事務所に入った瞬間、機嫌の悪そうな賀陽さんが、目だけで俺の方を見た。
先日から、彼女の調子はずっとこうだ。不機嫌そうに、しかし約束をすっぽかすような真似はせず、律儀に事務所には来てくれる。
「で、何の用?」
「……ちゃんと、今日の予定は空けていただいてますよね?」
「えぇ。……だから、何をさせられるのかって聞いてるんだけど」
予め内容を教えてしまっては、断られる可能性があった。……何か仕掛けられる、というのは彼女も感じ取っているようだが、それでもちゃんと事務所に来てくれるのは、最低限の信頼はしてくれているのだろうか。
俺は嫌そうな顔の彼女の目の前に、二枚のチケットを出した。
「ライブに行きます」
「ライブ? ……ちょっと待って、それって」
「おや。やはりご存知でしたか」
今日という日。わざわざ賀陽さんを誘って行くライブ……誰のライブかなんて、分かりきっていた。
「月村さんが、ソロライブを行うようです。見に行きましょう」
「いやよ。なんだ私が……」
「でも、知っていたってことは、気にしていたのでしょう。ほら、恥ずかしがらずに」
「誰が恥ずかしがってるって? いい加減にしてちょうだい!」
「……本当に行かないのですか? 残念ですね。折角、最前列の特等席を用意してきたのですが」
「私には関係ない」
おや、意外と強情だ。なんだかんだ、気になっているだろうに。
仕方がない、奥の手を使うとしよう。
「そうですか。……あんな良い席が空席なんて、もし月村さんがステージ上から見たら――」
「あぁもう、行くわよ! 行けばいいんでしょ!」
あっさりと彼女は籠絡される。やはり、良心に訴えかけるのか、賀陽さんの性格的に、最も効果的なのだ。
渋々……という割には、楽しげにライブの準備を始める彼女に苦笑いを浮かべてから、俺たちは会場に向かうのだった。
「いやぁ……すごかったですね」
「すごいとか、そういう次元? 私、途中から本当に、胃が……」
「何回、倒れてしまうかと……はらはらしっぱなしでしたね」
昼頃から始まったライブが終了して。外に出た頃には、空には既に、赤みがかかっていた。
会場を後にする俺たちの顔は、何故か疲労一色だ。……あんなに危ういとは、月村手毬というアイドルは、想定以上に問題児なのかもしれない。
だが――良いライブだった。それだけは、間違いない。
「うかうかしていられませんよ、憧れの賀陽燐羽さん」
「……誰から聞いたのよ、それ。……まぁ、何故か憧れられてるのは、そうらしいけれど」
満更でもなさそうに、彼女は言う。……いや、本人は否定するだろうけれど。それでも俺の目には、間違いなくそう映った。
「月村手毬はユニットから脱却して――謂わば、羽化しつつある。このまま行けば……蝶の真似事をするだけの蛹を、彼女は越えます」
「……かもね。……なに、悔しかったらレッスンしろって?」
「いえ。悔しいなら、想定以上の効果ですが……俺が言いたいのは、月村手毬は、憧れの賀陽燐羽を越えるとき、一瞬たりとも手を抜くことはない、ということです」
彼女は何も言わない。なら、俺はさらに続けるだけだ。
「憧れは越えるものです、賀陽さん。思い出に耽って、真似事をするだけなんて、そんなの憧れですらない」
彼女はまだ、何も言わない。
「あなたが越えるんです。賀陽継を、あなたが。越えられるんです、あなたなら!」
何も言わない彼女は――ようやく、小さく口を開いた。
「手毬のやつ、ギリギリだったけど――本っ当にギリギリだったけど、一人で歌いきれるようになってた。……手毬のくせに、生意気」
「はい。あなたに勝つためですよ」
「……相変わらず、真っ直ぐで……最悪」
賀陽燐羽は、空を見る。夕暮れから、夜に向けて日が落ち出した空に――月は、薄くも確実に、輝いていた。
「あーあ。……なんで、負けたくないって思うのかしらね」
月を見る。いや――睨み付ける。太陽は今、この瞬間……月を敵と決めた。
「……教えなさい。『賀陽燐羽』としてステージに立ったら、あの子に勝てる? あの子の――憧れでいられるかしら」
「……いいえ」
否定をすると、彼女は目を伏せる。だが、俺が言いたいのは、そうではない。
「負けたとしても、憧れは、憧れのままですよ。それは、変わりません。あなたが何もしなくても、賀陽燐羽は、月村手毬の憧れであり続けるでしょう」
「……そういう、ものかしら」
「はい。きっと、
でも。そんなことよりも、大事なことがある。
「――どうせなら、勝った方がカッコいいですよ」
折角、憧れているのだ。折角、憧れられているのだ。
憧れを超えて、そして、越えられない憧れのままで居てやればいい。
正しいとか、間違ってるとか、そういうんじゃなく。
それはきっと、カッコいい。
……彼女は目を丸くして、俺を見た。
「ふぅん……確かに。初めて、あなたと意見が合ったわ」
「なによりです」
日が落ちるのは、一瞬だ。ものの数分で、まだ赤かった空が、黒だけで塗りつぶされる。
でも、明日にはまた昇る。太陽は、また人々を照らすのだ。俺はそれを、知っている。
「あぁ、もう。……ほんと、最悪」
そう言う彼女は、どこか楽しげで、笑っているようにさえ、見えた。
今日のプロデュース状況をメモしておこう。
ようやく、スタートラインに立てた。
ここから、気を引き締めて行こう!