ黒に塗りつぶしていた。
(見つかったら……殺される……!)
その強迫観念が、呪いのように俺をこの場に縫い付ける。ドクドクと、耳のすぐ傍で鳴り続ける鼓動がうるさくてたまらない。心臓が跳ねるたびに、鼓膜が内側から叩かれる。あまりの緊張に平衡感覚が狂い始め、胃の奥からせり上がるような吐き気が込み上げてきた。
人は、あそこまで純粋な悪になれるのか。なぜ、あんなに嬉しそうに笑えるんだ。男が一歩、また一歩と踏みしめるたびに、こちらとの距離が物理的に、致命的に縮まっていく。風に乗って、生臭い、鉄のような血の匂いが濃くなってくる。
こちらに気づいている様子はない。ただ無造作に歩いているだけだ。だが、そんなことは関係なかった。俺の防衛本能は、あのプレイヤーという存在そのものを、生きている限り決して交われない異物として排除しようと悲鳴を上げていた。
「ウッ……オエッ!……ぐぅっ、……っ、かひゅ……っ……」
喉をせり上がる胃酸の熱さが、粘膜をヒリヒリと焼く。怖い。恐ろしい。理解できない。こんな音を立てれば、すぐに見つかる。頭ではわかっているのに、溢れ出す生存の拒絶反応を止める術を、俺は持たなかった。
もはや、双眼鏡を覗く余裕すらない。視界は涙と目眩でぐにゃぐにゃに歪んでいる。それでも、カサリ、カサリと、こちらへ確実に近づいてくる足音だけが、死へのカウントダウンとして鮮明に鼓膜へ届く。そして、不意に、その足音は止まる。
「ははっ……み〜つ〜けた♪」
楽しげな、歌うような声。その瞬間、俺の脳内は真っ白に弾けた。
(あ……死んだ……)
自然と涙がこぼれ落ちた。悲鳴すら上げられない、声が凍りつくほどの恐怖。ガタガタと、歯の根が合わないほどの震えが体を支配する。自分の一部であるはずの肉体が、完全に制御を離れて勝手に震えている。
耳鳴りが、高い音を立てて意識を遠ざける。目の焦点が合わない。今にも、あの血塗れのナイフが俺の首筋を目指して振り下ろされようとしているというのに。
死ぬ。本当に死ぬ。死ぬ。死、死ぬ……。
反射的に目を瞑り、腕を顔の前で交差させる。逃げるべき足は鉛のように重く、ただそこに縮こまるだけの、無意味で滑稽な防御本能。
俺はただ、絶望の中で死を待つしかなかった——はずだった。
「はっ!」
短い呼気。直後、キンッ!という、硬質な鉄と鉄が激突する火花の出るような音が、鼓膜を突き抜けた。驚愕して目を開けると、そこには、俺を庇うように立ち塞がる背中があった。
まるで軍人のような服を着た屈強な男だ。その男は、振り下ろされた狂人のナイフを、自らの腕で真っ向から受け止めていた。
「オラッ! これでも食らってくたばってろ!!」
男が咆哮と共に腕を力強く払う。そのまま流れるような動作で、ナイフを持った狂人の顔面を、岩石のような拳で殴りつけた。よく見ると、男の腕は鈍い鉄の色に変色し、その肉体自体が武器と化している。
殴られた男は、まるで大型トラックに撥ねられたかのように、綺麗に数メートル後方へと吹き飛んでいった。
「今のうちだ。行くぞ!」
男は振り返るや否や、腰が抜けて震える俺を、まるで米俵でも扱うかのように軽々と肩に担ぎ上げた。そして、そのまま森の中を、人間離れした速度で疾走し始める。
「あ……、え……っ……。あ、ありが……とう、ござい……ます……っ……」
しゃくり上げるような涙と、激しい揺れ。言葉がまともに形にならない。助かったという安堵と、まだ消えない恐怖が混ざり合い、俺の声は情けなく震えていた。
「あぁ。まぁ、人殺しを平然とやるような奴は許せんからな。……それにあんた、見たところ
男は、木々の間を風のようにすり抜けながら、ぶっきらぼうに言った。
「えっ……? はつ、げーむ……?」
まるで予想もしていなかった言葉に、俺は涙を拭うことさえ忘れて問い返した。
「あぁ。そのへんの詳しいことはまた後でだ。仲間がいる。そっちに合流してからゆっくり話してやるよ。」
男はそれ以上、口を開かなかった。ただ無言で、俺を担いだまま森の奥深くへと走り続ける。混乱は収まらない。何が起きているのか、この男は何者なのか。話だけが俺の理解を超えた速度で進んでいく。
しかし、今は…。ただあのプレイヤーという名の化物から遠ざかっているという事実だけに、俺は全身の力が抜けるほどの安堵を覚えていた。
─────────男に担がれたまま、どれほどの距離を移動しただろうか。 周囲の樹々の影が長く伸び、森全体が夕焼けの色彩に染まり始めた頃、男はようやく走るのをやめた。地面にゆっくりと降ろされ、ようやく自分の足で立つ。まだ膝の震えは完全には収まっていなかったが、地に足のつく感触が生きていることを実感させてくれた。
「着いたぞ。ここだ」
男が顎で示した先には、ぽっかりと崖下に空いた、巨大な洞窟があった。 だが、その光景はどこか不自然だった。洞窟の周囲だけが、まるで意志を持っているかのように濃い霧に覆われているのだ。つい数メートル手前までは、そんな気配は微塵もなかったのに。
「この霧は、一種の認識阻害だ。知らないやつはここがただの岩壁にしか見えないようになっている。気にすんな」
俺の顔に浮かんだ不安を読み取ったのか、男がぶっきらぼうに付け加えた。男は俺の歩調に合わせるように、ゆっくりと洞窟の奥へ向かって歩き始める。俺はその背中を追い、冷んやりとした空気が漂う内部へと足を踏み入れた。
洞窟を進んでいくと、やがて開けた空間に出た。そこで俺は、言葉を失って立ち尽くした。
「……なんだ、これ……」
そこにあったのは、自然の洞窟とは思えない光景だった。 ゴツゴツとした岩肌から、まるで粘土細工を自由に捏ね上げたかのように、滑らかで直線的な四角い岩が、まばらにいくつも突き出していた。それが重なり合い、整然と並ぶ様子は、まるで岩の中に埋め込まれた部屋の集合体のようだった。岩という無機質な物質が、誰かの意思によって完全に作り変えられている。
「……まぁ、理屈を知ってても、これは驚くからな。能力の規模がまるで違う」
男は呆れたようにさらりと言い、驚愕に震える俺を置いてさらに奥の狭い通路へと進む。俺は自然と自分の能力を思い出した。俺が必死に集中してバックパックや双眼鏡を作るのと、この広大な空間を丸ごと作り変えるのとでは、文字通り次元が違いすぎる。
「これから会うのは、少し……いや、かなり癖の強い連中だ。だが、まぁ……悪い奴らではない、はずだ。あんまり気を張らなくていい」
男は少し言葉を選び、どこか言い淀むように言った。 その微妙な間に一瞬の不安がよぎるが、それ以上に俺の胸を占めていたのは、孤独からの解放感だった。
(仲間になれる人たちがいるかもしれない……)
一人でこの地獄を彷徨い、あんな化物と対峙し続けるのは無理だ。でも、志を同じくする参加者たちが協力し合っているなら、帰れる希望が見えてくる。 扉の前に立つ俺の心は、自分でも驚くほどの期待感に満ち溢れていた。
「着いたぞ。この部屋だ」
ひときわ重厚で大きな石の扉。 俺は深呼吸をし、新しい運命の幕を開けるつもりで、その扉を押し開けた。 どんな聖者のような人たちが、自分を迎え入れてくれるんだろう。きっとこれは、俺にとっての救いになる出会いだ。そんな確信に近い予感すらあった。
「し……失礼しま……っ!?」
挨拶の言葉は、衝撃音によってかき消された。
──ドォォォォォォン!!
「ぶっ……!?」
扉を開けた瞬間、暴力的な熱風と爆風が正面から俺を叩いた。 視界が火花と煙で染まり、俺の体は枯葉のように軽々と吹き飛ばされる。背中が冷たい通路の床に激突し、肺の中の空気がすべて強制的に排出された。
霞む意識の中で、扉の向こうから騒がしい声が降ってくる。
「うわぁぁぁ! ごめん、火力間違えたあぁぁ!」
「ちょっと! 何やってんのよアンタ! 新入りが吹っ飛んでったじゃないの!」
「あひっ! あはははは! 腹痛い! 飛んだ、マジで綺麗に飛んだよ!あはっ、はひっ!」
「おい! またお前、火薬に妙なもん混ぜただろ!」
「とりあえず仕切り直しだ! 今からでもカッコいいポーズで迎えれば……」
最後に、聞き覚えのある俺を助けてくれた男の、深く重いため息混じりの声が響いた。
「落ち着け……お前ら……。もう気絶している。」
遠のいていく意識の縁で、俺は静かに思った。
(……俺、ここには馴染める自信ないかも……)
安堵と希望は、火薬の匂いと共に、どこか遠くへ霧散していった。