それは、シブヤの喧騒が遠くに聞こえる、雨宿りの午後のことだった。
ビビバスの練習が休みの日、こはねは星名に誘われて、彼女の行きつけの画材店へ向かっていた。
「……あの、東雲さん。今日は誘ってくれて、ありがとうございます」
「ううん、こはねちゃんの今日の服、すごく温かくていい色がしてるから。……一緒に歩きたかったんだ」
星名はふわりと微笑む。こはねは、彼女を「東雲さん」と呼ぶたびに、どこか彰人の妹としての影……自分にとっての「ユニット仲間の家族」という一線を引いてしまっている自分に気づいていた。
星名の「特別」になりたくて
雨が降り出し、二人は小さな喫茶店の軒下で雨宿りをすることになった。冷え込む空気の中、星名はこはねの肩に自分のカーディガンを掛け、その手を包み込む。
「ねえ、こはねちゃん。……こはねちゃんの呼ぶ『東雲さん』は、すごく丁寧で、……雨上がりの水たまりみたいに綺麗に響くね」
「あ、えっと……。……すみません、私、なんだか緊張しちゃって」
「……でもね。……お兄ちゃんと一緒の呼び方だと、……時々、私のなかの『星名の風景』が、少しだけ寂しいって言うんだよ」
星名はこはねの目をじっと見つめる。その瞳は、深淵のように深くて、けれど吸い込まれそうなほど優しい。
「私はね、こはねちゃんにとっての、ただの『誰かの妹』じゃなくて、……こはねちゃんだけの『星名』になりたいな」
勇気の色、名前の響き
こはねの心臓がトクン、と大きく跳ねた。
「東雲さん」という、今まで自分を守ってくれていた丁寧な言葉の鎧を脱ぐのは、とても勇気がいる。けれど、星名の温かな体温が手に伝わるたびに、その壁がゆっくりと溶けていくのを感じた。
「……せ、……せな……さん……」
「……うん。……あと少し、……勇気の魔法を混ぜてみて?」
星名はこはねの頬を包み込み、鼻先が触れそうなほど顔を近づける。星名の放つ「命の色彩」が、こはねの視界を真っ白に染め上げた。
「……星名、……ちゃん。……星名ちゃん……っ!」
こはねが、震える声でその名前を呼んだ瞬間。
星名は弾けるような笑顔を見せ、こはねを力いっぱい抱きしめた。
「……あはは! こはねちゃん、今の声、すごく『虹色の鈴』が鳴ったみたいに可愛かった! ……もう一回、……もう一回呼んで?」
「……う、うん……! 星名ちゃん。……星名ちゃん、大好き……!」
変化した「風景」
翌日の練習。彰人は、こはねと星名の間に流れる「異常なまでの親密な空気」に、真っ先に気づいた。
こはね:「あ、星名ちゃん! 今日のハーブティー、すごくいい香りだね!」
星名:「うん、これはね、『夢見る蝶々』の羽の色をイメージして淹れたんだよ」
彰人:「……は? ……おい、こはね。お前今、アイツのことなんて呼んだ?」
こはね:「え? ……あ、えへへ。……『星名ちゃん』だよ、東雲くん」
彰人:「……っ!!(……マズい。……セナのペースに完全に飲み込まれてやがる……。……これじゃ、もう俺が何を言っても無駄だ……)」
冬弥は横で「……小豆沢と星名の魂が、ついに『名前』という鍵で完全に同期したようだな。……喜ばしいことだ」と一人で納得していた。