あの「奇跡のハンバーグ」から数日。志歩の胃袋は、あの透き通った肉汁の味を忘れられずにいた。練習中も、ふとした瞬間にあの「風景が見える味」を思い出してしまう。
「(……ダメだ。完全に、胃袋を掴まれてる……)」
意を決した志歩は、放課後、咲希を伴って神山高校の校門をくぐった。
1. おねだり:プライドと食欲の境界線
神高の屋上へと続く階段。そこには、スケッチブックを持って夕空を見上げている星名がいた。
「……あ。さきちゃん、それに……志歩ちゃん?」
「せーちゃん! しほちゃんがね、せーちゃんに言いたいことがあるんだって!」
志歩は視線を泳がせ、ベースケースのストラップをぎゅっと握りしめた。彼女にとって、これは人生最大の敗北宣言に近い。
「……あの。……こないだのハンバーグ。……その、すごく……おいしかった」
「本当? よかった……。志歩ちゃん、元気になってくれたかな」
「ええ。……だから、その……もし迷惑じゃなければ。……また、作ってくれる? お金は、ちゃんと払うから」
星名は一瞬驚いたように目を見開き、それから春の陽だまりのような笑みを浮かべた。
「お金なんていらないよ。志歩ちゃんが私の作ったものを好きになってくれたのが、何より嬉しい。……また、今度作るね」
2. 旋律:屋上に響く「透明な音」
「お礼と言っちゃなんだけど、今度練習見に来る? ……なんて、私らしくないけど」
志歩が照れ隠しに目を逸らした時、ふと、星名が小さな声で鼻歌を歌い始めた。
それは、描きかけの夕景に色を乗せるための、無意識のハミング。
……と思われたが、その声が言葉を紡ぎ始めた瞬間、志歩の背筋に電流が走った。
「(……っ!? なに、この声……)」
彰人のような「熱」ではない。けれど、冷たいわけでもない。
まるで、星名の描く「背景」そのものが歌っているような、圧倒的な空間支配力。
志歩がハンバーグを食べた時に視た「透明な風景」が、今度は耳から直接、脳内に流し込まれてくる。
星名の歌声には、技術を超えた「祈り」のような響きがあった。それは、志歩がベースの低音で必死に守ろうとしている「レオニの居場所」を、優しく包み込んで肯定してくれるような音。
「……せーちゃん、やっぱりすごい。……あたし、せーちゃんの歌を聴くといつも、一番星を見つけた時みたいな気持ちになるの」
咲希が隣でうっとりと呟く。
志歩は言葉を失い、ただその声に耳を澄ませていた。
絵、料理、そして歌。この少女は、表現の形が何であれ、相手の魂の核心に触れてしまうのだ。
3. 結論:認めざるを得ない「東雲家」
歌い終えた星名が、「あ、ごめん。つい口ずさんじゃった」と恥ずかしそうに笑う。
志歩は深く、深く溜息をついた。
「……ハンバーグだけじゃなくて。……今の歌、録音していい? ……いや、やっぱりいい。今の、生で聴けただけで……十分」
「志歩ちゃん……?」
「……東雲さん。……あなたの人物画のこと、やっぱり怖いと思ってる。……でも、認めざるを得ない。……あなた、最高に……いい『音』をしてる」
志歩は、初めて星名の目を真っ直ぐに見て、微かに微笑んだ。
それは、芸術家同士が互いの「格」を認め合った瞬間だった。
その夜、志歩は彰人にメールを送った。
『あなたの妹、やっぱり化け物ね(いい意味で)。ハンバーグの予約、お願いしておいて』
返信はすぐに来た。
『……あ? なんでお前まであいつの毒に当たってんだよ。……まあ、わかった』
志歩の心境の変化
• 対・料理: 胃袋を完全に明け渡した。星名の料理を「練習前の景気付け」として欲している。
• 対・歌声: 「一歌とは違う方向の怪物」として認識。いつか自分のベースと合わせてみたいという野望が芽生える。
• 対・クリーチャー: ……これだけは別。歌を聴いている最中も、脳裏の隅で黄金の触手がリズムを取っていたのが、唯一の悩み。