ニーゴの作業が佳境に入ったある夜。奏は、パソコンの光だけが灯る自室で、朦朧とする意識のまま鍵盤に向かっていた。
食事を摂るのも忘れ、空腹すら感じなくなった時、玄関のチャイムが控えめに鳴った。
「……こんな時間に……誰……?」
ドアを開けると、そこには厚手のコートを着た星名が、温かそうな魔法瓶を抱えて立っていた。
1. 差し入れ:魔法瓶に詰めた「風景」
「……星名、さん。……どうして……」
「奏さん、すみません。……昨日のメッセージ、返信がなかったから。……きっと、また無理をしてるんじゃないかと思って」
星名は奏の顔色の悪さを見て、そっと家の中に上がり込んだ。
「奏さん、これ……飲んでください。彰人が、……あ、お兄ちゃんが、疲れた時にいつも『これなら食える』って言ってくれるポタージュなんです」
星名が魔法瓶の蓋を開けると、ふわりと、大地の香りと甘い香りが部屋いっぱいに広がった。
数種類の根菜と、じっくり炒めた玉ねぎ、そしてカボチャを丁寧に裏ごしした特製ポタージュだ。
2. 実食:涙と共に解ける心
「……いただきます」
奏がおずおずと、差し出されたマグカップを口に運ぶ。
一口飲んだ瞬間、奏の目が見開かれた。
「(……温かい。……それに、すごく……深い味がする……)」
それは単なる料理ではなかった。
舌の上で広がるのは、星名の風景画そのものだった。朝露に濡れた畑の情景、夕陽を浴びて輝く大地の力強さ。
カップ麺の刺激的な塩気とは対極にある、素材そのものが持つ「生命の音」が、奏の乾いた身体の隅々まで染み渡っていく。
野菜の甘みが喉を通り、胃に到達した時。奏の目から、ぽろりと涙が溢れ落ちた。
「……奏さん!? ごめんなさい、熱すぎましたか?」
「……違うの。……ただ、……誰かが、私のために、こんなに時間をかけて……『命』を分けてくれたのが、……すごく、嬉しくて……」
奏は、自分がどれだけ孤独な戦いの中にいたのかを、そのスープの温かさによって初めて自覚したのだった。
3. 休息:再び繋がる旋律
最後の一滴まで飲み終えた時、奏の頬には、久しぶりにほんのりとした赤みが差していた。
「……美味しかった。……ありがとう、星名さん。……なんだか、冷え切っていた指先が、動くようになった気がする」
「よかった。……奏さん、そのスープ、隠し味に『すりおろした生姜』を少しだけ入れたんです。奏さんの身体を、内側から温めたくて」
「奏さん。……明日も、また作ってきてもいいですか? 」
「……うん。……楽しみに、待ってる」
その夜、奏は久しぶりにパソコンを切り、星名から贈られた紺色のクッションに顔を埋めて、深い眠りについた。
夢の中で奏は、黄金色に輝くカボチャの畑を、星名と一緒に歩いている風景を視ていた。
星名のポタージュの秘密
• 素材の選別: 全国の農家から取り寄せた、無農薬の根菜を使用。
• 調理時間: 彰人の練習を見守る間、ずっと弱火でコトコト煮込み続けた「集中力」の産物。
• その後: 奏がこのポタージュの感想をまふゆに伝えたところ、後日まふゆも「……私も、飲んでみたい」と星名にこっそり相談しに来ることになる。